シ カ ゴ 講 演 集

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

(文庫版、64頁)

 定価(本体400円+税)


目  次

まえがき

歓迎に応えて

なぜわれわれは争うのか

ヒンドゥイズムに関する論文

インドに緊急必要なのは宗教ではない

ヒンドゥ教を成就する仏教

最終の会議における挨拶


まえがき

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは一八九三年九月、米国シカゴ市で開かれた世界宗教会議に現れて世界的人物となった。以後、彼はヴェーダーンタの講演者として、宗教の調和の擁護者として、それにもまして一個の預言者として、人びとに親しまれた。どの点から見ても、スワミジーの宗教会議への参加は、世界の宗教史上、画期的なできごとである。

 右の会議でなされたヴィヴェーカーナンダのスピーチは、宗教の調和の憲章である。彼が西洋において初めて、十分な権威をもってヒンドゥイズムを明快に、組織的に解説したのもこの会議においてであった。

 スワミジーの「シカゴ講演集」の日本語訳を、このような形で読者にささげることができるのは、私たちの喜びである。宗教の調和について語りあおうとしているこの、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの第一三三回誕生日祝賀会の席上、本書が披露されるのは、まことふさわしいことである。

 私たちは、この翻訳をゆるされた、スワミジーの「シカゴ講演集」の著作権保持者インド、マヤヴァティのアドワイタ・アシュラムに感謝する。

 私たちはまた、本書出版のために寛大な寄付をしてくださった、ラーマクリシュナ・マート(僧団)の古き友であり協力者であるシヴジ・ヴェルジ・コタリ氏にも深く感謝する。また短時日内にこの仕事を完成させるために骨身おしまず働いた協会員にも、感謝しなければならない。

 小冊子ではあるけれど、本書が読者に深い印象を与えるであろうことを私たちは確信する。それは必ず、彼らが真の宗教を理解するのを助け、今日の急務である宗教の調和の実況をうながすであろう。

一九九五年六月十八日 発行者


歓迎に応えて

一八九三年九月十一日

 アメリカの姉妹たち、そして兄弟たち、

 皆さんが私どもに示して下さった、このあたたかい、心のこもる歓迎にこたえて立ち上がった私の胸は、言葉につくし得ぬ喜びでいっぱいです。私は、世界でもっとも古い僧団にかわって、皆さんにお礼を申し上げます。もろもろの宗教の母にかわってお礼を申し上げます。そして、すべての階級すべての宗派に属する、幾百万のインド人にかわってお礼を申し上げます。

 私はまた、東洋の代表者たちを指して、はるかな国々からやってきたこの連中は他の諸国に寛容の精神を伝えたことを誇っても当然である、とおっしゃった、この壇上においでの一部の講演者にも、感謝を致します。私は、この世界に寛容と、すべてを承認することとの二つを教えた宗教に属することを、誇りに思うものです。私たちは普遍的な寛容性を信じるだけでなく、すべての宗教を真理として認めるのです。私は、地球上のすべての宗教およびすべての国々の、迫害されて難を避けてきた人びとをかくまってきた民族に属することを、誇りに思っています。ローマ人の暴虐によって彼らの聖堂がめちゃめちゃに破壊されたその年に南インドにやってきた、イスラエル人の最も純粋な残存者たちを、集めてわれわれはわがふところに抱いたのです。私は、偉大なゾロアスター教の国の残存者たちをかくまい、今もはぐくんでいる宗教に属することを誇りに思っています。私はここで、兄弟たちよ、私がごく幼い頃から、くり返してきた、幾百万の人びとによって毎日となえられている、ある賛歌の中の数行を引用しておきかせしましょう――

 「源を異にするさまざまの河川が、すべて海に流れ込んで一つになるように、おお主よ、人びとがさまざまの傾向に応じてたどるさまざまの道は、曲がったりまっすぐであったりさまざまに見えるではありましょうが、すべてあなたのもとに達します」

 かつて催された中でもっとも権威のある集まりの一つであるこの会議は、それ自体が、「いかなる形を通じてでも、私のもとにくる者は誰であれ、私は彼に接する。すべての人は、ついには私に到達するところの、さまざまの道を通って努力しつつあるのだ」という、ギーターに説かれているすばらしい教えを、世界に向かって証明し宣言しているのです。宗派主義、頑迷、およびそれの恐ろしい子孫である狂信が、この美しい地上を長い間占領してきました。それらはこの世界を暴力で満たし、幾たびも人間の血でずぶぬれにし、文明を破壊してすべての民族を絶望におとしいれました。もしこのような恐ろしい悪魔どもがいなかったなら、人間社会は今あるよりはるかにもっと進歩していたことでしょう。しかしすでに、彼らの運命の時がきています。けさこの会議に敬意を表して鳴った鐘が、すべての狂信の、剣または筆をもってするすべての迫害の、そして、同じ目標に向かって彼らの道をたどりつつある人びとの間に生まれたすべての無慈悲な感情の弔鐘であれ、と、私は熱心に期待するものであります。

  

なぜわれわれは争うのか

一八九三年九月十五日

 ある短い話をお聞かせしましょう。皆さんは、いま話を終えられた雄弁な講演者が、「たがいに非難をし合うのは止めよう」とおっしゃるのをおききになりました。そして彼は、相互の間に常に大きな意見の違いのあることを、嘆かれました。

 しかし私は、この違いの原因を説明する、一つの物語をお話しよう、と思うのです。一匹のカエルが井戸の中にすんでいました。長い間そこにすんでいたので、そこで生まれ、そこで大きくなったのですが――とは言ってもまことに小さなカエルでした。もちろん、当時そこに進化論者はいませんでしたから、そのカエルが眼を失っていたかどうかは分かりません。しかしこの話のために、それは眼を持っていて、現代の細菌学者の持つ名誉にも値するほどの精力をもって毎日水中の虫やばい菌を食べ、水を清潔に保っていたもの、としなければなりません。このようにして暮らすうちに、カエルは少しつややかさを増し、肥ってもきました。さて、あるとき、海にすんでいたもう一匹のカエルがやって来て井戸の中に落ちました。

 「君はどこからきたのか」

 「私は海からきた」

 「海だと! それはどのくらい大きいのか。私の井戸くらいの大きさか」井戸のカエルはこう言って、井戸の端からもう一方の端へと一とびにとびました。

 「君、どうしてこの小さな井戸と海をくらべようなどとするのだ」と海のカエルは言いました。

 「ではこのくらい大きいのかね」と、井戸のカエルはもうひととび。

 「海を君の井戸とくらべるなんて、なんて愚かなことを言うのだ!」

 「さては」と井戸のカエルは言いました、「この井戸より大きなものがあろうはずはないのに、こいつはうそつきなのだ。追い出してしまえ」

 つねに、これが問題だったのであります。

 私はヒンドゥ教徒です。私は自分の小さな井戸に中にすわっていて、この井戸が全世界であると思っています。キリスト教徒は彼の小さな井戸の中にすわって、全世界は彼の井戸だ、と思っています。マホメット教徒はまた彼の小さな井戸の中で、これが全世界だと思っているのです。われわれのこの小さな世界と世界との間の障壁を、のぞこうとして努力していらっしゃるアメリカの皆さんに、私は感謝をせずにはいられません。そして、やがてこの目的の成就するよう、主の加護のあらんことを期待するものであります。


| HOME | TOP |
(c) Nippon Vedanta Kyokai