NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年1号

瞑想に坐る前に(2)
スワミ・アショカナンダ

    (三)
 二、次に、あなたがたは瞑想するのに定まった時間を持たなければならない。私の考えでは人は少くとも一日に二回は瞑想すべきである」もしあなたがたが二回瞑想できなければ少くとも朝か夕方に一度は瞑想せよ。

 インドでは瞑想するのに吉兆の時が四つあると考えられている。早朝--少くとも日の出の一時間前、あたりがまだ暗い時--が非常によい時である。このことについては後でもう少し詳しく述べよう。二番目に良い時は正午である。都会ではこの時間に何か特別の利益が得られるかどうか知らぬが、村落では疑いもなく、特に熱帯の国では、すべてが此の時間に静まりかえり自然が静止しているように思われる、非常に熱いので鳥たちさえ沈黙して樹木の葉かげに身を隠す。人々は平静になり--屡々この時間に休息する--決定的な小休止がある、すくなくとも私はそれを自国で感じた。そこでは多くの人々が昼の時間を瞑想と礼拝に利用するのである。

 瞑想に良い三番目の時は夕暮である。この国では不幸なことに此の時間に瞑想することは困難である。と言うのは此の時間は通常夕食の時であるからだ。しかし夕暮は瞑想するのに最もいい時の一つである。もし出来れば夕食のすこし前に瞑想しでもよろしい。しかし直後に瞑想することは賢明なことではない。消化作用が妨害されて健康を損うかも知れないからである。

 四番目の時は真夜中である。世界の此の地方では夜中の十二時でもまだ静かにならない。だが、私は或る程度の静けさは感じると思う。可成り静かな場合には真夜中は素晴らしく適切な時である。実際、多くの人々が真夜中は瞑想するのに最もふさわしい時である、と考えている。

 朝の瞑想は夕方の瞑想に対して或る利点を持っている。心は夜の休息から目ざめたばかりで静かである。前日の一切の印象は、まるで誰かが授業のあとでやって来て黒板を綺麗に拭いたかのように消されている。それからまた自然も早朝は静かで、街はまだ完全には目ざめておらず、騒がしくない。従ってあなたがたは心を静めることを、より容易く感じる。もう一つの利点がある。一日が始まる前に瞑想することにより、あなたがたは自分の心に霊的な刺激と方向を与えることが出来る、ということである。日が高くなるにつれて霊的な力と熱意の幾部分かは消失するだろうが、しかしそれらは尚長時間残続して殆んど一日中あなたがたを支えることであろう。

 此処で私は或る人々には、朝よりむしろ夕方の瞑想の方がうまくいくだろうということを申し述べたい。日がたけるにつれて徐々に「目ざめる」者がいる、彼等は朝方は半分しか目ざめてないが、夕方が近づくにつれて完全に目ざめ、その澄みきった鋭い心は素晴らしく振舞う。このような人達にとって夕暮の或いは夜中の瞑想は疑いもなく一層うまくいくだろう。もしあなたがたが特に瞑想にふさわしいこれらの時間のどれをも利用することが出来ないなら、あなたがたに最も都合のいい時を選んでそれを固執すべきである。瞑想の時間を規則正しく守ることは非常に大切である。なぜなら心は習慣に従って働くからである。もしそれが数日間続けて一定の時間に一定のことを考え、また感じるようにしむけられれば、それはその時間が来ると、いつも自発的に同じことを考え、かつ感じるであろう。もし我々が或る特定の時間に神を瞑想するなら、その時が来るといつも我々の心は、我々の方で如何なる努力をしないでも、神の思いで満たされるだろう、これは規則正しい練習から得られる少からざる利点である。

 三、規則正しい瞑想の時間を持つべきであると同様にあなたがたは瞑想すべき一定の場所を持つべきである。これは寺院や教会の一つの大きな利点である、かかる場所は神について思うことに使用されるので、その中の雰囲気そのものが神の存在と純潔の感情で満ちている。そこへ行くだけであなたがたは心が高揚する。寺院や教会の雰囲気と同じような雰囲気はあなたがた自身の部屋の一隅にもつくりだすことが出来る。強烈な思想が持続して維持されるところは何処もその思想の性質に満たされる。恐らく物質的な雰囲気や環境は心の思いに従って振動する身体につながっているからであろう。我々の思想が純潔であれば我々の身体も同じように霊的振動とでも呼びうる純粋性に達する。そして、身体におけるそのような変化につれて外部の雰囲気も当然変化するのである。

 かくしてあなたがたの瞑想のために定められた場所はエネルギーで満たされるだろう。それは霊的性質で満ちているのであなたがたがその場所へ来るや否や心は瞑想の思いで満たされるであろう。それは魔法の一触にふれたかのように平静になり、そしてあなたがたは神の明白な「存在」を意識するだろう。なんという偉大な利益だ! 実際、あなたがたは、「神」の思念のために捧げられる一定の場所を取っておく、というこの一つの実践により、この奇蹟とも見えるようなことを演じ得るのである。

    (四)

 四、我々が、心の中に隠れている油断ならぬ敵たち--激情、衝動、食欲、情欲--の力を計る時、私がこれまで述べて来たような方策はそれらに対する虚弱な防備しか与えぬ様に思われる。私はそれを認める、私が「隠れている」というとき、それは我々の中の最も優秀な者たちさえ、この敵たちの影響から完全には免れることが出来なかった、ということを意味するのである。神の御足に実際に触れるまでは、人はそれから完全には自由になれない、と言われている。丁度、真冬には庭の雑草や古い草木の残株が綺麗に片づいているが、春の最初の雨と共に、土に埋もれていた小さな種が庭を緑で覆うように、多くの微妙な思いや印象や欲望が我々の心の中に隠れていて、最初の機会が来るや否や外へ飛び出そうと待ち構えている。

 それゆえ我々は非常に注意深くなければならない。我々はこれら一切の誤った衝動が我々の心の中にあり、もしそれを抑制しなければ我々の全意識を容易に覆うであろうということを知っている。我々の問題は自分の心の大部分を--そして徐々にますます多くの部分を--誤った衝動や欲望の支配から解放し、かくして自由になった心で神について考える事が出来るようにすることである。さしあたって、我々は自分の欲望や有害な衝動を征服するにはどうしたらいいか? それらは時には直接攻撃に屈するが、普通は側面攻撃の方がよろしい。征服しようとして或る心の状態と直接戦うことは益よりもむしろ害を招く、と言うのはそうすることによって心はしばしば一層乱れるからである。賢明な方法は除去すべき心の状態についてあれこれと思い悩むことを自分に許さぬことである。次の心理学的な事実を記憶せよ、即ちあなたがたが或る精神状態に就いてくよくよと思えば思うほど、その状態はますます強化されるのである。

 道端の樹の下に坐って祈祷し瞑想するのを常としていた一人の僧侶について次のような話がある。ある評判の悪い女がその傍らをしばしば通りすぎた。僧侶は彼女に向ってこう言うのだった。「悪い行ないをやめて善人になるように努めなさい。さもなければ死後あなたには恐ろしいことが起るでしょう。「僧侶は彼女を見かけるたびに同じように戒めた。やがて彼等は二人とも死んだ。そして死の使者が彼等の霊を引取りにやって来た、輝かしい使者が、善人を天国に運ぶために金の花馬車を持って来るが、悪人が死ぬ時には暗い使者がやって来る、と言われている。そこで暗い使者が僧侶のところへ、天国からの使者が彼女のところへ、やって来た。

 僧侶は驚いた。「なにか間違いがあったのだろう」と彼は言った。「いや」と使者は答えた。「間違いなどはない。すべてが全く正しいのだ。」「そんなことがどうしてありえよう」と僧侶が尋ねた。使者は荘重に答えた。「お前は瞑想しているようにみえていてもその間中あの女と彼女の悪行のことを考えていた。お前の心はたえず悪について考えてはいなかっただろうか? ところがあの女は神に助けを求めて『主よ、わたしは弱き者です。お救い下さい!』と言ったのだ。あの女の心は、お前の心よりもずっと多く神について考えてはいなかっただろうか?」僧侶は返事することが出来なかった。

 これは極端な例かも知れないが、そこには深い心理学的な真理が含まれている。それは精神作用に関する一つの基本的な事実を、あなたがたが自己征服の戦いに於いて利用することの出来る一つの事実を、指摘している。心が或る望ましくない性質について思いめぐらすことを許されるとき、それは確かに最初のものよりも数倍も強力な新しい印象を創りだす、それ以上この性質を確認することは、一つのコンプレックスになる迄にそれを強めるだけのことであろう。私はあなたがたに自分の心を抑制するな、とか、それを支配するな、とか、或いは所謂「自然に」まかせよ、などと言うのではない。あなたがたの弱点を無視せよ、などと言うのでもない。然し全くこれらと直接取組まないほうがしばしば一層安全なのである。もっと良い作戦は新しいレベルに思いを集中するように心を訓練することである。初めに、心を自分の弱さに就いての思いから離して或る清浄な快よい問題に振り向けよ。それから、それを徐々により高級な意識へ高めよ。此の自制の方法は心を抑圧しない。むしろそれは望ましくない思いを望ましい思いと取替えることによって危険な連想作用から心を高め遠ざける。もしあなたがたが現在除去することが殆んど不可能であるような重大な欠点を有するなら、あなたがたはそのことを考え、その思いに耽ることによって、それに力と支援とを与えて来たに違いない。そのような支援を撤去せよ。そうすればその欠点は弱くなり栄養不良のために遂に死滅するだろう。私はこれを実行することが容易であると云うのではない。しかし練習を重ねることによってあなたがたは習慣を形成することが出来る。そしてそれは霊的進歩を促す確かな方法である。あなたがたの望ましかざる思いを暫くの間飢餓させた後、多くのものは死滅したけれども二、三のものがまだ生き残っていることをあなたがたは多分発見するだろう。余り心配するな。それが力を獲得しないかぎり、それを放置せよ。それらを閉じ込めておけ、それらも結局は死滅するだろう。

 五、悪友は精神的な摩擦や動揺の最も有力な原因の一つである。凡ゆる種類の人々と交わることは、我々が彼等に影響されない限り非常に善いことであるが、そのようなことは極めて稀である。そのようなことが出来る者を私は一人も知らない。正しい交遊はそれゆえ霊的生活に於いては極めて重要である。もしあなたがたが不純な人々と交わり悪事にしばしば耽るならば、あなたがたが抑制しようと努力している思いを統御することは出来ないだろう。それは徐々に成長して遂にあなたがたの心を完全に征服するだろう。

 六、或る程度の禁欲主義は霊的進歩には絶対必要である。瞑想することに余り熱心でないあなたがたの中の或る者は「我々はそれを来世にとっておこう」とか、「我々はそれを今から数年後にとりあげよう」とか言うかも知れない。多くの者が、青春は人生を享楽する時であり、宗教は年をとってから始めても充分である、と考えている。換言するなら、彼等は世の中が住み難くなった時、泣面をして教会へ出掛ける。そして自分は宗教を信じている、と考えるのである。それは宗教ではなくまた宗教でもあり得ない。そのような場合、我々は神の前に何をもたらすか? そこらじゅう傷だらけの疲れ果てた肉体と疲れ果てた心である。あなたがたは神がこれらを喜び給うと思うか? 我々は虫喰の果実や萎れた花を神の聖壇には捧げない。同様に我々は神にみずからの最善を捧げるべきである。新鮮で純粋な心の供物は神を最も喜ばす。宗教は老人専用であると考える者は重大な誤りを犯している。青年たちは特別霊的であるように努めるべきである。何故ならもし宗教の生活が早く始まり、上述のような練習を心がまだ新鮮で純粋である間に行なうならば、心を周到に監視することによって人は誰でも心を汚さぬように保つことが出来るからである。どんなことがあっても我々は自分の心が世間に影響されるのを許すべきではない。青春は仕事を始めるのに最もふさわしい時である。

 スリ・ラーマクリシュナはかつて若い大学生にこう言った、「人が煉瓦を造るとき、それがまた軟いうちにその上に商標をつける。それから煉瓦を天日にさらして乾燥させ、炉で焼くとその商標はとれなくなる。そのようもし貴方が自分の心が柔いうちに神の押印をつけるなら、その押印は決して除去しえず永遠に残るだろう」。

 禁欲主義を練習せよ。多くやればやるほど善いここのことはすっぱいリンゴをかじったように渋い顔つきをすることを意味するのではない。禁欲主義を実践することは血気にはやる馬を乗りこなすと同様の快さを与えるであろう。あなたがたの肉体と心に支配されぬよう、それらを統御する力を獲得せよ。この禁欲主義は必要である。禁欲主義なくして瞑想は不可能であるからである。

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