第135回生誕記念日祝賀会パンフレット
家住者は神を悟ることができるか?
シュリ・ラーマクリシュナ
1882年4月9日 日曜日
シュリ・ラーマクリシュナは、カルカッタのプラーンクリシュナ・ムケルジーの家の客間に、信者たちとともにすわっておられた。午後1時と2時のあいだだった。大勢のプラーンクリシュナの隣人や友人たちが、シュリ・ラーマクリシュナにお目にかかるよう招かれていた。みなが、彼の言葉をきこうと待ちかまえていた。
師「あるシーク教徒が、あるとき私に言った、『神はお慈悲に満ちていらっしゃいます』と。私は言った、『だが、なぜ神を慈悲深いなどと言わなければならないのか。彼はわれわれのつくり主なのだ。彼がわれわれに対して親切であったとてなんの不思議があろう。両親は彼らの子供たちを育てる。それをお前たちは親切の行為だなどと呼ぶか。彼らはそうするのが当然なのだよ』と。それだから、われわれは自分の要求を神におしつけなければいけない。彼はわれわれの父母ではないのか。息子がもし世襲財産を要求して断食でもするなら、たとえ法の定める時期の3年前であっても、親は彼のとり分を渡すだろう。あるいは、子供が何パイスかを母親にねだってくり返しくり返し、『お母さん、2パイスでよいからくださいな。このとおりひざをついてお願いします』と言えば、母親もこの熱意を見て耐えられなくなり、お金を投げてやるのだ。
高徳の人たちとの交わりからはもう一つの利益が得られる。それは、実在と非実在とを識別する力を育てる。神だけが実在、つまり不滅の実体であって、この世界は非実在、つまり束の間のものである。人は自分の心が非実在のもののほうにさまようのに気がついたら即座に、識別力を使わなければいけない。ゾウが隣人の庭のパナナの木をたべようと鼻をのばした瞬間に、それはゾウ使いの鉄の突き棒の一撃をくらうのだ」
一隣人「なぜ人は罪深い傾向を持っているのですか」
師「神の創造されたものの中にはあらゆる種類のものがある。彼は、善い人びとをつくられたが、悪い人びともおつくりになった。われわれに善い傾向をお与えになるのは彼である。そしてまた、われわれに悪い傾向をお与えになるのも彼である」
隣人「そうであれば、私たちは自分の罪ある行いに対して責任がないのではございませんか」
師「罪はおのずから結果を生む。これは神の法則だ。チリ(トウガラシの一種)をかめば舌がひりひりしないかね。モトウルは、若いときにかなり放らつな生活をした。それだから死ぬ前にさまざまの病気に苦しんだ。
人は若いときにはそれに気づかないかもしれない。私は、カーリ寺院の台所のかまどで薪が燃えているときに中をのぞいたことがある。最初は、湿った木はむしろよく燃える。それほど湿気を含んでいるようには見えない。しかし木が十分に燃えると、湿気が全部一方の端に逃げる。ついには、薪から水が噴出して火を消すのだ。
それだから、人は怒りや情欲やどん欲には気をつけなければいけない。たとえば、ハヌマーンの場合をごらん。腹立ちまぎれに、彼はセイロンを焼いた。ついに、彼はシーターがアショーカの木の林の中に住んでいるのを思い出した。それで、火が彼女に怪我をさせはしないかと恐れてふるえだした」
隣人「なぜ神は悪い人びとをおつくりになったのですか」
師「それは彼の思召し、彼のお遊びだ。彼のマーヤーの中には、ヴィディヤーとともにアヴィディヤーもある。闇もまた必要なのだ。それは光の輝きをいっそうきわ立たせる。怒りや色欲やどん欲が罪悪であるということは明らかだ。それではなぜ、神がそれらをおつくりになったのか。聖者たちをおつくりになるためである。人は、感覚を征服することによって聖者になるのだ。自分の情欲を克服した男にとって、不可能なことがあろうか。彼は、神の恩寵によって神をさとることさえできる。また、彼の創造のお遊びの全部が、色欲によって永続しているさまを見てごらん。
悪い人びともやはり必要だ。あるとき、ある領地の小作人たちが始末におえなくなった。地主は、ならず者であるゴーラク・チョウドゥリーを送らざるを得なかった。彼はじつに苛酷な管理人だったので、小作人たちは彼の名をきいただけで震え上がった。
あらゆるものが必要なのだ。あるときシーターが夫に言った、『ラーマ、アヨーディヤーにある家が全部大邸宅だったら立派でしょうねえ。古い荒れ果てた家がたくさんあります』と。するとラーマが『しかし、お前、もしすべての家が立派であったら石工たちはどうするだろう』と言ったという。(笑い)神はあらゆる種類のものをおつくりになった。
彼は良い木々をおつくりになり、そしてまた毒のある草木もおつくりになった。獣たちのなかにも、善いものも悪いものもあり、あらゆる種類の生きものがある――トラ、ライオン、ヘビなどなど」
隣人「師よ、在家の生活を送りながら神をさとることはできるものでしょうか」
師「できるとも。しかしいまも言ったように、高徳の人たちと交わり、休まず祈らなければいけない。人は神を求めて泣かなければならない。このようにして心の不純物が洗い流されると、人は神をさとるのだ。心は泥に覆われた針のようなものであり、神は磁石のようなものである。泥が洗い流されなければ、針は磁石と一つになることはできない。色欲、怒り、どん欲、およびその他の悪い傾向、そしてまた世俗の楽しみを求める性質、まさにこれらに相当する泥は、涙で洗い流されるのだ。泥が洗い流されると、磁石は針を引きつける。すなわち人は神をさとる。心の浄い者だけが神を見るのだ。熱病患者は体内に水分がありすぎる。それが除かれないとキニーネも効果を現しようがない。
世間に暮らしていては神をさとれない、などということがあるものか。しかし、私が言ったように、人は高徳の人たちとともに暮らし、神の恩寵を求めて泣きながら彼に祈り、そしてときどきひとりにならなければいけない。道ばたの植物は最初は垣根をつくって守ってやらないと、家畜にふみ荒らされてしまうだろう」
隣人「それでは、在家の信者も神の御姿を見ることはできるのでございますね」
師「あらゆる人が必ず解脱する。しかし人は、グルの指示にしたがわなければならない。もし道を踏み迷うと、もとに戻るのに苦労をするだろう。解脱を得るのに長い時を要する。ある人は、今生ではそれを得ることができないだろう。たぶん、何回も生まれ変わった後に、ようやく神をさとるだろう。ジャナカ王のような賢者たちは、世間の務めを行った。彼らはそれをちょうど踊り子が瓶や皿を頭上にのせて踊るように、心に神を思いながら行ったのである。西北インドの女たちが水瓶を頭上にのせ、しゃべったり笑ったりしながら歩いて行くのを見たことはないか」
隣人「いまグルの指示ということをおっしゃいましたが、私どもはどのようにしてグルを見いだしたらよいのでしょうか」
師「誰も彼もがグルになれるというわけではない。大きな材木は水に浮かんで獣たちをも運ぶが、つまらない木の切れはしは、もし人がその上にすわると沈んで、彼をおぼれさせるだろう。だからあらゆる時代に、神がみずからグルとして地上に生まれ、人類をお救いになるのだ。サチダーナンダのみがグルである。
知識とは何か。そしてこのエゴはどういうものであるか。『神のみが行為者である。他には行為者はいない』――これが知識だ。私は行為者ではない。私は彼の御手のなかの道具にすぎない。それだから私は言うのだ、『おお母よ、あなたが操縦者で私は機械です。あなたが住人で私は家です。あなたが御者で、私は馬車です。私は、あなたが私を動かされるとおりに動きます。あなたがおさせになるとおりに私は行います。あなたが話をさせなさるとおりに私は話します。私ではない、私ではない、あなたです、あなたです』と」
「ラーマクリシュナの福音」(日本ヴェーダーンタ協会:訳ならびに刊行)から。