NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年4号

 あなた方はその特異性を見るであろう。インドの歴史の或る時期に於いてこの人間と心の問題が彼等の一切の関心を奪った。それは非常に魅力的だった。何故なら彼等の目的を果すのに最も容易な方法であると思われたので。ところでインド人の心は、心は法則に従って何でも一切のことをすることが出来る、と完全に信じたので、心の力は彼等の研究の最も大きな対象になった。おまじないとか魔術とか他の力とかそうした一切のものは格別異常なものではなく、彼等がそれ以前に教えていた物質科学と同じように規則的に教えられた科学であった。こうした事柄に対する確信がこの民族に力強く植えつけられたので物質科学は殆んど死滅してしまった。彼等の前に現れたのはこの一事であった。ヨガ行者の各宗派はあらゆる種類の実験をした。或る者は光に関する実験をして異る色の光が如何にして肉体に変化をもたらすかを発見しようとした。彼等は或る色の衣をまとい或る色の下に生活し、或る色の食物を食べた。あらゆる種類の実験がこのようにして行われた。他の者達は耳をふさいだり開いたりして音の実験をした。更に他の者達は嗅覚等の実験をした。

 こうしたすべての試みの背後にある観念は、事物の根底を掴んでその事物の精妙な部分に達しようということだった。そして彼等の或るものは実際に最も驚異的な力を示した。彼等の多くの者は空中に浮遊し或いは空中を通過しようと努力した。私はあなた方に私が西洋の偉大な学者から聞いた或る物語をしよう。この物語はその演技を実際に目撃したセイロンの総督が彼に話したものである。一人の少女が連れ出されて来て棒切れを従横に紺んで造られた床几の上に脚を組んで坐らせられた。彼女が暫くその上に坐っていたあとで見世物師が一つ一つその棒切れを抜き姶めた。そして全部引き抜かれた時その少女は空中に浮遊したまま残された。総督はそこには何か仕掛けがあるのではないかと思い、剣をひき抜き少女の下を荒々しくひっかき廻わしたが何もなかった。これは何であったか? それは魔術でもなければ何か異常なものでもなかった。それがこの特典性である。インドでは誰もあなた方にこのようなことは存在しない、などとは言わないだろう。ヒンドゥー人にとってはそれは当り前のことなのである。あなた方はヒンドゥー人が戦わねばならぬ時しばしば口にする言葉を御存知である。「おお、我々のヨガ行者の一人が現れ、彼等全部を迫い払うだるう!」それはこの民族の極端な信念である、手の中に、剣の中に、どんな力があるというのか? わけすべて心の中にある。

 もしこれが真実ならば、心にとってその最高の力を発揮することは充分な誘惑である。しかし他のすべての科学に於けると同様このことに於いても大きな成果を挙げることは非常に難しい。否、他の場合より一層困難である。しかも大抵の人々がこれらの力は容易に獲得できると考えている。あなた方は財産を作るのに幾年かかるか? そのことを考えてみよ。まず、あなた方は電気科学や技術を修めるのに幾年かかるか? そしてそのあと、あなた方は死ぬまで働かなければならないのである。

 さて、他の大抵の科学は固定されたもの、勅かぬものを取り扱う。あなた方は椅子を分析することが出来る。椅子はあなた方から逃げ去らない。しかしこの科学は心を取り扱う、心は常に動いている。あなた方がそれを研究しようと欲する瞬間にそれはそっと身をそらす、心は今一つの気分に浸っている。次の瞬間には多分異なった気分にある。絶えず変化しているのだ。こうした一切の変化の中にあって、それは研究され理解され把握され支紀されなければならない。だからこの科学は他の科学よりも更にどれだけ困難なことであろう! それはきびしい訓練を必要とする。人々は私が何故彼等に此の訓練を与えたいのかと尋ねる、それは全く冗談事ではない。私は此の演壇に立ってあなた方に話している。あなた方は帰宅するが何の利益も受けない。私も同じである。それであなた方は言う。「それでしまいか、ばかばかしい。」それをあなた方がばかばかしいものにしたいと欲したからである、私はこの科学についてはごく催かしか知らない。しかし、その僅かを三十年かかって獲得したのである。そしてこの六年間それを人々に語りつづけて来た。それを学ぶのに私には三十年もかかった。三十年という大変な努力をしたのだった。或る時は二十四時間のうち二十時間もそのために努力した。或る時は夜一時間しか眠らなかった。或る時は終夜働いた。或る時はもの音ひとつしない、人息ひとつしない所に居住した。或る時は穴の中に住まなければならなかった、そのことを考えてみよ。しかも私は殆んど少ししか或いは全く知らないのである。私はこの科学のころものすそに僅かにふれただけである。しかし私はそれが真実であり、広大にして素晴らしいものであることを知っている。

 さて、もしあなた方の中に此の科学を本当に研究したいと思われる方があるなら、その人は断固たる決意をもって、つまりその人が現世の仕事に打ち込むのと同様の、否それより以上の決意をもって始めなければなるまい。

 仕事はなんという多量の注意を要求するであろう。それはなんというきびしい親方であろう! たとえ、父、母、妻、子供が死んでも仕事は停止することが出来ない! 心が裂けても我々は我々の職場に行かなければならない。仕事の一時間一時間が死の苦しみであっても。それが仕事である。そして我々はそれが正しい、それが当然、と考える。

 この科学は他の如何なる仕事が必要とするより更に多くの刻苦勉励を我々に要求する。多くの人々は仕事に成功することが出来るが、この科学に成功することが出来るものは非常にすくない。と言うのは多くのことがそれを学ぶ個人の特異な体質に依存するからである。仕事に於いてはすべてのものが財産を作るわけにはいかないが、誰もが或る程度のものは作ることが出来る。そのように、この科学の研究に於いても、その真理性と、それを全面的に実現した人々がいるという事実とを納得する程度にその世界を垣間見ることは、誰にでも出来るであろう。

 これがこの科学の概略である。それはそれ自身の立脚地と見解とを有していて他の如何なる科学との比較にも応じる。山師や魔術師がいた。ごまかしがあった。他の如何なる分野に於けるよりも多くある。何故か? 仕事がもうかるものであれば山師やにせものが多くあるというのと同じ理由である。だからと言ってそれはその仕事が良くないという理由にはならない。それからもう一つある。あらゆる議論を聴くことは良い。知的体操であるかも知れない。素晴らしいことを聞くと知的に満足するかもしれない。しかしあなた方の誰でもそれ以上の或るものを学びたいと本当に欲するなら、単に講議に出席するだけでは駄目である。それは講議では教えることが出来ない。それは生命であるからだ。生命のみが生命を伝達することが出来る。あなた方の中でそれを学びたいと本当に決意された方があれば私は喜んでその人を援助するであろう。

--一九〇〇年一月八日於ロスアンゼルス--
全集第二巻

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