NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年3号

ヴェーダーンタを知る(2)
クリストファ・イシャウッド

 さて実際問題として、この戦時下のシナの訪問は私に莫大な益を与えた。第一にそれは戦争という概念に対する私の神経病的な恐怖を減少させた。まったく、交戦地域を通っての我々の旅行は真実非常に危険なものではなかった。爆弾か砲弾で殺されるおそれがあると一寸でも思われた様な場合はたった三四回であったと思う。然しごく小さな危険が心理的には長くひびくものである。しばしば私は恐怖した、けれどそれは病的な恐怖心ではなかった。私はもはやわけの判らぬ恐怖を感じたり、同じ環境の中で自分が他の人に比べてひどく見苦しい振舞をするのではないかとおそれたりするようなことはなかった。
 第二に、シナ訪問は私を政治的な主義主張の世界から、一時私が見失っていた人間価値の世界へつれ戻した。シナで私は十才そこそこの少年達が徴発されて前線の塹壕で働いているのをみた。空襲で殺された老人達の死体をみた。私は毒ガスによる壊疽のために死にかかっている兵隊達の肉体から発する腐臭をかいた。戦争は主義によって始まるが民衆によって終る--しかも通常、その主義には殆ど関心がない、または全く関心を持たない人々によって終るのである。これは私が今まで見落していた明白な事実であった。そして、俄然それに気がついた時にはこの明白な事実ほど人の心をつよく打つものはない。私は、たとえそれがどんなに高尚でも正しくても、いかなる主義であれそれを護るためにこの人々が死ぬべきであるなどという事は自分には言えない、と思った。まったく、この不幸と死に比較したら、正と邪に関するこの様な問題はすべてアカデミックで見当違いと思われた。私が軍隊を政治活動の一手段として許されるべきであると容認したのは感情と想像力の欠如から来た誤りにすぎなかった。私の知ったことは少くとも私自身の関する限りに於ては真実であった。他の人々のことは何とも言えない。もし彼らが戦争の正しさを心底から信じた上で生命をかけて自分達の誠心を証明しようとするのであるなら、私は彼らを尊敬し、我が道を行く上に彼らの勇気を模範とするように努めるであろう。然し将来私自身は誓って反戦論者でなければならない。
 (ちょっとここで或る一つの事をはっさりさせておかなければならない。私はここでふつうの反戦論を主張しようとしているのではない。私は、一連の環境の変化に関連してひきおこされた私自身の気持を描写しているのであり、その目的はただ私がヴェーダーンタの思想に触れるに到ったいきさつを説明することにあるのだ。それ故読者は憤慨して「もしお前が絶滅の危機にさらされている少数民族の一員であっても尚かつ反戦主義者であると誇称することができるか? などと詰問される必要はない。私はそれには答えることができない。そういう境遇に立ったことがないから判らないのだ。)
 遂に私自身にもはっきりとして来たところによると私の決意は以上の様なものであった。一九三八年の秋は我々のすべてにとって混乱の一時期であった。ミュンヘンの最高潮と最低潮とがあった。スペイン政府崩壊の悲劇があった。これは外からだけでなく内部から破壊されたのである。連合軍は互いに相手の反逆を非難し、はっきりしていると思われた政治体制の線がますます歪んで行った。全般的な戦争もなしに、ナチ台頭の可能性が明らかになって来た。
 ミュンヘン危機の間は、ものをはっきり考えるという事ができなかった。聴衆に向かって最近のシナ旅行について話し、それによって日本の侵略に対するシナの武力抵抗に加担している限り、私にはものをはっきり考えるということができなかった。然し、ニューヨークへの航海は私のこの強制された活動を中断した。私は自分の立場について自問するひまを与えられたのである。
 こうして私は自分が反戦主義者であるという事実を確認した。もし戦争が始まっても私は戦うことを拒むであろう。それが今後の自分に残された唯一の道であった。つまり否定、である。なぜなら、いま始めて理解したのである.が、私の全政治的立場、即ち左翼的ファシスト的立場は武力容認の上に立つものであった。私がくり返し唱え、かつ生きがいとして来たスローガンはすべて本質的には軍国主義的なものだったのである。よろしい、すててしまえ、だが何が残ったか? 私は、自分の情熱を政治問題からとり戻して個人の問題に向けるべきだと自分に言いきかせた。私はもう一度、私自身の価値を持ち私自身の完全性を持つ個人になろう。この考えは挑戦的に響き、また私を興奮させた。然し同時にそれは、私を当惑させるような質問を提出した。その価値というのは一体何であるか?
 一九二〇年代の半頃、まだ私がごく若かった時、私に自分の理想として、一九世紀ロマン派の作家達によって示されているような「芸術家」の像を心に描いていた。「芸術家」はひとりで立つ、これは彼の悲劇であり、また栄光でもある。彼は、その知覚のすぐれた精妙さのゆえに、一般群衆からは独立する。それだから彼の仕事は通常誤解されたり非難されたりする。彼は軽べつされ、迫害され、飢餓にさらされ、時には獄につながれたり殺されたりもする。彼がすべてこの様なめにあうのは見たままの真実を偽ることをしないからである、ボードレールはその有名な詩の中で詩人を一羽のあほう烏にたとえている。その巨大な翼が彼をして退屈な日常生活を象徴する大地を歩かしめたいのである。彼は神に捧げられた聖なる存在として描かれている。--殉教者であり、彼なりの行き方で一個の聖者なのである。
 ややあって一九三〇年代の始めには、友人達の大部分と同じように私は社会主義政治運動に入った。我々は今や、重大なことは大衆の貧困と悪である、と宣言した。我々の芸術の目的はこの事実を公けにすることであった。我々は弊害を暴露し、暴君達と搾取者達を攻撃せんと欲した。我々は平和と豊かさと平等と社会正義のあるもっと幸福な時代への道を指し示そうと欲した。我々は理想主義的社会主義者であった。批評家達が我々を宣伝家と呼んでも我々は誇らしげにこれに同意した。「すべての芸術は宣伝だ。それは意識的或いは無意識的に、保守的ある
いは進歩的の何らかの哲学を表現せざるを得ないのだ。我々の宣伝の長所は進歩的で意図的であることだ。」と我々は答えた。
 我々は一般大衆と被搾取階級の福祉に関係していたから、少数者に対する我々の態度は批判的敵対的にならざるを得なかった。大衆的でないもの私的なもの一切は我々の嫌疑の対象となった。今や我々は「芸術家」のロマンティックな理想を嘲笑した。彼の私的感受性や大衆からの疎隔はもはや我々に印象を与えなかった。彼の窮境はノイローゼの結果にすぎない、と我々は断定したのである。
 これが一九三〇年代の私の哲学であった。いま私はそれをぬぎすてて、現在間違った定義を下されている或る種の個人主義の方に傾きつつあったのである。自分が欲しないもの、自分が容認できないものだけが自分にはっきりわかっているように、私には思われた。
 私はもはや「大衆」とか「一般民衆」とかいう概念の前に自己を卑下する此の態度を容認することはできなかった。マゾヒズム(被虐待淫乱症)的であり、不まじめであった。自分は今まで社会的不公平の犠牲者達への正当な関心と、無益でしかも偶像崇拝的な多数者なるが故の大衆崇拝、とを混同していたのだ、と私には思われた。実際には私は大衆を好んでも尊敬してもいなかったし、彼らが常に必ず正しい、などと信じてもいなかった。私は単に彼らを恐れており、それゆえに彼らをなだめようと思っていたにすぎないのだ。「一般民衆」については、(もしこのような生物が存在するものとすれば)私は彼らが常に人生についての優れた叡知を持っているに違いない、などとは考えなかった。彼らが私に教えることのできるものもあるだろうという事を認めることはいまも躊躇しなかったが、然しいまは私は偽りの謙遜をかなぐりすてて、私が彼らに教えることのできる多くのものがあることを主張した。我々のうちのどちらの方にせよ、なぜ相手に対して自己卑下などをせねばならないのか?
 然し、私はより少く政治的でより多く個人的な生活をすることを提案はしたけれど、もはや再び昔のような個人主義に戻ることはできなかった。自分が違まりに政治にまきこまれていたことを、いや、間あった形でまきこまれていたことを発見したけれども、自分のまわりの世界で起りつつあることをあえて無視することは絶対に許されない、ということをいまの私は知っていた。
 それに、私はもはや例の「芸術家」を自分の理想とすることはできなかった。もはや「芸術」を人生の決定的な目標としていないことにいま気がついたのである。たしかに、私はいまも書物を書こうとしていた。然し、もう書くこと自体だけに満足することはできなかった。書くことは私の時間の大部分を占めるかも知れない。然しそのことが私の精神的支柱、すなわち宗教であるというわけには行かなかった。
 「宗教」その頃はまだ、この言葉をきくと私はどれ程嫌悪に身をすくませ歯ぎしりをした事だろう。私は二十才で無神論者の真言をしたのだが、三十五才になろうとするいまもその意見を変えてはいなかった。自分が考えを変えることがあろうなどとも思っていなかった。私はすべての人に向って、宗教は悪い、迷信的な、そして反動的な世迷い言である、それを宣伝する者は進歩と人類の敵である、と断言するのをはばからなかった。
 然し、私は宗教という言葉で何を意味していたのか? 結局、赤ん坊の時洗礼を受け、十代の少年として堅信礼を受けさせられた英国国教会を通して私がお目にかかったものを意味していたのだ。私はヒンズー教徒、仏教徒、回教徒などは単に絵の様な異教徒たちと見なすだけで、彼らを「宗教的」だなどと考えたこともなかった。
 私はキリスト教を、私が教えられたキリスト教を嫌悪した。なぜならそれは二元論的だったから。神はいと高き天にましまして我々、すなわちここ低きにある罪深き動物的な民たちを冷酷なる正義に基いて支配した。かれは善良であって我々は悪しき者たちであった。我々は、神が我々の許に遣し給うたかれの独り子イエスを十字架にかける程の悪人であった。二千年近く前に犯されたこの罪のために、世々末代に到るまで人は神にゆるしを乞わねばならなかった。熱心に懇願し、心から罪を悔いれば、我々が、本来所属するところの地獄に投げこまれる代りに煉獄に送られ、遂にはそこから天国に行けるかも知れないのであった。

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