ヴェーダーンタを知る
クリストファ・イシャウッド
一九五八年の二月、私はラーマクリシュナの伝記を書き始めようとした。私はその冒頭の数章を自叙伝にあてて私自身がどの様にしてラーマクリシュナを知るようになり、更に彼の信者となるに到ったかを説明すべきであると断定した。私の考えは次の通り、即ち、自分は最初書物によってではなく一人の友人を通じてかれを知ったのである。自分の場合かれとの接触はいわば、友達の友達を知るようになった、というものであって、知的というよりはむしろ情緒的な経験であった。それ故、自分としてはこの経験を他人に説明するには個人的な記事という形式をとるより仕方がないのだ、というわけであった。
この様に断定して私は仕事に取りかかり、ここに掲載する文章を書いた。然し、書き終った時に私は自分が間違っていたことを発見した。二つの理由によって、この文章はラーマクリシュナの伝記の緒言とするにふさわしくなかった。第一には、私はラーマクリシュナと読者との間に自分の個性を割り込ませようとしていたようであった。第二に、ヒンズーの哲学理論と信仰とについての私の説明は時を得ていないようであった。それらはラーマクリシュナの物語の進行中に適当な箇所に於て少しづつ読者に与えられるべきであって、物語が始まりもしないうちに、大きな御馳走のかたまりとしてかれの口中につめ込まれるべきものではなかったのである。
そこで私は出直して、自叙伝的な緒言なしにいきなり彼の伝記から出発した。然しながら私は最近この原稿を一度読み返したあとで友達にみせた。私達は、これはあの「ヴェーダーンタが私に対して意味するもの」という論文集に収まっている私の論文の大きくふえんした説明として、別に出版するだけの値打があるだろう、という結論に到達したのである。読者はこの中に、あの論文中に現れる思想や章句の幾つかを見出されるであろう。またスワミ・プラバーヴァナンダと私との共訳のバガヴァド・ギーター英訳書の中に載せられている「ギーターと戦争」という論文から採択した箇所も見出されるであろう。これらを除けば、この材料は全く新しいものである。発表にあたって誤りを正し、現代に適応させるために多少の削除と改訂とを行なった。
一九三九年一月の終に近い頃、私はW・H・オーデンと一しょにイギリスから船でニューヨークに着いた。なぜアメリカに来たのだろうか? 多分旅行を止めることができなかったのであろうと思う。私は絶えず不安におそわれていた。ヒットラーが権力を握り、その結果として私がようやくわが故郷と思い始めていたドイツを去って以来六年間、この自動装置は動きつづけ、スウェーデンからスペインに到る内ヨーロッパの一周から一九三八年オーデンと共に行なったシナヘの旅行に到るまでの六年間の放浪となった。そして、次に動く先は当然アメリカ、というわけだったのだ。我々は前の年、極東から帰りにこの国をざっとメロドラマ的にべっ見した。桜をざっと上下し、方々のパーティーや酒場に出没し、バウェリーの安酒場でけんかを眺め、マクシン・サリヴァンがハーレムで唱うのをきき、七月四日には「コニー・アイランドに行った、大部分の旅行者達の様にニューヨークが即ち合衆国であると思い込んで、散々マンハッタンの悪口を言いながらイギリスに帰ったのであった。
然しながら、いまニューヨークに戻って来たクリストファは、もはや五カ月前にここを去ったクリストファではなかった。なぜなら大西洋を横切る間に自分が反戦主義者であることを自覚したからである。
自分がすでに反戦主義者であったことを発見したと言った方がおそらくよく当っているであろう。何れにせよ消極的な意味に於てである。私がそれ以外のものであることをどうして想像することができたであろうか? 私が記憶する限りの最初の反抗の感情は、私の父が正規の将校として属していた大英帝国陸軍と、深切心から第一次欧州大戦とそこにおける私の父の戦死とを美しい立派なものとして私に信じこませようと努力した最初の寄宿学校の先生とに向けられた。私の父は自分の生と死によって私に軍
人稼業を嫌うことを教えたのである。私は父がフランスに立つ前に私に、将校の劔はパンを焙るため以外に役に立つものではない、と、言ったのを、また自分はピストルを命中させることができないし銃声が嫌いだから撃ったことがない、と言ったのを憶えている。彼は攻撃を指揮しながら戦死したが、部下に方向を示すための杖しか持っていなかった。私は常に父の一市民としての徳、彼の柔和、彼のユーモア、彼の音楽と美術の才能などを思いつづけて彼の思い出を崇拝した。戦後の世界に成長して、私は戦争をひき起した古い人々を嫌悪することを学んだ、旗や軍服や戦争記念物は私を怒りにふるえさせた。それが私を恐怖で充たしたからである。私は戦争の思いによって恐ろしくおびやかされ、またそれゆえに心の奥底では戦争にひきつけられた。
ところが一九三六年に一つの戦争が勃発した。始めのうちそれは正と邪との間の明確な論点を提供しているかにみえた。スペインの内乱である。私は自分の友達、及びイギリスの作家達の大部分に同調して共和政府を支持した。我々は、この政府が絶対に正しいのだから敵に勝つためには与えられた如何なる手段を用いても差し支えないのだ、と信じた。そこで私の反戦主義は一時忘れられ、友人連と一しょに私はソ連が同盟軍として民衆戦線に入って来るのを歓迎した。我々の大部分は三十年代の始めにモスコーの反逆才判で示された不正からは衝撃を受けていたのだけれども。オーデンはすでに戦争の初期に一度スペインを訪ねていた。一九三七年の終頃、同政府の主張に同情するイギリスの作家美術家達の代表団の一員として、私はオーデンと共にマドリッドを訪問する準備を整えた。然しこの訪問はスペインの権威者達によって幾度も延期せしめられ、そのうちオーデンと私は出版社から極東の何れかの国について一冊の本を書くという契約を申し込まれた。そこで我々は一九三八年一月にツナに向かって出発することに決めた。シナはその頃日本人の侵入を受けたばかり、民主的(多少とも)な政府がいわれのない侵入者に襲われた。という点でいくらかスペインのそれに似通う境遇にあった。
私はすでに、戦争を土俵際まで行って眺めたいという自分の欲望の動機の一つを指摘した。自分の恐怖の魅力、多くの人々が猛獣狩に行きたいという時もっているに違いない動機である。勿論この他に普通の健康な興奮及び放浪癖もあった。そしてまた、侵入の犠牲者達に対する純粋な関心と、この不正を世界中の人々に知らせたいという願いもあった、--そうだ、少くとも多少はこの気持もあった。