不滅の言葉 97年5号
私たちは、放棄は単に精神的な放棄であることも、精神的放棄に伴った外面的放棄であることもあると、言った。そのどちらがより偉大なのであろうか。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、ある一連の全授業をカルマ・ヨーガの講義のみに捧げ、各人はそれ自身のあり方においてそれぞれ偉大であると説き、そのような質問が無意味であることを示した(全集一・三六―五一)。理想的な出家僧と理想的な家住者との間で、外面的な生活様式に違いがあるかもしれないが、内面的には、両者とも同一である。シュリ・ラーマクリシュナの直弟子で、偉大な家住者の聖者であった、シュリ・ナーグ・マハーシャヤが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダに会いに来た時、
「それは、一方は、古代の家住者の理想の最高のタイプを代表し、他方は出家主義の新しいタイプの理想を代表する、二つの偉大な力の合流のようであった。一方は神への陶酔で狂喜しており、他方はあるゆる人間の内部に住まう神を出現させるという使命に夢中になっているが、両者は、その内面的なサンニャーサと悟りという点においては、同一である」(東西の弟子たちによる「スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯」2vols.Calcutta:Advaita Ashrama,1981,2:427)。
この広大な宇宙の中で一人であるというあなたの悟りが火花となって、無執着の精神に点火するのだということを、今や私たちは理解した。無執着の精神が強くなるにつれ、それは人生の慣れ親しんでいる流れからあなたを切り離す。あなたの生活は異なったものとなってくる。もはや、あなたは、世俗的なつまらないことに耽ったり喜びを感じたりすることが出来なくなる。世俗の人にとって価値があると思われるすべてのことが、あなたにとっては、価値なきものとなる。あなたは、自分が世界から根こぎにされているように感じる。あなたの周囲では、何億という人々が、世界の中にしっかりとその根をおろしているのが見える。その安全性が実際には欺瞞的なものだとしても、彼らがそこで安全であると実際に感じているのをあなたは見る。しかし、世界におろしているあなたの根は、無執着の斧で切り離されていることを、あなたは知る。根を失って、あなたはどのように生きていこうというのか? あなたから一組みの根が取り除かれたなら、必ず、別の一組みの根を探さねばならない。このようにして、放棄は自動的にあなたを次の段階、すなわち新しい根の探究へと導いていく。
(1)『ギーター』は「世界樹」(アシュヴァッタ)はしっかりと根差し、無執着の強力な斧でしか断ち切ることはできないという。(十五・三)
根の探究
すべての宗教は根本的に、神、世界、個人という三つのことを扱う。これら三つが互いにどのように関連し合っているかを定義し、世界の創造の意義と個人の目標が何であるかを定義する。無知――神と世界との私たちの関係の真の性質に関する無知――これが人生における根本問題である。問題をさらに複雑にしているのは、私たちは、無知であるばかりでなく、神と世界との一種のゆがんだ関係をも作り上げてしまっていることである。私たちが「至高の実在」すなわち神への方向を見誤り、私たちの周囲の世界の方向に向かってしまう原因は、この歪み――ヴェーダーンタではヴィクシェーパと名付けている――にある。放棄の精神は、どこかで何かが間違っているという気づきから始まる。あなたは直感的に、あなたのこれまでの人生は、あまりにも狭く、浅薄にすぎていたと感じる。あなたは、あなたと世界との関係、世界の中のあらゆる生き物や事物との関係のあり方が不十分であったと悟る。今やあなたはそれを退ける。あなたはそれをぷっつりと切り捨てる。それが放棄である。すでに述べたように、それは内面的な過程にすぎないかもしれないし、それに続いて形式的な放棄が生じ、出家僧としての生活が生じるかもしれない。
残っているのは何か? 神である。あなたの根の探求が実りあるものであるならば、あなたは神を探し求めなければならないということを悟る。この探究は何を意味しているのだろうか。あなたや私が神を探し出さねばならないからといっても、神は確かに、どこか雲の上に隠れているのではない。ここで「探究する」とは、「発見する」ことを意味している。あなたはすでに神と関係しているのである。その関係がどのようなものであるかを発見しなさい、そうすれば、あなたはあなたの根を見い出したのである。あなたと神との間には永遠の関係が存在している。事実、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、宗教とは「永遠の魂と永遠の神との間の永遠の関係」であると定義している(全集3:4)。ひとたびすべての世俗的な価値から自らを切り離したからには、あなたの為すべきことは、この「永遠の関係」とは何であるかを発見することである。ヴェーダーンタの教師たちは、この関係が何であるかを知るためには、まずはじめにあなたが誰であるかを知らねばならないと言っている。その時初めて、あなたは――すなわち真のあなたは――あなたの根を探究し始めることができる。
私たちが放棄について述べたことに戻って考えてみよう。あらゆる世俗的な価値や関係や交流に無執着になるということは、正確には何を意味しているのだろうか? そのような無執着はいつ完全になるのだろうか? これに答えるためには、あなたは、もう一つの問いを自らに問わねばならない。すなわち、「私を世界に結び付けているのは何か?」という問いである。その答えはただ二つのもの、すなわち私の身体と心である。放棄の精神の火があなたの内部で荒れ狂い始める時、外見上では、あなたは外部世界に属する人々や物事から自らを切り離すように思われるかもしれない。しかし、事実はこうだ。つまり真の無執着は、実際には、直接的に眼前に見える所よりも、より魂の根源近くの身近な所で起こっているのである。あなたの世界への無執着の度合いは、あなたがあなたの身体と心に無執着になる度合いに比例している。あなたが自らを身体や心と同一視することが、あらゆる執着の根源なのである。この同一視が消え去った時にのみ、あるいは少なくともそれが弱まった時、その放棄は自然で自発的なものとなる。......................