瞑想に坐る前に(1)
スワミ・アショカナンダ
私は神についての同一の思念の不断の流れである瞑想を通して人は誰でも容易に「至高者」に達することが出来ると信じる。何故なら、心は長期に渉って間断なく受ける思想に結局は屈するからである。もし我々が、心に或る種の意識を続けて浸透させるなら--心の状態が初めには霊的であろうとなかろうと、神への愛に満たされていようと或いは不穏な欲望に満たされていようと--とにかくやがてはそこに希望する変化が生れて来る。
スリ・ラーマクリシュナはこの事実に重きを置いた。私は此の問題に関する彼の教えの一つを理解するのに長くかかった。しかしそれを理解した時(私は自分がそれを完全に理解し得たものであることを希う)私はそこに大きな希望と自信を見出した。彼はいつも、心は浸された染料の色に染まる洗濯された布地のようなものである、と言った。最初私は彼が、心は神の思いに没入してその色に染まる前には全く清くならなければならない、と言うのかと思った。そこには特に我々を励ますようなものは何もなかった。殆んど凡ての求道者たちの大きな難問がその、心を清める、ということなのだ。そのような純化作業は戦いの四分の三を占める。それが充分完成された時には、霊の実現が自然にやって来るからである。だが、私はスリ・ラーマクリシュナの此の比喩を熟慮するにつれてそれを異った形で理解し始めた。彼が心を洗濯される布地にたとえたのは、世間一般の心のことを、即ち世俗的なそして相矛盾する思想や感情で一杯になり、神に就いての思念をひどく嫌うような心のことを言ったのである。純化された心ではなく、凡ゆる条件下にある普通の心のことを言ったのである。私は彼が、此の普通の心でさえ神の思いに浸れば霊的色彩を帯びるのだ、ということを言おうとしたのだと悟った。
此処に素晴らしく大きな励ましになるそして有益な、だが求道者たちにはしばしば忘却されるところの心理学的な真理がある。或る時一人の男がスリ・ラーマクリシュナの所へやって来て「わたしには自分の心を統御することか出来ません。どうしたら出来るのか分りません」と言った。師はあきれて「なぜアビヤサ・ヨーガを練習しないのですか?」と言った。心を神の思いに繰返し繰返し引き戻すこと、これがアビヤサ・ヨーガの意味するものである。この練習はバガヴァド・ギーターの中で特に推奨されている。初めのうち心が散漫になっても、もしあなたがたがそれを再び神に引き戻しさえするならそれが大きな問題だろうか? 我々が此の事を記憶することが出来るなら、戦いの半分は既に勝ち取ったも同然である。しかし、不幸なことに我々はしばしばそのことを忘れてしまうのである。かような次第であるから、自己統御及び瞑想の方法について幾つかの点を述べてみるのは有益なことであろうと思う。
瞑想にふさわしい心の状態は何であるか? それは静けさである、とあなたがたは既に承知しておられることと思う。これは強制された静けさではなく、強烈な欲望の大部分の終焉から来る静けさである。内部から起るにせよ、外部から来るにせよ、心を動揺させる事物は我々の隠れた根源的な欲望につながっている。我々は常に或る目的を実現しようと努力している。我々はすて身の努力をするけれどもしばしば失敗する。そして失敗は心を激昂させる。成功した時でさえ、そこには奇妙な結果が現われる。我々の欲望の対象が時々我々がそれを楽しんでいる最中に逃げるので、我々は落胆し、まただまされたような気がする。そしてそのように失望させられない時でも、我々は享楽を間断なく強化することが出きないからあきがくる。こうした凡ての反応は心を快よくであろうと不快にであろうと間断なく不穏にする。かくして我々は、「神の存在」に精神を集中することを妨げる我々の想念は我々の欲望の対象につながっている、ということを、そして我々が自分の内部の支配的欲望を除去することに成功した時に始めて心は比較的穏やかになる、ということを発見するのである。我々は此の比較的平穏の状態をプラナィヤハラ(心の引退)の始まり、と呼んでいる。この状態にいる時、心は時には不穏であるけれどもその他の時には平穏である。欲望の対象に接する時不穏であるが、そうでない時にはかなり平穏である。これは非常に好ましい状態である。もしあなたがたが妨害的な事物に実際に接しない限り心が静かであるというなら、独りになることを好むというなら、澄み切った感情を持っているというなら、この状態が最も好ましいものであることを認めよ。この状態であなたがたは瞑想を練習するように最善の努力を払うべきである。あなたがたはそれを決してなおざりにしてはならない。
私は、心は非常に変化しやすい実体である、ということを付け加えたい。求めていた境地は如何なるものでもあなたがたがそれに一度到達したからといって必ずそれが存続しつづけるものだと考えてはならない。あなたがたを混乱させる何ものかが内部から起るか外部からやって来るかも知れない。そして心が再び静まるまで時には五年或いは十年かかるかも知れない。丁度海が嵐の後に静けさを取り戻すのに数日もかかるように、私は我々が決して絶対に安全な状態にはなれないであろうと云うのではない。疑いもなく、全然恐れを抱く必要のない精神的状態というものはある。しかしそれは非常に高度な状態である。人がかかる純一無雑の境地に安住するのは、彼がその背後にある橋を焼き払ってしまった時である。彼は此の世の事物がもはや彼を惹きつけることのできない状態に到達したのである。彼の心はその背後に残して来た世界に立ち戻ることは決してないであろう。彼は安全である。
(二)
我々が時には不穏となるけれどもその他の時には平穏であるという心の状態に到達したと想定せよ。その時、もし瞑想に成功したいと欲するなら何をすべきだろうか?
一、我々はまず我々の練習を非常に規則正しく行なう、という固い決意をしなければならない。たとえ何が起ろうとも我々は常に自分の緊急な肉体的要求にはなんとか応ずるように工夫する。我々は瞑想の練習にも同様に忠実であるべきである。瞑想は呼吸と同等に重要な人生の部分を占めるべきである。私の国では人が非常に忙しい時「わたしには呼吸するひまがない」と言う。しかしながら実際には彼は呼吸しているのだ。瞑想についてもそうあるべきである。初めはそれを練習しようという願望は不自然に見えるかも知れないが、決心して自分に言い聞かせよ「わたしは瞑想しなければならない」と。
スリ・ラーマクリシュナはしばしばマホメット教徒をその祈祷の時間厳守故に賞賛した。この国にはマホメット教徒は多くいないが、インドには多数いる。マホメット教徒は何処にいようと祈祷の時間が来るとあらゆる事を中止して手と顔を洗い、それからやむを得なければ道端だろうと毛布を広げて少なくとも十五分は祈祷する。彼はこのことをしそこなうことは決してない。瞑想する時間がないという弁解は誰も出来ない筈である。実際に瞑想するひまもないような異常な事柄は起るかも知れぬが「わたしは非常に忙しいので瞑想するひまがない」とか「わたしは夕方になると非常に疲れるので瞑想することは不可能である」とか言うのは単なる言い逃れである。夕方のために精力の幾分かを貯えることが出来ない理由を尤もらしく説明する人は、実は何物に妨げられているのでもない。波はその精力のすべてを日中他の事柄--時には実際に有害な事柄--をなすために消費し、夕方が来ると瞑想できないことに対して偽りの自己弁解をするのだ。それに就いて彼に問いただせば彼は言うだろう「わたしにはもっと睡眠が必要だ、わたしは疲れている。床から起きあがれば事務所に急がなければならない! そんな時間が何処にあるのだ?」と。
我々の国にはその全生涯を愚かに浪費して最後にその非を悟り「主よ、わたしは凡ゆる事をするひまがありましたが、あなたのことを考えるひまがありませんでした!」と叫んだ男の歌がある。人間の心の此の特性に注意せよ! 我々の人生には凡ゆる事をするための時間と場所がある。しかし我々は瞑想をするために毎日十五分の時間を持たないのだ! あなたがたが時間や精力がないと言っても私があなたがたの云うことを信じると思うか? 私は、あなたがたが自分を欺いているのだ、と言うであろう。意志のあるところに道がある。もしあなたがたが決意すればあなたがたは瞑想する時間をいつでも見つけることが出来るのである。
此処であなたがたに注意しておきたいことがある。何故なら私は誰にでも失望がやって来ることを知っているからである。時折、瞑想していると心は素晴らしく振舞う。それは静かになり、たやすく集中されるので、あなたがたは勇気づけられる。しかしもし他の時に悪く振舞って静かになることを拒否し、凡ゆる種類の想念に満たされて不穏になると、あなたがたは「自分が瞑想するのは無益なことだ。努力するのだが如何なる境地にも達しない」と言いたくなるかも知れない。私はあなたがたに言いたいのだ。あなたがたが素晴らしい心の資質を持って生れていないかぎり、霊的進化に於いて非常に進んだ状態にいないかぎり、霊的になろうと努力して来た他の凡ゆる人々と同じようにこうした意識のつまずきはさけ難いものである、ということを、こうしたことがあなたがたを落胆させぬようにせよ。あなたがたの心が充分霊的でないからといって瞑想する資格がないと考えてはならない。或る人が尋ねた「こんなに低い心の状態にいて、わたしはどうして神に近づくことが出来ようか?」と、もしあなたがたが寒かったとすると、あなたがたは「わたしは寒い、だから火に近づく前にまず暖を取らせてくれ」と言うか? それとも「わたしは寒い、だから、まず為すべきは火のそばへ行って体を暖めることである」と言うか? もしあなたがたが自分を霊性に欠けていると感じるなら、凡ゆる時にもましてその時こそ、あなたがたが神を思うべき時なのである。あなたがたの心をしてあなたがたを誤導せしめるな。心はあなたがたを多くのやり方で欺くことが出来る、時折それは直接誘惑する。それはまた他ならぬ宗教という名のもとにあなたがたを誤導する。君が「充分に霊的でない」という理由で感じる瞑想に対する此の種の抵抗は心があなたがたに仕掛けるトリックである、あなたがたの霊的状態がどうであろうと、あなたがたの心がたとえ低級な思いに満たされていようとも、神について考えるように努力せよ。勿論、あなたがたは自分が欲するようには神について考えることも瞑想することも出来ないであろう。しかしそれが一体何だ? 努力しつづけよ。癖の悪い馬は蹴ったり、後足で立ったり、禦者を落そうとしたりする。しかし禦者がなんとかして鞍にしがみついていれば、馬は主人を見出したことを知っておとなしくなる。心も同じように振舞う。それはあなたがたを振り落そうとするだろう、しかし振り落すことが出来ないのを発見すると、あなたがたの奴隷になるだろう、これが心の秘密である。だからその状態に就いて思い悩むな。それに乗るように決心せよ。そして、精神統一を意味するこの決意はそれ自身勝利である。