NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年1号

瞑想に坐る前に(3)
スワミ・アショカナンダ

    (五)
 七、私が今まで論じて来たことは凡て大切な予備行為である。これらは我々の生活の日々に実践されるべきものであって、霊的探求を始めた時だけに実践されるべきものではない。これらを正しく実践する者は任意に自分の心を完全に内部に引込めることが出来る。何故なら彼は自分の心を完璧に制御し得たからである。しかしあなたがたがこれらの実践を充分に身につけるまでは、あなたがたの多くは瞑想にあたって心が平静に達するまでに或る時間を必要とするかも知れない。この事実は注意深く熟慮さるべきである。もしあなたがたが瞑想の直前に多くの事を大急ぎでしたり考えたりするなら、あなたがたはどんな成功を期待することが出来よう?

 瞑想に入る前の暫くの間はあなたがたは平静になるように努め、自分は世間から隔絶している、そして世間には何のかかわりもない、と感じるように努めるべきである。夫として、妻として、母として、父として、子供として、その他あなたがたには多くの義務があり、あなたがたの注意を促す数千の事柄がある、神に近づくときあなたがたは何を為すべきか知っているか? あなたがたは世界があなたがたにとって決して存在しなかったかのように神の許に行くべきである。夫も、妻も、両親も、友人も、国もかって何ものも持ったことがないかのように。これが瞑想時間中の正しい心の持ち方である。

 永遠の感情をもって瞑想に接せよ。瞑想に於いて誰が一番成功するか? 瞑想の時に他との完全なる隔絶を実感することの出来る者である。あなたがたはこれが何を意味するかを理解するか? 永遠とは何であるかを想像してみよう。それは時間を、従ってあらゆる現象を超越している。それは--もし状態と呼ぶことができるなら--相対的な事物がなにひとつ存在しないところの一つの状態である。永遠なる「主」を考えようとするとき、あなたがたはまず最初に凡ゆる他とのつながりを超越しようと努力する。あなたがたはこう言わねばならない。「わたしには体がない。心がない。時間と空間は消失した。全世間は消滅した。神のみが存在する」と。その時に始めて心は神の恵みあふれる存在を感じせしめる微妙な知覚を得るだろう。こういうわけであるから、瞑想の場所に入る前に、あなたがたは相対的な一切物を外に残して行かなければならない。

 我等の僧院では非常に厳格な僧侶たちは、訪問者に妻や夫や子供や俗世間の事柄に就いて、それが如何に重要なことであろうと語ることを許さない。これは彼等が人がその義務を果たすのに賛成しないからではなく、心が霊的であるためには永遠者の資質を分け持たなければならないことを知っているからである。実際、一日のうちいつかは、あなたがたが完全に他と隔絶していると感じる時がある筈である。何故なら他と隔絶しているのがあなたがたの本来のすがたであるからだ。あなたがたは人々と関係があるように見えるけれども、あなたがたは此の関係は永遠なものではないということを知っている。あなたがたの本性は他との関係のないものであり、この関係のない状態において、あなたがたは瞑想に入らなければならない。

 八、以上詳述した条件を満たすことによってある程度の真実な霊的進歩はみることができる。然しここで私はあなたがたに、瞑想をも含む凡ゆる霊的修業は真理に対する熱烈な渇望という一事に依存する、ということを告げなければならない。あなたがたにはその渇望があるか? あなたがたは言うかも知れない、「わたしはそれを感じない。だから瞑想をして何の役に立つのだ」と。だが、その渇望を造りだすことは不可能だろうか? 神に対する心の渇望は故意に刺激し得るものである。如何なる手段に依ったにせよ、一旦心が神を求めるようになったなら、その感情は自発的に生じた場合に劣らず真実である。もしあなたがたが自然に渇望がやって来るのを待つならそれは決してやって来ないであろう。この渇望は必須のものであるからぜひそれをつくりだせ。最初、あなたがたの心は動揺するだろう。しかしこのような心の不安定に意気沮喪するな、就中、あなたがた自身を敗北させるな。

 例えばあなたがたが少年であって近所にいる他の少年がいつもあなたがたをおどかそうとしているとせよ。彼にはそうする権利はなく、あなたがたは彼が実際には臆病者であることを知っている。取るべき適切な手段は何であるか? あなたがたは自分は生れつき虚弱であり彼と戦うことは無益であると考えてその乱暴者に屈するだろうか? 否、あなたがたは自分の内部に雄々しい気持ちを故意にかきたてるだろう。「僕は彼にいじめられることを拒む」と。あなたがたがこの次に彼に直面するとき、その気持ちは或る程度衰えるかも知れない。が、それにも拘らずあなたがたは何とかして正面から彼を見すえるだろう。そして彼に挑戦するほど勇敢になるであろう。あなたがたは雄々しくなり、「これが僕の本性なのだ、僕は本当に強いのだ!」と云うだろう。

 我々は凡ゆる瞬間に於いてこれと同様に行動している。学校や大学で技術を修得したり知識を得たりする場合、我々は度重なる努力によって成功する。最初は我々が獲得しようとするものは我々の身についていないのであるが、一度熟達すると、それは我々自身の本質的な一部分であるように思われる。このことは霊の生活に於いて更に一層真実である、従って我々はそのように努力しなければならない。初めは凡ゆるものが困難に思われる。そしてあなたがたは言う、「わたしの性質はほんとうはどうなのであろうか? わたしはまさに宗教的ではないのかも知れない。わたしは恐らく霊的にはできていないのだ」と。

 私も同じように考えた時期があった。或る障害が私には余りにも大きく、それを除去することは不可能であるように思われた。それから私は、自分は真実には肉体でも心でもなく霊である、自分の目的は自分の霊的自我の実現である、ということを思い出すのだった。私は、自分がもしその障害をいま克服しないなら、ただ課業を将来に延期するだけであるということを知っていた。それなら何故直ちに行動してそれを終らせないのか? 私は、自分の幸運は自分がこの考えにしがみついていたからである、と本当に言うことが出来る。全く、時々私はこの努力を放棄したい気持ちになった。だが、そのあとすぐ私は「自分の霊的運命から逃れることは出来ない。それ故それを今実現しよう!」と思いなおすのだった。
 強い憧憬と信仰は瞑想の実習には非常に大切である。と言うのは神に対する熱烈な渇望と信仰がなければ瞑想には心がこもらず、みのりもないからである。自分のしている事に興味がもてない場合には、それは単なる形式となり努力は間もなく放棄される。

 もしあなたがたが人格神を信じるなら彼に祈れ。私が「人格神」と言うのは、身体を持つ神を言うのではなく、自意識のある、そして我々の「父」であり「母」であり「友」であり「主」であり遍くいますところの宇宙の「創造者」を言うのである。神は我々の祈りを聴く。丁度子供たちが両親に接するように、我々は全幅の信頼をもって「彼」に接することが出来る。人格神を信じ「彼」を愛することは瞑想を容易にするだろう。層一層、思いを「彼」に集中せよ。「彼」のために事をなせ。霊の生活の成功は、凡ゆる想念を凡ゆる感情を、凡ゆる精力を神に集中することにある。

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