NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan |
不滅の言葉
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1996年4号
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ヴェーダーンタを知る(二) | ||
クリストファ・イシャウッド |
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これは知的な確信による回心の物語ではない。一対人が純粋な理性のみによって何かに信服するというとがあるだろうか? そう、純粋な理性の導きによって数多の電気トースターの中から一つを選ぶ、というこしはあるだろう。然しそれは決して我々の生命の決定的な確信に到達するための道ではない。適正な師は、寸分違わず適正な瞬間に適正な場所に現れなければならない。そして彼の弟子は彼の教えを受け容れるに適わしいムードを持っていなければならない。その時に。そしてその時にのみ議論と理性はその力を充分に発揮することができるのである。我々は誰でもこのことにはたしかに同意することができるではないか? それでありながら、実に多くの自伝作家達が、すべての決定を理性的に行ない、知的な確信に従って意見の変更を行なう生きものである如く自分を表現して波らの物語を歪めている。私はここでこの様な誤りを犯したくないと思っている。 そこで私は先ず始めに次のことを明らかにしなければならない。即ち私はジェラルドを、その数ヵ月の間に一度ならず繰り返し繰り返し私の直観のリストにかけたのである。それはたしかに絶対に間違いないというテストではない。然し、長い眼でみれば、数学的確実性こそないが我々が満足し得る最上のものであった。注意深く彼を観察して(彼が人目を惹く文句を使ったり巧妙な類推をしたりすることが好きな点や強烈な影響力を持つ彼の声の美しさなどは十分考慮に入れた上で一利はn分に向かてこう言わざるを得なかった。「いや、彼は私に向かっても自分に対しても嘘を言っているのではない。そして彼は気違い、でもない。私はこの男を知っている。彼は私と同じ言葉を語り同じ価値を認める男だ。もしこの事が彼にとって真理なら私にとっても真実であるに違いない」ということを認めなければならない。 私はジェラルドに会うためにわざわざ三千マイルを旅して来たのではあるけれど、「ジェラルドが正気なら自分は彼の思想を無視するわけには行かない」というこの思いはやはり私の心をかき乱すものであった。私はそれらを研究し、多分実践してみなけれはならないであろう。私がそうすることをジェラルドは期待している、と私はみた。彼は、貴重な新入生、いわば一人の助手の来着を待つような気持で私の来着を持っていたものらしかった。彼はおだてるようにこうほのめかした。ごく僅かの人々しか「このもの」(彼が好んで使う彼の研究の対象の呼び名)のところにはやって来ない。一寸でも興味を持つのは一万人に一人、そしてその様な人々一万人の中のたった一人がそれについて何かを為しとげるであろう。「この世の真の残忍性があなたを傷つけ始めた時に(あなたの手をドアにはさんでつぶすように)はじめて、その時にはじめて、あなたはこの一歩を踏み出す準備かできたということになるのである。」 どのような一歩か? 多くの年月を経た今日、私は、自分か当時ジェラルドのしていることをどの様なものであると思っていたのか全体ヨーガがどの様なものであると想像していたのか、はっきりとは思い出すことができない。ある種の修法、きっと秘法の研究(それが何であろうと)や水晶占い、そして多分、上達すれば生きながら土中に埋められることもできるような呼吸法の練習などを併せ行なう悪霊の魔術のようなもの位に考えていたのであろう。おそらく何であるかをはっきりと心に描くことすらした事がなかったのだ。私はただ嘲笑していたのである。 ジェラルドかこんなにも心を打ち込んでいるこの「ヨーガ」は、運命判断や水晶占い魔法などとは全く関係の無いものだ、ということを私はいま知った。ハタ・ヨーガという小さな一分派が呼吸法を実修していることは事実だが、ジェラルドはこれを行なっていなかった。スワミが許さないのだ。それらは度を過ぎて行なうと危険であり、幻覚を起すおそれがある、と彼が言うのだ。(「そのスワミは誰だ?」と私は尋ねた。「スワミ・プラバーヴァナンダである。僕は君にさっそく彼に会って貰いたいと思う」とジェラルドが答えた。) ヨーガはサンスクリット語であり、英語のヨーク(かせ)の語源である。本来「合一」という意味を持っている、とジェラルドは説明した。ヨーガは、人が神との合一をとげるための一つの方法--数多ある方法の何れでもよい--である。 (多分実際にはジェラルドは、私の教化のこの段階に於ては神という言葉は使わなかったと思う。彼はそれを避けるほど十分に賢明であった。私のようなキリスト教からの避難民にとってそれがどんなに不快な言葉であるかを、自からの経験によってよく知っていたのである。その上、ヨーガにおける「神」はキリスト教における神の概念とは全く異ったものである。これについては後に話そう。) ヨーガ哲学は、我々は二つ自我、即ち目にみえる外面的な我と、目にみえない内的自我とを持つ、と教える。目にみえる自我は一つの個人であることを、従って他のすべての個人たちとは別個の存在であることを主張する。それは自分を一つの名前で呼び、自分自身の利益を求め、常に変化する状況にしたがって心配したり、快活であったり、おそれたり、大胆であったり、欲ばったり、憤慨したり、空腹だったり、のどが渇いたり、眠かったり、寒かったり、暑かったり、健康だったり、病んだり、若かったり、老いたりする。真の自我は不変である、不死である。それは個別性を持たない。なぜならそれは、あらゆる人間、生物、植物、鉱物及び生なき物体の中にひとしく存在する。別な言葉に言えば、私自身の内部には自から無限であるが故に「無限者」につながることのできも部分があるのだ。それはあたかも、湾内の海水が海であるが故に大洋に接しているようなものである。 それ故、ヨーガはあなた自身の性質を探求する道、それが本来何であるかを見出すための方法である。あなたの真実の立場を自覚する方法である。日常の時間空間的「真実」(我々の感覚器官または毎日の新聞を通して我々に知らされる通りの)はほんとうは少しも真理ではなく、それは致命的な、しかも巧妙な幻想である。ヨーガの冥想の実習はつまり、我々のこの幻の世界の意識すなわちうわべの真理をできる限り追い出し、心を内に向けてその本性を探らしめるものである。我々の本性は生命と一つであり、意識と一つであり、この宇宙間の他の一切物と一つであるべきである。 一体であるという事実がまことの状態である。仮想された個別性、分離性、区分性は単なる幻でもり無知である。自覚は愛によって増大し、憎しみによって弱められる。愛は一体感を強化し、憎みは分離感をつよめるからである。それ故他人に対するすべての積極的な感情動作は最も自分のためになり、すべての否定的な感情動作は結局は自分を害することになる。 ジェラルドがなぜ非戦論者でなければならなかったのは上述によって明らかであろう。彼の立場では、それが如何に部分的な、そして用心深く限定されたものであろうとも、とにかく軍事力を支持するということは彼の根本信念を否定することになるのだった。然しながらジェラルドの非戦主義は、示威運動やハンストや他の非暴力戦術のような政治運動はよろしいとする例の非戦論者たちからは充分非難されそうなものであった。かかる人達はたしかに彼を静観主義者、この世界が突入せんとしている破局に対して余りにも消極的な傍観者であるとみていた。一九三九年から四五年までの戦争中、事実ジェラルドは当局との間に難しい問題を起した若い良心的な反対論者たちには常に同情とよき助言とを惜しまなかったけれども、彼自身は生来、哲学的に言えば「離れ」ていた。彼は政治活動の効果を殆ど信用していなかった。すでに眼前に現れている世界に対しては、この危険をさけるとかかの利益を得るとかいう様な我々の自由意志は働かないのだ。(我々はそれが働くと希望的に想像するけれども)ということを常に我々に思い起させた。否、行動の何れの瞬間にあっても我々は手も足も縛られているのだ。なぜなら我々の現在の問題はすべて自分達の過去の行為と思想によって作られたものなのであるから。自分達がすでになさざるを得ないようにしてしまったものはすべてなさねばならないのである。現在の生活の中で、我々は未来の作成に働きかけることができる。現在に対しては何もすることはできないのである。現在の瞬間に自由意志が適用されるのはこの範囲内に於てである。我々の上にたとえ何事が起っていようとも、我々は常に自分の本性から顔をそむけることもできるしその方にふり向くこともできる。それの実在を否認することもできるし承認することもできる。その存在を忘れることもできるし覚えていることもできる。我々は自分をそれの方により近づけるよう行動し思想することもできれば自分達をそれから遠ざけるように行動し思想することもできるのである。 |
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