NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan

不滅の言葉
1996年5号
自由の宗教ヴェーダーンタ
スワミ・ブターナンダ

   アートマンとブラフマンの一体性は一つの理論として提唱されたのではなく、実験的に実現されたものである。恐らく他のあらゆる科学的発見と同じように、最初はこの実現は偶然だったであろう。しかしウパニシャッド時代の勇敢な人々は霊的生活のこの事実を実験的方法によっても証明しようと決意した。その時代の歴史をたやすくたどることはできない。しかしその実験の結果はウパニシャッドに見ることができる。霊魂が至高霊と一体であるという事実を実現した後、賢者たちは、それぞれの霊魂がこの事実に接近しうるような種々の方法を考案した。これらの方法ほど科学的なものはなかった。われわれはかれらが精密な修行規定をもうけるまでに、どのくらい長く実験をつづけたか知らない。しかし、これらを考案している間にかれらは次のことをたしかめた。すなわち、自由意志によってなされたのでないものは、われわれを悟り、つまり解脱に導かない、ということを。束縛の下になされるものはわれわれを束縛に、より大きな束縛に導くであろう。それゆえ賢者たちは、自由から自由へ、小さな自由からより大きな自由へ、そして遂には前述の如き霊の実現にまで到達する道程であるところの霊的生活にふさわしいものであるように細心の注意を払ってこれらの修行方法を考案した。

 ヴェーダーンタの修行の全体糸の中に、諸君が容認せねばならぬ教理は一つも示されていない。重点は知性を鋭くすること、実在するものと実在しないものとを識別し得ること、および心を純粋にすること、におかれている。心の純化は精神統一の能力を開発するであろう。精神統一は諸君を瞑想に導き、瞑想は諸君をサマーディ、没我境、すなわち至上霊との合一を経験する状態に導く。

 ヴェーダーンタ哲学の基本的な証明について言えは、諸君はそこでも常に自由の観念に重点がおかれているのを見出す。真理の三つの証拠が認められている。賢者たちの経験を記録している経典と、理性-歪められた想像ではなく純化された心と知性が発揮する理性、および本人みづからの経験である。真正な経典は過去の時代に真理の探求者たちがその追求と探索の果てに知見したものを記録している。ひとは既に知られているものの光によって知ることができる。それゆえ経典は真理の証拠として認められるのである。また、純化された知性は妄想や執着や嫌悪から解放されている。そのような知性が発揮する理性は真理の一つの証拠である。しかし理性だけでは充分ではない。それはみずからの経験の正しさによって支持されなければならない。これら三つの中の何れもが自分だけでは真理の絶対的証拠とはなりえない。しかし合体されると、満足すべき、包括的な真理の証拠を提供する。理性や個人的経験を真理の証拠として認めることにより、真理の追求は、客観的な精査にたえつつもなお、同時に主観的に自由な仕事でありえた。

 ヴェーダーンタにおいては、悪魔または地獄またはその他のすぐれた生きもの等に対する如何なる種類の恐怖も培われたことがなかった。無恐怖ということに大きく重点がおかれた。賢者たちは、真理を知ることによって人は絶対的に無恐怖になると宣言した。原罪の代りにヴェーダーンタは、人間に本来具わっていて奪われることのない神性、について語る。永遠の破滅の代りに人間が、すべての人間が避けることのできない救いについて語る。諸君の救いは避けることができない。なぜなら諸君の本性は決して縛られることのないアートマンであるから。諸君の救いは既に達せられている。諸君がそれを知らないという事実その事実が束縛なのである。真理を達せよ。キリストが言ったように真理のみが諸君を自由ならしめるのである。

 さて、ヴェーダーンタの四つの修行課目を考察してみよう。それは第一に実在するものと実在しないものとの識別、第二に非実在の放棄、第三に六つの宝-内面的静寂、克己、道心、忍耐、完全なる精神統一、および真理の信仰、そして第四の課目は解脱への熱望である。もしわれわれがそれぞれの課目を注意深く分析すれば、それらの何れもがわれわれを束縛から自由へと駆り立てるものであることを知るであろう。

 まず最初にくるのが実在するものと実在しないものとの識別である。何が実在であり、何が非実在であるか? 真実の霊的生活とは、われわれに実在するものを発見せしめ、発見したとき、それを全霊をもって生きることを可能ならしめる一つの生活様式である。究極の真理を悟ったものたちは、ブラフマンのみが真実の、或いは永久の実体であり、これ以外の他の一切物は非永久的なものであるという自分たちの経験を記録に残した。さまざまな賢者たちが幾時代にわたってくり返してきた経験を通して、ブラフマンと呼ばれるこの一つの実在がある、という事実が決定的に確認されたのである。この実在に対するわれわれの関係は何であるか? この世界はそれとどのように関係しているか? 賢者たちはこれらの質問に対して自分たちの経験から答えた。霊的生活を新しく始めた求道者にとって、この知識は一つの理論的な知識としてやってくる。だがこの知識は算案であるか? 自分自身の生活の中ではたらかせた識別力によって、求道者はこの知識が真実であるかどうかを見出さなければならない。いかなる時にもいかなる変化もうけないという何ものかをかれは見出すことができるか? もしかれが完全なる無執着と無恐怖とをもって、物と思想、事実と力の探求を最後までつづけるならば、かれはブラフマンのみが実在であることを発見するであろう、とヴェーダーンタは言っている。人生に識別力が適用されたことは、真理に直面する準備ができたことを意味する。それはあらゆるごまかしや生半可な真実や虚偽や妄想や錯覚からわれわれを自由にする。それらを寸断してわれわれを真理の燃える太陽のど真ん中にすえる。識別とは、それゆえ、実在と称する自由へのわれわれの衝動を訓練するために設けられた高速道路である。
 

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