第134回生誕記念日祝賀会パンフレット
カルマ・ヨーガ
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
人はさまざまの動機のもとに働きます。動機のない働き、などというものはあり得ません。ある人びとは名声を得たいと思い、そのために働きます。またある人びとは金を欲し、金のために働きます。また他の人びとは権力を欲し、そのために働きます。他の人びとは天国に行きたいと思ってそのために働きます。またシナ(中国)で見られるように、ある人びとは死ぬときに名を残したいと思って働きます。かの国では、人は死ぬまで称号を得ることはできません。また結局、それはわれわれのよりも良いやり方でしょう。あそこでは人が何か大変に善いことをすると、すでに死んでいる彼の父親または祖父に、貴族の称号が与えられるのです。ある人びとはそれをめざして働きます。マホメット教のある宗派の信者たちはその生涯、自分が死んだときに大きな墓を造らせるために働きます。私は、子供が生まれるや否や、その子のために墓の準備をする、という宗派を知っています。彼らの間では、それが人がしなければならない最も重要な仕事です。そして墓が大きければ大きいほど、立派であればあるほど、その人は裕福であると思われるのです。また贖罪のために働く人びともあります。あらゆる種類の悪いことをしたあとで、寺を建立したり、神職に何かを与えて彼らを買収し、彼らから天国へのパスポートを得ようとします。このような善行が自分を浄め、罪深い所行にもかかわらず、昇天が許されるであろう、と考えているのです。右のようなのが、働きのためのさまざまな動機です。
働きのための働き。どこの国にも、ほんとうに地の塩であって、働きのために働く人びと、名声にも栄誉にも頓着せず、天国に行くことすら考えない人びと、がいるものです。彼らはただ、それから善いことが出て来るから、働くのです。また、貧しい人びとのために善いことをし、さらに高い動機から人類を助ける人びとがいます。彼らは善を行うことを信じ、善を愛しているのです。名声を求めて働く場合には、原則として、それらが直ちにやって来ることはまれです。その人が老い、ほとんど生涯を終わるころにやって来るのです。
もし人が何の利己的な動機も持たないで働いたら、彼は何ものも得ないでしょうか。いいえ、彼は最高のものを得ます。無私の態度はもっと大きな報いを得るのです。ただ人びとがそれを実践するだけの忍耐心を持っていないだけです。それは健康という見地から見ても、報いはもっと豊かです。愛、誠実、および非利己性は、単なる道徳上の形容語ではありません。それらは、われわれの最高理想を形成しているのです。それらの中に、つぎのような力の現れがあるのですから。第一に、五日間、いやたとえ五分間でも、何の利己的動機もなしに、未来のこと天国のこと罰のこと、この種のことは何ひとつ考えないで働くことのできる人は、強力な道徳的巨人になる能力を持っているのです。それをすることは難しいのですが、心の奥底で、われわれはそれの価値を知り、それがもたらすところの善を知っています。
これ―このすばらしい抑制―は力の最も偉大な現れです。自己抑制は、すべての外に向かっての活動よりも大きな力の、現れであります。四頭の馬にひかれた馬車がひとりで山の斜面を急降下するとします。または御者がいてそれを御するとします。馬を勝手に行かせるのと彼らを抑えつけるのと、どちらが大きな力を現すでしょうか。空中を飛ぶ弾丸は、長い距離を行って落下します。もう一つは、途中で壁にあたり、その衝撃は強烈な熱を発します。利己的な動機から生まれて外に出て行くエネルギーはことごとく、浪費されます。それは自分の方に戻って来る力とはならないでしょう。しかしもしそれが制御されると、力を生むことになるのです。この自己制御は強力な意志、キリストやブッダとなる人格を生むことになるでありましょう。
愚かな人びとはこの秘密を知りません。それにもかかわらず、人類を支配したいと思います。愚かな人でも、もし彼が働いて待つなら、全世界を支配するでしょう。彼をして数年間、支配しようというあの愚かな考えを抑制させてごらんなさい。そのような考えがすっかり消えてしまったとき、彼はこの世の一つの力になっているでしょう。われわれの大多数は、数年間より先は、見ることができません。ある獣たちが数歩より先は見ることができないのと同じです。ごくせまいサークル―それらがわれわれの世界なのです。われわれは遠くに目を向けるだけの忍耐を持ち合わせていません。こうして不道徳になり、よこしまになるのです。これがわれわれの弱さ、われわれの無力さです。
最低の形の働きも軽蔑してはなりません。それよりよいものを知らない人には、利己的な目的のために、名声のために、働かせるがよろしい。しかし誰もが、次第に高い動機を選んでそれを理解するようになるよう、常に努力すべきです。「働くことに対しては、われわれは権利を持つ。しかしそこから生まれた果実に対しては、権利を持たない」果実はほうっておおきなさい。なぜ結果などを気にするのですか。もし皆さんが人を助けたいと思うなら、その人の自分に対する態度はどうであるか、などということは考えてはなりません。もしある偉大な仕事か善い仕事をしたいと思うなら、結果はどうであろう、などと考えて心配するようなことは、してはなりません。
この働きの理想については一つの難しい疑問が起こります。強烈な活動が必要です。われわれは常に働かなければなりません。働かずには、一分間も生きることはできません。すると休息はどうなるのでしょうか。ここに人生の奮闘の一つの面があります―われわれがその中にぐるぐると巻きこまれる、働きです。そしてここに、もう一つの面があるのです。静かな、隠遁的な放棄の面です。周囲の一切物が平安です。そこには騒音と見せかけはほとんどありません。ただ、けものと花々と山々の自然があるだけです。これらのどちらもが、完全な絵姿ではありません。孤独に慣れた人びとは、世間の渦巻きにまきこまれるとそれにおしつぶされてしまうでしょう。深海にすむ魚が海面に連れて来られると、からだを保たせていた水の重みを奪われてこながなになってしまうのと同じようなものです。人生のそうぞうしさと忙しさに慣れた人がもし静かな場所に来たら安心して暮らせますか。彼は苦しみ、多分気が狂うでしょう。
理想的な人は、最も深い沈黙と孤独のさなかに最も強烈な活動を見いだし、最も強烈な活動のさなかに砂漠の沈黙と孤独を見いだす人です。その人は、抑制の秘訣を学んだのです。彼は彼自身を支配したのです。彼は、往来頻繁な大都会の街中を歩きながら、しかもその心はまるで、もの音ひとつとどかぬ洞穴の中にいるかのように静かです。そして彼は、常時最も活動的に働いています。それが、カルマ・ヨーガの理想です。もしそれができたら、その人はほんとうに働きの秘訣を学んだのです。
しかしわれわれは、最初から始めなければなりません。来るにしたがって仕事を引き受け、毎日少しずつ、自分を非利己的にして行かなければなりません。仕事をしつつ、自分をうながしている動機を見いださなければなりません。するとほとんど例外なしに、初めの数年間はいつも、動機は利己的であることを発見するでしょう。しかし根気よくつづけるうちにこの利己心は少しずつ消え、ついには、ほんとうに無私の心で働くことができるようになるときが来るでしょう。われわれはみな、人生の道を歩みつつ努力するうちにいつかは、自分が完全に非利己的になる日が来る、と期待してよろしい。そしてそうなった瞬間、われわれの持つすべての力は結集され、わがものであるところの知識が、表に現れるでありましょう。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ「カルマ・ヨーガ」
(日本ヴェーダーンタ協会:訳ならびに刊行より)