NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年4号

 ひるがえって人類の偉大な指導者たちの上をみると、物を言ったのはその人の人柄であった、ということを我々はいつも発見する。過去のあらゆる偉大な著述家達、即ち偉大な思想家達を例にとってみよ、ほんとうのところ、どれだけ多くの思想を彼等は思考したであろうか? 人類の過去の指導帯達によって我々に残された一切の著作をとりあげてみよ。それらの書物を一つ一つとりあげて評価してみよ。現在までに此の世界で思考されて来た新しく純粋なまことの思想はごく僅かなものだ。それらの書物の中に彼等が我々に残した思想を読みとってみよ。著者達は我々の目には巨人とは見えない。しかも我々は、彼等がその時代において偉大な巨人であったことを知っている。何が彼等をそうあらしめたか? 彼等が思考しえた思想ではない。彼等が書いた書物でもない。彼等がした演説でもない。それは今は既に去ってしまった他の何ものかであった。つまり彼等の人格である。私が既に述べたように、人の人格が三分の二で、その知性、言葉は三分の一にしかすぎない。我々に伝わって来るのは真実の人間、その人の人格である。我々の行為は結果にすぎない。人間のいるところには必ず行為がある。原因のあるところ必ず結果が伴う。あらゆる教育あらゆる訓練の理想はこの、人間を造る、ということでなければならない。しかし、そうする代りに我々にいつも外側を磨きあげようと努力している。内側がないのに外側を磨きあげることが何の役に立つか? あらゆる訓練の目的、目標は人間を成長させることである。影響を与える人間、いわば魔法をなげかける人間は力の発電機である。そしてこの人がその気になる時には、欲することは何でもなしとげることが出来る。その人格が何ものに働きかけても、それは必ず相手を働かしめるであろう。

 さて、御承知の通りこれは一つの事実であるのに我々の知っている如何なる物理的法則もこれを説明するものではない。どうしてそれを化学的物理的知識によって説明することが出来よう? どれだけの酸素と水素と炭素が--相異る位置にあるどれだけの分子、細胞等がこの神秘な人格を説明することが出来よう? しかも我々はそれが事実であることをみている。そればかりでなく、それこそが真実の人間であるということを知っている。生き、動き、働くのはその真実の人間である。影響を与え、仲間を動かし、過ぎ去って行くのはその真実の人間である。彼の知性、書物、仕事はその背後に残された痕跡にすぎない。このことを思え。宗教の偉大なる師と偉大なる哲学者とを比較してみよ。哲学者達は人の内的生命には殆んど影響を与えなかった。それでいて彼等は最も素晴らしい書物をあらわした。一方、宗教の師たちはその生涯において国々も動かした。その相違は人格によって造られたのだった。哲学者においては影響を及ぼすものは微弱な人格である。偉大な予言者達にあっては、その人格は巨大である。前者にあっては我々は知性にふれるが、後者の場合は生命にふれる。前者においてはそれは単なる化学的な過程であって或る化学薬品をまぜ合わせるようなものであり、それは徐々に結合して適切な状況下で一条の光を発するか、或いはまた失敗するかも知れない。後者にあっては、それはたいまつのようなものであり、素早くはしりまわって他の者たちにあかりを点す。

 ヨガの科学はこの人格を開発する法則を発見したと主張し、且つ、これらの法則や方法に適切に従うことにより各自はその個性を発育強化することが出来る、と主張する。これは偉大なる実践的事柄の一つであって、一切の教育の秘訣である。これは普遍的に適用し得るものである。家長の生活に於いて、貧乏人、金持ち、実業家、霊的な人々の生活に於いて一切の人々の生活に於いて、この人格を強化するということは実に偉大なことである。我々も知っているように、物理的法則の背後にかくれた非常に精妙な法則がある。つまり、物質界とか精神的世界とか霊的世界とかいうが如きものは存在しないのであって、存在するものは一つである。それは一種の次第に細くなる存在とでも言えようか。最も重濁した部分が此処にあり、それは次第に細くなって層一層精妙になっていく。最も精妙な部分が我々のいわゆる霊であり、最も粗雑な部分が我々の肉体である。そしてそれはこの小宇宙に於けると同様、大宇宙に於いてもまさにこの通りである。我々のこの宇宙は全くこれと同じである。宇宙は最も粗雑な外側の重濁した部分であり、それは層一層精妙なものとなって遂に神に達する。

 我々はまた、最も偉大な力は精妙な部分に宿るのであって粗雑なものに宿るのではない、ということも知っている。我々は一人の男が巨大な重量を持ちあげるのを、その筋肉が盛りあがるのを、その全身には努力のしるしが現われるのを見る。そしてその筋肉は力強いものだと思う。しかしその筋肉に力をもたらすのは細い糸のようなもの--神経であるこれらの糸の一つが筋肉に達するのを遮断されると筋肉は全く活動することが出来なくなる。これらの小さな神経はその力を更に一層精妙な或るものからもたらす。その或るものも順次にその力を更に一層精妙な或るもの--思いからもたらし、この関係は更につづく。だから、実際に力の座であるのは精妙なものである。勿論、我々は粗雑なものの中には運動を見ることが出来るが精妙な運動が起ったときにはそれらを見ることが出来ない。粗雑なものが動いた時にはじめてそれをとらえ、かくて当然、粗雑なものが運動する、と思いこむのである。だが、すべての力は真実には精妙なものの中にある。我々は精妙なものの中に如何なる運動も見ない。多分その運動が余りにも強烈で感知できないのであろう。しかし、何かの科学、何かの研究に助けられて我々が表現の原因であるところのこれらの精妙な力を支配することができれば、表現そのものも我々の意のままになるであろう。湖底から小さな泡が昇ってくる。我々はそれが昇ってくる間はそれを見ない。それが湖面で破裂した時にのみそれを見る。そのように我々は思想が充分発展し、あるいはそれが行為に移されてからのみ思想を知覚することが出来る。我々は自分の行為や思想を支配することが出来ないと言って絶えず愚痴をこぼす。しかし、どうしたらそうすることが出来るか? もし、我々が精妙な運動を支配できれば、思想をその根源で思想になる前に、行為になる前に支配することが出来れば、我々は全体を支配することができるであろう。そこでもし我々がそれらの精妙な力、つまり原因を分析し、調査し理解し、最後にそれらと取り組むことが出来る方法があれば、その時にのみ我々は我々自身を支配することができるであろう。そして自分の心を確実に支配できるものは他のすべてのものの心も支配できる。この故に純潔と道徳が常に宗教の目的だったのである。純潔にして道徳的な人間は自己を支配している。そして一切の心は同一であり「一つの心」の相異る部分である。一片の土を知るものは宇宙にある一切の土を知る、自己の心を知りそれを支配するものは一切の心の秘密を知り一切の心を支配する。

 さて、我々がもし精妙な部分を支配することができれば、我々は多くの肉体的な悪を取り除くことが出来よう。もし精妙な運動を支配できれば、多くの心配ごとを除くことが出来よう。もしこれらの精妙な力を支配できれば、多くの失敗を避けることが出来よう。ここまでは功利性の問題である。だが、功利性よりももっと高級な或るものがある。

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