NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年4号

 ここで、私は一つの理論を提示しよう。それに就いて今は議論すまい。ただ結論だけをあなた方の前に提示しよう。各人はその幼少時代に種族が今日までに経て来たさまさまな段階を通過する。ただ種族はそうするのに数千年を要したが、幼児は数年しか要しない、幼児は初め古代の野蛮人であり--蝶々を足下にふみにじる。幼児は最初はその種族の原始的な先祖に似ている。彼は成長するにつれてさまざまな段階を経て彼の種族が達した進化に到達する。ただ彼はそれを素早く迅速にするだけである。ところで人類全体を一つの種族として考えてみよ。或いは動物的存在、つまり人間とそれより下等な動物たちとを一つの全体として考えてみよ。そこには全体がそれに向かって動いている一つの目的がある。それを完成と呼ぶことにしよう。人類の全進化を予期して生れて来る或る男たちや女たちがいる。彼等は人類全体がその完成に達するまで幾代も幾代も生れ替る代りにその生涯の僅か数年の間にそこを、言わば突進する。そして我々は、もし自分に真実であれば我々がこれらの過程を早めることが出来るのを知っている。幾人かの者が教養もなしに一つの島に生活するようにとり残されて最低限の食物と衣服と小屋を与えられても、彼等は徐々に前進して層一層高級な段階の文明を開発するであろう。我々はまた此の進化は手段を加えることによって促進させることが出来るのを知っている。我々は樹木の成長を助けるではないか? 自然にまかせておいてもそれらは成長するだろう。すこしばかり年数がかかるだけである。我々は放っておくよりもっと短い期間に樹木が成長するようにこれを助ける。我々はいつも同様のことをしている。事物の成長を人為的手段によって促進させるのである。我々は人間の成長を何故促進させることが出来ないのか? 種族としては、我々はそれをすることが出来る。教師が他の国々に送られるのは何故か? そうすることによって我々は種族の成長を早めることが出来るからである。ところで我々は個人の成長を促進させることは出来ないか? 出来る。我々はその促進に限界をもうけることが出来るか? 我々は人間がその一生でどの位成長し得るかを断言することは出来ない。あなた方は、人間はこの程度はやれるがそれ以上はむりだ、などと言う理由を持たない。環境は人間を素晴らしく促進させることが出来る。では、あなた方が完成に達するまでに何か限度というものがあり得るか? ない、ということになると、どういうことになるか? つまり完全な人間、即ち今から数百万年先に此の種族から出現する型の人間--が今日出現し得るのである。そしてこれが、ヨガ行者たちが、すべての偉大なる化身や予言者たちはそのような人、彼等はこの一生で完成に達した、と言うその人々である。我々は世界の歴史のあらゆる時代にあらゆる時期にそのような人々を持って来た。ごく最近にも全人類の生活を生きてその目的に達したそのような人間が此の世にいた。この成長の促進さえも法則の支配下にある。我々がこれらの法則を調査してその秘密を知り、それを我々自身の要求に適合させることが出来るとすれば、我々は成長することになる。我々は我々の成長を、進化を促進させて現世に於いてすら完全になるのである。これは我々の生活のより高い部分であって、心とその力の研究の科学はこの完成を目標としている。他人を金銭や他の物質的な事物で援助してその日々の生活を順調に暮らすことを教えるのは些未な事柄にすぎない。

 この科学の効用は完全な人間をもたらすことであり、物質界の手中にある玩具のような彼を、波から波に揺られて大海に漂流する浮木の一片のように、幾世代も幾世代も待たせないことである。この科学はあなた方が強くなることを、仕事を自然の手中にまかせるかわりにあなた方自身の手中に掌握することを、そして小さな生涯を超越することを、あなた方に求める。

 人間は知識に於いて力に於いて幸福に於いて成長している。我々は一つの種族として絶えず成長している、我々はそれが真実であるのを、完全に真実であるのを知っている。それは個人に就いても真実であるか? 或る程度までは真実である。しかしここでまた質問がやって来る。我々は何処に限界をもうけるべきか? 私は僅か数フィート先を見ることが出来るだけである。ところが私は眼を閉じて隣りの部屋で起きていることを見る男に逢ったことがある。あなた方はそれを信じないと言うなら多分三週間もすればその男はあなた方に同じことをやらせることが出来るだろう。それは誰にも教えることが出来る。或る人々はたった五分で他人の心中に起きていることを読みとることが出来るようになる。こうした事実は立証することが出来るのである。

 さて、こうした事柄が良実ならば我々は何処に限界をもうけることが出来るか? もし人がこの部屋の隅にいる他人の心中に起きていることを読みとることが出来るなら他の部屋にいる者の心も読みとることが出来てもよいではないか? 他の何処にいる者の心中でも読みとることが出来てよいではないか? 我々はできないと言うことは出来ない。我々はあえてそれが不可能だとは言わない。我々はただそれがどのようにして起るのか分らない、言うことが出来るだけである。物質科学者はこのような事柄は可能でないと言う権利はない。彼等はただ「我々には分らぬ」と言うことが出来るだけである。科学は事実を収集してそれらを概括し、原理を演繹して真理を述べる--それが凡てである。だが、もし我々がはじめから事実を否定してかかれば果して科学というものはあり得ようか?
 人間が獲得することの出来る力には限度がない。何かがその興味をそそるとそのものに没頭して他の事柄を無視するのがインド人の心の特徴である。あなた方は如何に多くの科学がインドで生れたかを御存知である。数学はインドで始まった、あなた方は今日でもサンスクリットの数字に従って一、二、三等々零まで数えている、それから代数学もインドにその起源を発したということもみな御存知である。重力というものもニュートンが生れる数千年も前にインド人に知られていた。

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