NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan

不滅の言葉
1996年5号
自由の宗教ヴェーダーンタ
スワミ・ブターナンダ

   第二にわれわれは実在するものを確認したとき、実在ならざるものを放棄しなければならない。われわれは非実在であるものの奴隷であることをやめなければならない。放棄はわれわれが神への愛をどれだけ育てたかの試金石である。放棄は全く自発的な決意であり、われわれが自由に選ぶ企てである。強制と放棄とは意味の上で矛盾している。放棄における唯一の強制的要素は、自由を達成しようとするわれわれの個人的決意である。放棄はこの世界を軽蔑してはいない。それはこの世界の真の性質を理解し、われわれの価値評価を正しくする。それは全生命力を視野のうちにおさめる。それゆえ放棄は、霊的に言えば、われわれのうちにある最も真実なもの、最も純粋なもの、最も高貴なものに不断に前進するための唯一の手段をまさしく提供するものである。賢者たちは世界を軽蔑しない。この世界に魅力がない、とは言わない。ただかれらは、この世界では原因と結果の両方が経験される、というごとを指摘するだけである。

 そこにはカルマ(業)の法則がある。われわれのすることはその結果を生むであろう。われわれは自分の運命を決定するのだ。ここでもまた諸君は素晴らしい自由を見るのである。

 それから六つの宝がくる。六つの宝の第一は内面的静寂である。われわれはなぜ静寂を失うか? 静寂は自分の感情や境遇に対して統治権を持つことを意味する。われわれが自分たちの境遇や欲望の支配者でないとき、そのときわれわれは静寂を失う。静寂の秘訣は霊性開発へのひたむきな熱望である。われわれが霊性開発のために意識してみずからを捧げた程度に、その程度に応じてのみ内面的静寂がやってくる。ここでもまた、運命の決定はわれわれの手中にあるのだ。

 第二の宝は克己である。克己とは簡単に言えば心がわれわれに従わなければならないということである。普通は、心はみずからの欲することをわれわれになさしめる。われわれはいつも自分の心の奴隷である。これが反対になると、つまり、心がいわばわれわれの犬になると、われわれは克己を得たことになる。

 第三の宝は道心である。これは、われわれが感覚の奴隷になるのをやめたばかりでなく、自分のエネルギーを、霊性の開発をめざす創造的努力に意識的に向けることに成功した、ということをも意味する。それゆえ道心とは要するにアートマン中心の生活を送ることを意味する、と言うことができよう。

 忍耐は第四の宝である。忍耐を実践することによって求道者はわれわれを絶えず打ちのめす人生のいたでにまきこまれないですむ。換言すれば、われわれは存在の相対的な姿を超越し、非相対的なるもの、絶対なるもの、すなわちブラフマンを実現することができる。

 第五の宝は、求道者が経典で学んだ最高の真理を常に生きるようにかれを助けるような行、そのような行に向かって抑制された心を集中させることである。この不断の精神集中によって、無知から起こる頑固な習癖は破られ、人は徐々に霊の自由の中で成長する。

 経典の中で、或るいは師によって教えられる真理に対する聡明な敬意は第六の宝である。それは心の純粋さから生れる直観的洞察力の賜物である。心が純粋になるとはじめて、われわれは自分たちの全生命、大きな関心の的である自分たちの利得は真理に対するわれわれの尊敬の念の如何にかかっていることを理解する。真に無恐怖の人間のみが真理に対して尊敬の念を抱くことができる。そして心の純粋な人間のみが純粋に無恐怖なのである。それは多くのごまかしや多くの偏見、内的外的束縛を破壊することを求める。諸君は自由への強調を見ることができるか?

 そして最後にわれわれは第四の偉大な修行課目解脱への熱望にくる。肉体と心の囚人ではあるが、そこからの釈放を希うわれわれは、自分がすすんで認めたもの以外、いかなる制限も自分たちには課せられていないのだ、ということを認めるようになる。そしてこの限定された存在状態に対して嫌悪を抱くようになる。われわれは強烈に神を求める。これが神の姿を見るために必要な条件である。われわれの全思考、情緒および行動をもって神のみを求め、その他の何ものも求めぬこと、これが神への熱望である。そのとき、全生命力は途方もないひたむきさをもって炎のように神に向かって跳躍する。

 もしわれわれがこれらの修行を積めば、それはわれわれを何処に導くか? ジバンムクティ、つまりこの肉体に棲みながら解脱を得た状態、に導く。ウパニシャッドは言う。「ひとがもしここでアートマンを知れば、かれは人生の真実の目標に達するであろう。もしかれがここでそれを知らなければ大きな破壊がかれを待ちうけている。」この人間の生活を与えられながらそのうちにひそむ自由に決して思いつかず、それを決して求めようとしないほど大きな不幸があるだろうか? ここでウパニシャッドが言及している大きな破壊とは、この肉体とこの心のとりこになって、繰返される生死によるやむことなき苦しみにみずからを向かわしめることを指しているのだ。束縛から脱せよ! 全宇宙を照射する霊性の開発に伴なう驚くべき広大な生活を楽しめ! これがヴェーダーンタのよびかけである。

 ヴェーダーンタは人間に霊性開発の光をもたらし、人間を一歩一歩光に導いた。歴史をふりかえり、人間の思想の地平線一杯にひろがるヴェーダーンタの素晴らしい輪郭を展望せよ。われわれは先にヴェーダの時代、儀式の時代からわれわれがいかにしてウパニシャッドの時代に進んできたかを述べた。ウパニシャッドにおいては無恐怖と力と自由とに重点がおかれている。ウパニシャッドにおいては天に心を向けた宗教が初めて解脱に心を向けるものとなった。ウパニシャッドの時代のあと、われわれはスリ・クリシュナにくる。ギータの中でスリ・クリシュナは、人間の力を人間の存在の真実性を、霊魂の不滅を説いている。ここでも自由が強調されている。後に、人間の力、または霊魂に関するスリ・クリシュナの明法な解説は、インド・アリアン民族の民族意識によって曇らされてしまった。それからヒンヅー教の反逆児、仏陀が生れた。或る個所で仏陀は言っている。海水には、それを何処で味わおうと、一定の味がある、塩の味である、と。仏陀の教えのすべてに通じる一つの味がある、救い、または涅槃である。ここでも自由が強調されている。しかしやがて仏陀の素晴らしい福音は虚無主義と混同されてしまった。そしてやがて偉大な哲学者シャンカラが現われた。かれはヴェーダーンタの哲学を力説して人間に関する最高の真理を、至上霊と人間との一体性を、大胆に宣言した。かれは更に理性を自由に駆使してヴェーダーンタの真理を哲学的に証明した。シャンカラの哲学的方法論は真理の性質を自由に探索する人間の基本的な権利をきびしく主張している。しかしかれは警告した。一種の楽しみを与えるようなやり方で経典を研究してはならない。霊の自由を求めて努力せよ、と。しかし時がたつにつれてシャンカラの偉大なる教えは無味乾燥で筋の通らない知的趣味に堕落してしまった。それから、かの偉大なる神の恋人、ラーマーヌジャが現われた。かれは「主」への自己放棄という福音をひろめ、ヴェーダーンタに新しい方向を与えた。煩悩の束縛は頭脳のみで破壊しうると考えることはまた一つの束縛である。それはまたハートによっても押し流すことができるものである。自力は立派である。しかしそれの最高に熟した果実であるところの自己放棄も立派である。神の奴隷になることは神でないものの奴隷になることをやめることである。これは人生の諸々の束縛を破る最も容易な方法である。ラーマーヌジャはこの自由への甘美な道を示した。
 

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