ヴェーダーンタを知る(3)
クリストファ・イシャウッド
こんな神の概念に誰が反逆せずにおられようか? と私は憤慨して叫んだ。誰がこの圧制を嫌わずに居られようか? この短い一生の間に救いと破滅のどちらかを取れという、彼が我々に課したこの試練のむごさを誰が非難せずにおられようか? 柔和という偽善的な仮面をつけてやって来て、彼を殺害するという罪にまで我々を誘惑すべくわな作りに専念した悪玉分隊長のようなかれの「ひとり子」を、誰が嫌わずにいられようか? このようなところが私の提出した疑問であり、それに対する私自身の答えは「奴れいのみがこの様な宗教を受け容れるであろう」というものであった。キリスト教の地獄に行けば、かつて生きていた一切の正直な人々、勇気のある人々に会えるはずであった。もし地獄があるなら、私はそこに落されることを誇りとするであろう。
然し地獄は存在しない、と私はつけ加えた。そして法律をつくり刑罰を与えるような神も存在しなかった。一切は明らかに校長や警察官たちによって作られた物語であり、彼らの病的な罪の観念と厭世観との産物であった。
自分のまわりにいるキリスト教信者たちをみた時、私は彼らをば、自分達の教会の地位と特権をおびやかされないようにすべての社会改革に反対し、また自分達の説く様々の禁令が不必要なものであるということを人々が発見しないようにすべての個人の自由に反対するところのじめじめしたそら念仏の偽善的行者たちや無知と反動の宣教師たちの集まりと見なしたいと思った。私は彼らの荘重さ、謙虚さ、ユーモアの欠如、彼らの神について語る時の一種特別の声の調子などを嫌悪した。私は、すべてのキリスト教信者たちは内心では禁ぜられた快楽にふけりたいと思っているのだが憶病のために、体裁を思うために、または無力のせいでそれを実行に移さないでいるだけなのだ、と信じた。あるいはそう信じるふりをした。私は牧師が誘惑に負けた話や僧や尼が秘密の恋愛事件をおこした話をきくのを喜んだ。彼らに対する私の敵意は際限がなかった。同時に私は、みずから立てた標準に従って身を持するのに自分は宗教などを必要としない、と激語した。自分を制するための「十戒」と呼ばれる途方もない中世紀的おばけの恐ろしさなど、私には必要がない、というわけであった。
このような大げさな反抗は或る程度、権力というものに対する恐怖心を私の心に植えつけた少年の頃のある経験から生まれたものであると私は確信する。たしかにこの問題に関する私の反抗の荒々しさはヒステリーに近かった。けれどこれは本文に述べようとする事実に関連してはそれ程重要なことではない。なぜなら私の偏見はノイローゼ的ではあったかも知れないが、因習的なキリスト教には当然与えられてもよい妥当な批判にも触れていたから、それらは決して全部が間違っているというわけではなかった。私がこの哲学上のゆきづまりを打開して新たな道を発見する前には、それらを正しく検討する必要もあった。