バクティ・ヨーガ

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

(新書版、192頁)

 定価(本体1000円+税)


目 次

まえがき

祈り

バクティの定義

イシュワラの哲学

霊性のさとり バクティ・ヨーガの目的

グルの必要

弟子と師の資格

人間の教師たちと化身

マントラ、オウム、ことばと叡知

かわりのものおよび神像の礼拝

理想神(イシュタ)

方法と手段

準備段階の放棄

バクタの放棄は愛から生まれる

バクティ・ヨーガの自然さとそれの中心の秘密

愛のあらわれの形

普遍の愛と、それが自己放棄にいたること

高い知識と高い愛は、真の愛の人にとっては一つである

愛の三角形

愛なる神は、あかしを必要としない

神の愛を表現する人間の愛

結論


まえがき

 本書は、近代インドの聖者シュリ・ラーマクリシュナの高弟、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ(一八六三〜一九〇二)が前世紀末、約五年にわたってアメリカ(その間イギリスにも)に滞在中、どこかでおこなった連続講話の記録である。原文はラーマクリシュナ・ミッションの出版部、アドワイタ・アシュラマ刊行の「スワミ・ヴィヴェーカーナンダ全集」全八巻中、第三巻に収録されている。本書は同所刊行の単行本、Bhakti Yoga : The Yoga of Love and Devotion 第十四版(一九七八年)から訳出した。

 著者の経歴は、当協会がいままでに出版したいくつかの書物の中で、断片的にではあるがすでに紹介されているので、ここでは省略する。彼は師の教えを世に伝えるにあたり、ヒンドゥの伝統にしたがって四つのヨーガ、すなわちカルマ・ヨーガ(無私の行為)、バクティ・ヨーガ(人格神の信仰)、ジュニャーナ・ヨーガ(知識、識別)およびラージャ・ヨーガ(心の統御)をあげ、各自の適正に応じてそれらの一つまたはそれ以上をあわせ行ない、人生の目標に達せよ、とおしえた。

 講話の内容は、さまざまの理由からともすれば人格神の信仰をとり上げることをためらう現代人に向かって、明快な論理をつくしてそれのゆるがぬ根拠を示すものである。しかも、著者みずからの霊的経験にもとづく、と察せられる、バクティ・ヨーガの究極の境地の描写は、読む者の心を圧倒するばかりである。「宗教は論理を無視するものではない。論理をつくして論理を超越するものである」と説いたスワミ・ヴィヴェーカーナンダの教えの真理を、この一書は実証しているかのようである。

一九九一年二月十六日   日本ヴェーダーンタ協会


祈 り

「彼は宇宙のたましい、彼は不死、統治権は彼のもの、彼は全知、遍在、宇宙の守護者、永遠の統治者。他の誰も、永久に世界を統治することはできない。「彼、創造のはじめにブラマー(宇宙意識)を放射し、そして彼にヴェーダを説ききかせた彼――解脱をもとめて、私はあの光りかがやくお方のもとに身をよせる。彼の光が、理解をアートマンの方に向けるのだ」

シュウェターシュワタラ・ウパニシャッド(六、一七〜一八)


バクティの定義

 バクティ・ヨーガは、真の、純粋な、主の探求です。愛にはじまり、愛でつづき、愛におわる探求です。たった一瞬間の神への愛の狂気は、われわれに永遠の自由をもたらします。ナーラダは、彼のバクティ格言集の説明の中でこう言っています、「バクティは、神への強烈な愛である」「人がそれを得ると、彼はすべてを愛し、何者をもにくまない。彼は永久に満足してしまう」「この愛は、いかなるこの世の利益の期待にも、格さげされるものではない」なぜなら世俗の願望がのこっているかぎり、このたぐいの愛は生まれないのですから。「バクティはカルマより偉大であり、ヨーガより偉大である。これらはある目的のためにおこなわれるのだが、バクティはそれ自身、成果であり、それ自身、手段であり、またそれ自身、目的であるのだから」

 バクティはわれわれの賢者たちの、一つの不断のテーマでした。シャーンディリヤかナーラダのような、バクティに関する特別の書物をのこした人びとは別としても、あきらかに知識(ギャーナ)の鼓吹者である、ヴィヤーサ格言集(ヴィヤーサはヴェーダの編集者)の注釈者たちでさえ、愛についてもまた、非常に示唆(しさ)に富んだ発言をしています。注釈者が、全部とまでは行かなくてもできるかぎり多くの原典を説明したいと思うあまり、それらの内容を一種の無味乾燥な知識としてしまうようなときでも、格言集が、礼拝を説いた章においては特に、そのような形であつかわれることをそうやすやすとはゆるさないのです。

 知識(ギャーナ)と愛(バクティ)との間には実は、人びとがときどき想像するような大きなちがいはありません。話をすすめて行くうちに、それらはおなじ一点にあつまるのだ、ということがわかるでしょう。ラージャ・ヨーガの場合も同様であって、これもわれわれをおなじ目標にみちびきます。もっともそれは、これが解脱(げだつ)を得る手段として実践された場合のことであって、不幸にも世間によく見られるような、いかさま師たちの手でおろかな人びとをだますための手段としてもちいられる場合のことではありません。

 バクティの一つの大きな利点は、それはめざす偉大な神的目標に到達するための、もっともたやすくもっとも自然な道だ、ということです。それの大きな弱点は、程度のひくいものはしばしば、おそろしい狂信に堕落する、ということです。ヒンドゥ教、マホメット教、またはキリスト教の狂信的なグループはもっぱら、このような程度のひくいバクティの信仰者たちの中から、人員を補充してきました。愛の対象へのひたむきな執着(ニシュタ)は、それなしには純粋な愛はそだたないのですけれど、それはまた非常にしばしば、他の一切のものを弾劾するという態度の、原因ともなるのです。あらゆる宗教またはあらゆる国の、すべてのよわい未開発の心は、自分の理想のたったひとつの愛し方しか知りません。つまり他のすべての理想をにくむ、という方法です。ここに、自分の神の理想を実にふかく愛し、自分の宗教の理想には実にふかく献身しているおなじ男が、他の理想のことを見たり聞いたりするやいなやものすごい狂信者になる理由がひそんでいるのです。この種の愛はいく分か、主人の持ち物を侵害からまもる犬の本能ににています。ただ、犬の本能は人の理性よりはましです。犬は、主人がどんな衣服をきて前にあらわれても彼を敵とまちがえるようなことはしないのですから。また、狂信者はすべての判断力をうしないます。彼にとっては、相手は誰か、ということが何よりも重要なのであって、その人が言っていることの正否は問題ではありません。彼がつねに知らなければならないのは、誰がそれを言っているのか、ということです。自分とおなじ考えの人びとにむかっては親切で善良で正直で愛ふかい、そのおなじ人が、自分の属する宗教の仲間のかこいの外の人びとにむかうと、最悪の行為をすることもいとわないのです。

 しかしこの危険は、バクティの準備段階(ガウニ)と称する段階だけに見られるものです。バクティが成熟して、至高の(パラー)とよばれる境地に入ったら、そこにはもう、狂信主義のこのようないまわしいあらわれのおそれはありません。このより高い形のバクティに圧倒されたたましいは、にくしみを発散する道具となるにはあまりに、愛なる神に近いのです。

 今生で完全に調和のとれた人格を形成するということは、われわれのすべてにできることではありません。それでもわれわれは、これらの三つ――知識、愛、およびヨーガ――が調和をもって融合しているタイプの人格がもっとも高貴なものである、ということは知っています。鳥がとぶには三つのもの――二枚のつばさと、方向を定める舵の役をする尾――が必要です。ギャーナ(知識)は一翼、バクティ(愛)はもうひとつのつばさ、そしてヨーガはバランスをたもつ尾です。これら三つの形の礼拝を調和をもってあわせおこなうことができず、したがってバクティだけを自分の道としてとり上げる人びとは、形や儀式は進歩しつつあるたましいにとっては絶対に必要なものであるけれど、神に対してもっとも強烈な愛を感じる、という境地にわれわれをつれて行く以外の価値は、持つものではない、ということをつねに心にとめておくべきです。

 知識の教師たちと愛の教師たちはともにバクティの力をみとめていますけれど、両者の間には多少の意見のちがいがあります。ギャーニたちは、バクティは解脱の道具であると主張し、バクタたちはそれを、道具であり、同時にとげるべき目的である、と見ます。私が思うには、これらはごくわずかのちがいです。実は、道具としてもちいられるバクティは、ほんとうは比較的ひくい礼拝の形式です。そしてもっと高い形のバクティは、後の段階において、ややひくい形のさとりと不可分のものになるのです。各人が自分自身の礼拝に方法を固執しているために、完全な愛とともに真の知識はもとめないでもやってくるのだ、ということを、そして完全な知識からは真の愛を切りはなすことはできないのだ、ということを、わすれているように思われます。

 このことを心にとどめつつ、偉大なヴェーダーンタの注釈者たちがこの問題について言っているところを理解するようにつとめましょう。Avrittirasakridupadeshat(瞑想は必要である。それはしばしば命ぜられているのだから――聖典の中で――)という格言を説明して、バガヴァーン・シャンカラは言います、「つぎのように、人びとは言う、『彼は王さまに献身している、彼はグルに献身している』と。彼らは、自分のグルにしたがい、したがうことを唯一の目標としてそれをする人のことを、こう言うのだ。おなじように、彼らは言う、『愛ふかい妻は、いとしい彼女の夫を瞑想する』と。ここで言われているのも、一種の熱心な、そして不断の記憶である」と。これが、シャンカラによる信仰(帰依)の定義であります。

 「瞑想はまた、ひとつのうつわから別のうつわにそそがれる油の、絶えることのない流れのようにながれる、不断の記憶(瞑想の対象の)である。このような記憶(神についての)ができるようになると、すべての束縛はたち切られる。聖典にはこのように、不断の記憶のことが、解脱への手段として、のべてある。この記憶はまた、見ることとおなじものである。つぎの一節にのべてあることとおなじ意味なのだから、『遠くにおり、また近くにいる彼が見えるとき、ハートの束縛はたち切られる、すべてのうたがいははれ、すべての行為の結果は消滅する』近くにいる人は見ることができるが、遠くにいる人はおぼえていることができるだけである。それにもかかわらず聖典は、近くにいる彼と同様に遠くにいる彼を見なければならぬ、と言い、それによってわれわれに、このような記憶は見ることと同様によいものである、ということを示しているのだ。この記憶は、つよめられると、見ることとおなじ形をとる。‥‥‥‥礼拝は、もろもろの聖典の重要な原文からも見られるように、不断の記憶である。くりかえされた礼拝とおなじものである知ることは、不断の記憶である、と説明されている。‥‥‥‥このように、直接の知覚とおなじ程度の高さにまで達した記憶は、シュルティ(ヴェーダ)の中で、解脱の一つの手段だ、とのべてある。『このアートマンは、さまざまの科学によって到達できるものではない。知性によっても、ヴェーダの多くの研究によっても、到達はできない。誰であれ、このアートマンが欲する人、彼によってアートマンは得られる。彼にむかって、このアートマンはみずからをあらわす』ここに、単にきいたり思ったり、瞑想しただけではアートマンに達することはできない、と言ったあとで、『このアートマンが欲する人、彼によって、アートマンは得られる』と言われている。この上もなくいとしいものが欲せられる。誰であれ、このアートマンをこの上なくいとしく思う人、彼が、アートマンのもっともいとしい人になるのだ。このいとしい人がアートマンを得ることができるように、主みずからがおたすけになるのだ。主はこのように言っておられる、『不断に私をしたい、愛をこめて私を礼拝する者たち――私は、彼らが私の方にくるように、彼らの意志をみちびく』と。それゆえ、誰であれ、直接の知覚とおなじ形であるこの記憶をいとしく思う者は、それはそのような記憶の知覚の対象にとっていとしい者であるから、彼は、至高のアートマンに欲せられ、彼によって至高のアートマンは得られる。この不断の記憶が、バクティということばであらわされるのである」バガヴァーン・ラーマーヌジャは、Athato Brahmajijnasa(いまからブラフマンについての論文がつづく)という格言の注釈の中で、右のように言っています。

 パタンジャリの格言 Ishvarapranidhanadva(または至高の主の礼拝によって)を注釈して、ボジャは、「プラニダーナは、感覚のたのしみなどのような結果をもとめることなく、すべてのはたらきはあの、師たちの師にささげられる、という、あのたぐいのバクティである」と言っています。バガヴァーン・ヴィヤーサもまた、おなじ格言を注釈しつつ、プラニダーナを、「それによって至高の主の慈悲がヨギの上にくだり、願望をかなえることによって彼を祝福する、というタイプのバクティ」と定義しています。シャーンディリヤによると、「バクティは神への強烈な愛である」しかしながら最高の定義は、バクタたちの王、プララーダによってあたえられたものです。「無知な人びとがはかない感覚の対象にむかっていだく、あの不死の愛――私があなたを瞑想しつづけるとき――その愛が私のハートからぬけ出して行きませんように!」 愛! 誰のための?至高の主、イシュワラのための。どんなに偉大であろうと、他のものへの愛はバクティではあり得ません。なぜならラーマーヌジャが彼の「シュリ・バーシヤ」の中で、ある古代のアーチャーリヤ(偉大な師)のことばを引用しているように、「ブラマーから草むらにいたるまで、この世界にすむすべての生きものは、カルマによる生と死の奴隷である。それゆえ彼らは、瞑想の対象としてたすけにはならない。彼らはすべて無知であって、変化をこうむるのだから」シャーンディリヤが使ったアヌゥラクティ Anurakti ということばを注釈して、注釈者スワプネシュワラは、Anu はのち、Rakti は執着のこと、つまり神の性質と栄光を知った後にくる執着という意味である、と言っています。そうでなければ、妻とか子供のような、あらゆるものへの盲目的な執着もバクティでありましょう。それだからわれわれははっきりと、バクティというのは普通の礼拝にはじまってイシュワラへの強烈な至高の愛におわる、宗教的さとりをめざす一連の心の努力だ、ということを知るのです。................


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