NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年1号

瞑想に坐る前に(4)
スワミ・アショカナンダ

 九、どの様にしてあなたがたはそれをするか? あなたがたが話をする時は、神に就いて話せ、あなたがたが歩く時は神の宮へ行け。あなたがたが自分の手を下して働く時は神に仕えるために何かをなせ。体と心の凡ゆる機能はとにかく神に捧げられなければならない。もしあなたがたが神殿の代りに事務所へ行かなければならないなら、あなたがたの事務所を神の宮となせ! もしあなたがたの仕事が正直ならそれはしてもよろしい。もし不正直なものならその仕事を変えよ。たとえ変更が飢餓への直面を意味するとしても、あえてそれに直面せよ。勇気--これは常に必要である。次のことを忘れるな、即ち、世界を創造した者はいまもなおその背後に居て決して我々を飢えさせはしない、ということを。もし我々が本当に真理を欲し、それ故に不正で不真実なるもの一切を進んで放棄するなら、我々は「真理」を求めたために損するようなことは決してないであろう。物事は我々が希望するように起るのではなく、それは最低の苦労と最大の利益をもたらすように起るのである。

 もしあなたがたの職業が正直なものであるならあなたがたは確かにそれを神の為の仕事と見なすことが出来る。あなたがたが机に向っていようと家事に従事していようと、あなたがたの仕事の性質が何であろうと、神を瞑想せよ、あなたがたが日中になした仕事を、外面的にはそれは雇主に捧げられたものであるけれども、神に捧げよ。あなたがたは二十枚の手紙をタイプしてそれをあなたがたの雇主に渡したか? 彼に署名をさせるがよい。しかしその後で眼を閉じて凡てを「主」に捧げよ。あなたがたはかくしてあなたがたの思いに新しい変化を与えるであろう。確かにそれは違ったやり方である。それは初めはやや異常に見えるかも知れないが、とにかくやってみよ。すこしづつ深い意味が啓示されるだろう。あなたがたはこの実習が最初考えていたものと違うことを発見するだろう。それはものすごく効果的になるであろう。

 このようなやり方で、我々が他人のために或いは自分のために何事でもする時には、我々はいつもそれを「主」のために為しているのだと考えて差支えない。そのとき人生の一切事は霊的活動に転換し得るのである。意識的に、慎重に、直接神に捧げる仕事をなし得る者が若干いるだろう。彼等はなんと幸福な人たちであろう。だからこそ人々は念入りな礼拝を行うのである。だからこそ彼等は花を育て、それを祭壇に捧げるのである。香をたき、蟻燭を灯すのである。あなたがたは多分そのような実践は好まないだろう? だがそれではどのようにして一日を過すのか? あなたがたは時間と精力が小さな自我のために浪費されているのを見ないか? あなたがたのすること一切を神に捧げる方がもっと良くはないか? この心持から儀式が生れたのである。この心持から人々が礼拝の為に供物を捧げる寺院が世界に建てられたのである。

 しかし私は凡ての者が儀式を実践すべきであると主張するのではない。各自がその霊的傾向に従って礼拝しなければならない。しかし何らかの形で、あなたがたは自分の思いを、感情を、行為を「主」に捧げる方法を見出さなければならないであろう。そうすればそうするほどあなたがたはますます「彼」に接近するだろう、あなたがたがその時に瞑想に坐れば、他の凡ての事柄は忘却されて神のみがあなたがたの胸裡を満たすだろう。

 一〇、恐らくあなたがたは理性によって霊的真理の実在性を確かめることを習慣としているだろう。しかしあなたがたがこれらの真理を自分で直接体験するまでは、あなたがたにとっての最大の祝福はこれらの真理をみずから実現した者に逢うことである、と申し上げたい。あなたがたは霊的真理の証明は理性や議論や如何なる種類の外面的論証にも依らないことを御存知である。その証明は、自分がみずから実現した真理を語る人の言葉にこもる誠実な確信にある。他の人々は意見を異にするかも知れないが、私はこれが我々の依存し得る唯一の客観的証明であると思う。

 もしそのように解脱を得た者が私に向かって「我が息子よ。お前はこの体でもない、心でもない。霊がお前の本性である、不死の、永遠の存在が、真実のお前なのである。すぎ去るものはお前に属していない。深奥部に透入するように努めよ。お前の真実の自我を実現するように努めよ」と言ったら、私は彼の言葉を受け入れ、それにもとづいて行動せずには居られないであろう。彼が語るにつれて彼の声の中にある何ものかが私の胸裡に深く沈んでいくだろう。私はそれに抵抗することが出来ないであろう。

 あなたがたの凡てが、その唇からこのような言葉を吐く人を見つけることが出来るようにと、私はどれほど希うことであろう! そのときあなたがたはその言葉を疑うことも無視することも出来ないだろう。そして自己の本性に対する確信とその輝かしい目的に対する確信があなたがたの内部に大きく成長するであろう。一時は失敗があなたがたを絶望させるかも知れない、だが結局、あなたがたは言うだろう「よろしい、もう一度やってみよう」と。そしてあなたがたは勝利をおさめるのである。
    (六)
 私は瞑想に先立って何を為すべきかをあなたがたに語った。あなたがたの心は私が列挙した様々な方法の凡てを取上げることによって一層神に近づくであろう。結論として最後に二、三強調したい点がある。あなたがたに要求される仕事は何でもなせ。しかしそれを神に向けよ、そうすればあなたがたの心は動揺しないだろう。超脱せよ。あなたがた自身を永遠と同一視せよ。そうすれば瞑想はきわめて容易になるだろう。あなたがたの心を散乱させるな。そうでないと世俗的な思いが侵入して心を曇らせるであろう--これは決して許さるべきではない。瞑想に坐る前に、私が提案して来たことを考えよ。

 外界の何ものもあなたがたの心に入らぬとき、あなたがたの心は穏やかになるだろう。そのとき、あなたがたの胸裡にある礼拝堂であなたがたは神の輝かしい顔を見はじめるであろう。それを瞑想すると、あなたがたはそれがますます美しくなるのを発見する。そしてその無限の美に浸って他の凡てを忘れるだろう。あなたがたは最後に神の中に完全に吸収されるのである。

(山本穆訳)

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