ラージャ・ヨーガ
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
(新書版、242頁)
定価(本体1000円+税)
第二章 第一段階
第三章 プラーナ
第四章 サイキック・プラーナ
第五章 サイキック・プラーナの制御
第六章 プラティヤハーラとダーラナー
第七章 ディャーナとサマーディ
第八章 ラージャ・ヨーガ概要
パタンジャリのヨーガ格言集
序言
第一章 心の集中、それの霊的効用
第二章 心の集中、それの実践
第三章 力
第四章 独立
私たちはすでに、近代インドの偉大なヨーギー、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ヨーガ・シリーズ」の中の三冊、「カルマ・ヨーガ」「バクティ・ヨーガ」、および「ギャーナ・ヨーガ」の日本語訳を、出版した。
この「ヨーガ・シリーズ」の第四番目(最後)の「ラージャ・ヨーガ」はスワミ・ヴィヴェーカーナンダによって英語で書かれ、彼の生前に出版された。それが日本語に訳されて、当協会の隔月刊誌「不滅の言葉」に連載された。このたびそれを一書にまとめ、一般に公開する運びになったことを、喜ばしく思っている。
「ラージャ・ヨーガ」はすべてのヨーガの中の最も偉大なもの、と見なされている。しかし私たちはここに警告として、それの実践は必ず、資格を備えた師の、実地の指導のもとに行われるべきだ、と言うことを申し上げておかなければならない。
それでも求道者は、本書を読むことによって、霊性の進歩に役立つさまざまの有益な指示を得られることであろう。
私たちはこの翻訳をゆるされた、スワミジーの「ラージャ・ヨーガ」の著作権保持者インド、マヤヴァティのアドワイタ・アシュラムに感謝する。
私たちはまた、本書の出版にあたってさまざまの形で協力と援助をよせられた多くの方々にここであらためて深く感謝する次第である。
日本ヴェーダーンタ協会
有史以来、さまざまの異常な現象が人間のあいだにおこったことが、記録にのこっている。そのようなできごとの事実であったことを示す証言は、現代科学のまばゆい光のもとに生きる社会の中にも、不足してはいない。このような証言の大部分は無知な、迷信的な、または詐欺師的な人びとからきているので信用することができない。多くの場合、いわゆる奇跡は模倣である。しかし、何を彼らはまねしたのか? それが何であれ、適当な調査もしないですててしまうのは、公正で科学的な心のしるしではない。うわべだけの科学者は、さまざまの異常な心理現象を説明することができないので、それらの存在までも否定しようとつとめる。それゆえ彼らは、自分たちの祈りは雲の上にすむある存在または存在たちによってかなえられると信じている人びとより、または自分たちの嘆願がそのような存在をして宇宙の進行方向をかえさせるであろうと信じている人びとより、責められるべきである。後者は無知のゆえという、あるいは少なくとも教育の方法がまちがっていたのだという、弁解の余地を持っている。教育が彼らに、そのような存在に依存することを教え、それが彼らの堕落した性質の一部となってしまったのだ。前者には、そのような弁解の余地はない。
幾千年の間このような現象が研究され、しらべられ、そして概括され、人の宗教上の能力の全根底が分析されてきた、その結果が、ラージャ・ヨーガという科学なのである。ラージャ・ヨーガは、ある現代の科学者たちのゆるすべからざる態度をまねて、説明することのむずかしい事実の存在を否定するようなことはしない。それは、迷信的な人びとにむかって、やさしく、しかしはっきりとした言い方で、奇跡や祈りへの答えや、また信仰の力などは事実としてほんとうにあることだけれど、それらは、雲の上の存在や存在たちのおこないとするような、迷信的な説明では理解できるものではない、と言ってきかせる。それは、人間一人ひとりは人類の背後によこたわる知識と力の無限の大海に通じる、一本のくだにほかならないのだ、と断言する。欲望と欠乏は人のうちにあり、それをみたす力も人のうちにある、と教える。そしていつ、どこであれ、欲望、欠乏がみたされ、祈りがかなえられたのは、供給がこの無限の倉庫からきたのであって、超自然の存在からきたのではない、と教えている。超自然の存在という考えは、ある程度は人のうちに活動の力をよびさますだろう。しかしそれは霊的衰弱をもたらす。それは依頼心をもたらす。それは恐怖心をももたらす。それは迷信をもたらす。それは、人は本来よわいものだ、と思うおそろしい信仰にまで堕落するのだ。ヨーギーは、超自然というものはない、しかし自然界には粗大な現われと精妙な現われとがある、と言う。精妙な現われは原因、粗大な現われは結果である。粗大な現われは感覚でたやすく知覚できるが、精妙なものはそうは行かない。ラージャ・ヨーガを修行すると、もっと精妙な認識ができるようになるのである。
インドの哲学の正統派の体系はすべて、一つの目標をめざしている。完成による、魂の解放である。その方法は、ヨーガによるものである。ヨーガということばは非常にひろい意味を持っているが、サーンキャ派とヴェーダーンタ派はともに、何らかの形のヨーガをさしている。
この書物の主題は、あのラージャ・ヨーガとよばれている形式のヨーガである。パタンジャリの格言集はラージャ・ヨーガの最高の権威であって、それの教科書となっている。ほかの哲学者たちは、哲学上のある点に関してはときどきパタンジャリと意見をことにしているけれど、原則として、彼の実践の方法にははっきりと同意している。この書物の前半は、著者がニューヨークでおこなった連続講義である。後半は、パタンジャリの格言集のかなり自由な翻訳に、ざっとした注釈をつけたものである。できるかぎり専門用語をさけ、自由でくつろいだ会話の調子をたもつようにつとめた。前半に、実習したいと思う生徒のために若干の簡単な、特別の指示があたえてある。「しかしこのような人びとには特に、そして真剣に申し上げておくが、ごくわずかの例外をのぞき、ヨーガは教師の直接指導のもとにおこなわないと危険である。」もしこれらの話によって、このことについてもっと学びたい、というねがいが心中にめざめるなら、教師はかならず現われるであろう。
パタンジャリの体系はサーンキャ哲学の体系に立脚しており、相違点はごくわずかである。二つのもっとも重要なちがいは、第一は、パタンジャリは最初の教師という形の一個の人格神をみとめているのに、サーンキャの哲学者たちは、創造の一周期だけをつかさどる、ほとんど完成された存在を神としてみとめるだけである、ということ、第二は、ヨーギーたちは心を、魂すなわちプルシャと同様に一切所に遍在すると考え、サーンキャ派の人びとはそうは考えない、ということである。.................