NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan

不滅の言葉
1996年4号
ヴェーダーンタを知る(二)

クリストファ・イシャウッド

   さて、理論はさておき実践に移るとして、実際にはどの様にして我々は自分の本性の方にふり向き、その実在を確認すべきなのであろうか? 二つの方法がある、とジェラルドは言った。第一は自覚の妨げとなるものを除くような態度で生活すること。第二は冥想の規律正しい実修である。

 自覚への邪魔ものは耽溺と所有と自負の三つに分類された。(ジェラルドは几帳面な心の持主で、宇宙の真理を整然とした形で表現するのがすきであった。)耽溺(これはその中に嫌悪をも含んでいる。つまり喫煙癖からネコ嫌いに到る一切のものを含んでいるのである。)は彼の言う所によるところの三つの中では最も害の少ないものであった。自負は最悪のものであった。なぜなら、あなた方が一切の執着と一切の不必要な所有物とから自由になった時、あなた方のすべての敵を赦し、すべての愛する者たちにさよならを告げた時、一切の名誉ある地位を辞し高貴な肩書を用いることをやめた時--その時にそしてその時になって始めて、あなた方は一切の邪魔ものの中の最悪のものとなり得るところの霊的高慢のとりこになり勝ちなのである。

 この「計画的生活」インテンショナル・リヴィング(これもジェラルドの好んだ言い廻し)の大部分は自己訓練に関係しているものだから、その性格が消極的にみえるに違いない。自覚を得るためのある人の努力の積極的な面は冥想の実修の中に見出されるのであった。この当時ジェラルド自身は一日に六時間づつ冥想していた。朝二時間、昼二時間、夜二時間である。彼はこの実におそるべきスケジュールをごく軽く扱い、自分の場合にはこれが最少限度だ、と言っていた。起きている時間中の少くとも六時間、「このもの」を絶えず思い出すようにしていないと、彼はそれとの接触を全く失ってしまうおそれがあったのだ。この事に対するはっきりとした結論は我々他の者達に任された。

 ジェラルドは冥想中、実際には何をしていたのだろうが? 何について考えていたのだろうが? ジェラルドはこれらの質問に対しては明確には答えたくないようであった。それは個人的な問題だ、と私は判断した。そこには一般的なルールはなかった。各人はおのれの気質と要求とに応じてその方法を発見するのであろう。ジェラルド自身はスワミ・プラバーヴァナンダから指導を受けていた。もし頼めば、彼は私にも指導を与えるであろう。当分、私が「このもの」の探求をまじめに決意するまでの間、短時間の静座を実修しても悪くないだろう、とジェラルドが言った。冥想しようと「努力する」必要は少しもない。ただ一日に二回、朝晩、十分から十五分間静かに坐ればよい、というのであった。「このもの」を思い出し、またそれが何であるが、何故私がそれを欲するのかを思い出せ、というのであった。

 それならやろう、と私は言った。そして時折実行した、このような冥想あそびは私を、それ以来今日に到るまで殆ど経験したことがない程の興奮で満たした。早朝や夕方の闇の中、部屋の一隅の床の上に坐り、そして自分は自分自身であるところの未知なる者に直面しているのだ、と感じることは最も心を刺戟する経験であった。これは無意識者との一種の恋愛遊戯であった。恋愛遊戯が常にそうであるように、最後に「それについて何かをする」という可能性によって興奮させられるのであった。

 一方私は次第に熱心にジェラルドの考えに耳を傾けるようになった。彼の教えの中で私の心をつよく打ったのは、独断論のないことであった。結局「やってみて自分で発見せよ」というのがいつでも彼の言うことであった。以前には、私は宗教すなわちドグマであり、命令であり、断固とした宣言である、と考えていた。いわば宗教すなわち「教会」であると考えていた。教会はこれをなせ、さもなければ呪われよ、という様なその独断的結論をそしてあなた方はそれを全面的に受けいれるか、またはそれを悉く排斥するか、二つの中の何れかを選ばなければならないのである。然しジェラルドがすすめたのは実践的な神秘主義、経験と観察にもとづく「自分でそれをなせ」式の宗教であった。人は各自の方法でみずから事物を発見すべく出発し、全く独立していた。キリスト教会はこの種の研究に対しては常に何となく懐疑的かつ非友好的な態度を取ってきた、というのが歴史上の事実である。然しながら教会も、この種の探求者達のある者が聖者である、という事実を次から次へと容認しないわけには行かなかったのである。

 ジェラルドは始めにたった一つの主張をした。それは実際には「真の自我は知ることができる。」という一つの作業仮設にすぎなかった。もし、この主張のよりどころは、と尋ねれば、それは他の人々、すなわちマイスター・エックハルトや十字架の聖ジョンやラーマクリシュナのような、この窮極の自覚を成就した過去の偉大な見神者たちの経験である、と答えたであろう。(ジェラルドの話にはこの様な名前が沢山出てきた。その大多数は彼らが一体誰であるか、ことにジェラルドが礼儀正しく私がすでに知っているものと仮定して話をすすめるものだから、私はそれらを知る機会を掴むことができなかった。ラーマクリシュナという名は最も屡々口にされた。勿論私はそれがインド人であることは判ったが、それ以上はまことにあいまいで、ジェラルドやハクスレーの知り合いであるクリシュナムルティと混同したり、後にインドの大統領となる偉大な学者ラーダークリシュナンと混同したりした!)

 然しジェラルドは、何事も決して頭から信じないように、求めることを忘れなかった。「このもの」を自分で試みる、ということは絶対に必要であった。もし相当の期間を経ても尚、何ものをも見出さなかったなら、すべては嘘だ、そしてかの偉大な見神者たちは気違いか偽善者である、と言っても差し支えないわけであった。これが彼の挑戦であり、それはこの上なく公平なものである、と私には思われた。興奮し、熱意を以て私は尋ねつづけた。どうして今まで誰も私にこのことを教えてくれなかったのだろう? 勿論この質問は不合理なものであった。私はすでに幾回となく「このこと」を聞かされていたのだ。私の生活のあらゆる瞬間が「何のための人生か?」というこの謎と、「人生の意義を学ぶだめである」というその答えを内在させていた。私が遭遇したあらゆる出来事とあらゆる人々は何かの新しい形でこの問いと答えを提出するか、または遠まわしにそれを示していた。ただ私に聴く準備ができていなかったのだ。私の怠惰と躊躇にもかかわらず遂にその準備ができた理由は、いまここに述べた通である。

 準備はできた。然しもし外界の出来事からの圧迫がなかったなら、私はもっと長いこと実行をのばしていたであろうと思う。ジェラルドのいわゆる「世界の真の獣性」は夏が盛りとなるにつれていよいよ判然とし、平和への望みは並々うすくなった。戦争を希望していると想像される一部の人々を除き凡ゆる人々にとって実にいやな時であった。希望しない他の数百万人と同様に、私は不吉な予感に吐き気を催した。この危機が私の生活にどのような影響を及ぼすのか、それについて我々が何をなそうとしているのか、私は知らなかった。然し自分の内部に何かの力と信仰を見出さねばならぬ、ということは知っていた。不可知論的禁欲主義を以て、まわりから追って来るものに直面することは到底できなかった。非常に勇敢な者たちだけが禁欲主義者であり得るのだが、彼らしいえども屡々自殺に終るのである。
(つづく)
 

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