第135回生誕記念日祝賀会パンフレット
善い性格の秘訣
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
他人の物質的要求を満たして彼らを助けるのは、ほんとうに立派なことです。しかし、要求がもっと大きく、助けが遠大なものであればあるほど、その助けはもっと偉大です。もし人の要求を一時間満たすことができるなら、それは彼を大きく助けることになります。もし彼の要求を一年間満たすことができるなら、それは彼をもっと大きく助けることになるでしょう。しかし、もし彼の要求を永久に満たすことができるなら、それは確実に、彼に与え得る最大の助けです。
霊性の知識は、われわれの不幸を永久に除くことのできる、唯一のものであります。他の知識はいずれもほんのひととき、要求を満足させるだけです。欲求というはたらきを永久に消し去るのは、霊の知識だけです。ですから人を霊的に助けることは、彼に与えられる最高の助けなのです。人に霊性の知識を与える人は、人類の最大の恩人であります。そういうわけで、われわれは常に、霊性の道で人類を助けた人びとが最も強力な人びとであったことを見いだすのです。霊性は、人生におけるわれわれのすべての活動の基礎なのですから。霊的に強く健全な人は、彼がそうありたいと思えば他のあらゆる点でも強いでしょう。人の内部に霊的力が生じるまでは、物質的要求さえ、十分には満たされません。
霊的な助けのつぎには、知性的な助けがやって来ます。知識の贈物は衣食の贈物よりはるかに高等なものです。それは人に生命を与えるよりも高いものです。人の真の生命は知識からできているのですから。無知は死、知識は生命です。人生は、もしそれが無知と不幸の中を手探りで進む生活であるなら、ほとんど価値のないものです。 順序としてそのつぎに、もちろん、物質による助けがやって来ます。ですから、他者を助けるという問題を考える場合には、われわれは常に、物質上の助けが、与えることのできる唯一の助けである、と思う誤りを犯さないよう、努めなければなりません。それは最後の助けであるのみならず、最小の助けでもあるのです。それは永続的な満足をもたらすものではないからです。私が空腹のときに感じる不幸は、食べることによっていやされます。しかし飢えは、またやって来ます。私の不幸は、私が一切の欠乏を超えて満足したときに始めて、やむことができるのです。そのときには、空腹も私を不幸にはしないでしょう。いかなる悩みも悲しみも、私を動かすことはできないでしょう。それゆえ、われわれを霊的に強くするような助けが最高のものです。そのつぎに知性の助けが来、そのあとに、物質の助けが来るのです。
この世の不幸は、物質上の助けだけではいやされません。人の性質が変わるまでは、物質的欲求は絶えず生まれて来、不幸は常に感じられるでしょう。そして、物質の助けがいくら来ても、完全にそれらをいやすことはできないでしよう。この問題の唯一の解決法は、人類を浄らかにすることです。無知は、われわれが見るすべての悪とすべての不幸の母です。人びとに光を得させよ。彼をして浄らかであらしめ、霊的に強く、教養ある人であらしめよ。そのときに始めて、この世に不幸はなくなるでしょう。それまでは、だめです。国中の家のすべてを慈善院に変えるとしましょう。国中を病院で埋めるとしましょう。それでも人の性質が変わるまでは、人類の不幸はありつづけるでしょう。
『バガヴァド・ギーター』の中ではくり返し、われわれはみな、絶えず働かなければならない、と言われている。すべての働きは本来、善とか悪とから成り立っています。われわれは、どこかで何か善いことをしないような働きをすることはできません。また、どこかで何かの害を起こさないような働きは、あり得ません。あらゆる働きは必然的に、善と悪との混合です。それでもわれわれは、不断に働くよう、命ぜられているのです。善と悪とはともに、その結果をもたらすでしょう。つまり彼らのカルマを生み出すでしょう。善い行動はよい結果を、悪い行動は悪い結果を残すでしょう。しかし、善も悪もともに、魂の束縛であります。この束縛をもたらす働きの性質について『ギーター』の中で到達されている解決法は、もしわれわれが、自分が行う働きに執着しないなら、それは決してわれわれの魂を束縛しないであろう、というものです。この、働きへの「無執着」とは何を意味するのか、理解するよう努めてみましょう。
これは『ギーター』に現れている一つの中心的な理念です――絶えず働け、しかしそれに執着はするな。「サムスカーラ」という言葉は、生まれつきの傾向、と訳したら一番近いでしょう。心を湖にたとえるなら、心に起こる一つ一つのさざ波、一つ一つの波は、引いたときにも完全に消え去るものではなく、そこに一つのしるしと、その波が将来ふたたび現われる可能性を残します。その波がふたたび現われる可能性を伴うこのしるしが、サムスカーラと呼ばれるものです。われわれが行うすべての働き、肉体の一つ一つの動き、われわれが思うそれぞれの思いは、心の実質の上にそのような印象を残し、そのような印象は表面にはっきりと現われていないときでも、下層において潜在意識として働くだけの力を持っています。
各瞬間におけるわれわれの存在は、心に刻まれたこれらの印象の総計によって決まるのです。まさにこの瞬間に私にあるものは、私の過去の生涯のすべての印象の総計の結果です。これがほんとうに、性格と言われているものなのです。各人の性格は、これらの印象の総計によって決定されます。もし善い印象が優勢であれば性格はよくなり、悪ければ悪くなるのです。
もし人が始終悪い言葉を聞き、悪い思いを思い、悪い行為をするなら、彼の心は悪い印象に満たされ、それらは彼の意識せぬ間に、彼の思いと働きに影響を与えることでしょう。事実、このような悪い印象は常に働いているのであって、それらの結果は悪いに違いありません。そしてその人は悪い人でしょう。これを避けるわけにはいきません。彼の内部のこれらの悪い印象の総計が、悪い行為をする強い原動力をつくるのです。彼は自分の内なる印象の手中にある機械のようであって、それらは彼に、悪をなすことを強いるでありましょう。
同様に、もし人が善い思いを思い、善い働きをするなら、これらの印象の総計は善であって、それらは同じような形で、たとえ彼がすまいと思っても、善いことをせずにはいられないようにしむけます。人が、内部に善をなそうという、抵抗し難い傾向を持つようになるほど、多くの善い働きをし、多くの善い思いを思いつづけたとき、彼の傾向の総計である心は、彼の意志にかかわらず、たとえ彼が何か悪いことをしようと思っても、そうすることを許さないでしょう。その傾向が彼を引き戻すでしょう。彼は完全に、善い傾向の支配下にあるのです。このようになったとき、ある人の善い性格は確立した、と言います。
「カルマ・ヨーガ」(日本ヴェーダーンタ協会:訳ならびに刊行)から。