最高をめざして

スワミ・ヴィラジャーナンダの法語

(B6版、244頁) 

定価(本体1000円+税)


    原書(初版)発行著のノート

 ラーマクリシュナ僧団および奉仕団の長スワミ・ヴィラジャーナンダ師は大分前から、特に彼の大勢の弟子たちのために、霊性の問題に関する彼の考えや経験を心に浮かぶままに書きとめて来られた。彼は数多の信者の懇請によって、それらが宗派を問わずすべての真理探究者たちの修行の助けになるよう、ベンガル語の一書にまとめて出版なさった。それは一般大衆に非常に喜ばれ、初版は二、三カ月のうちに売り切れて再版を余儀なくされるに到った。彼は更にベンガル人以外の弟子たちからせがまれて、それがインドおよび国外のもっと大勢の人々にとどくよう、みずから英語に翻訳なさった。この書は、彼のこのような骨折りの結果である。スワミは十七歳という若さで出家し、一八九二年、当時まだバラナゴルにあったラーマクリシュナ僧院に入った。その後の五十八年間は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダを始めとするシュリ・ラーマクリシュナの直弟子たちとの交わり、および彼らへの奉仕に、聖典の研究および厳格な霊性の修行に、そしてまた、僧団の高く責任の重い地位に着いてはあらゆる種類の活動に、費された。

 「スワミ・ヴィヴェーカーナンダ全集」第一巻から第五巻までと、東西の弟子たちによる「スワミ・ヴィヴェーカーナンダ伝」全四巻の第一版との、資料収集、編集、および出版について、世はかれに負うところが少なくないのである。このたびの労作の中には、熱烈な霊的精進と心魂を傾けての人類への奉仕に明けくれたこれらの年月の間に得られた、深く多彩な経験の片鱗を見ることができる。

 大きく難解な形而上学の問題を論じ解決するということは、本書の内容の目的ではない。ここに述べられている助言の主要な価値は、実践上のヒントと、内に霊的衝動がめざめた結果何らかの形の直接の自覚を渇望しているのだが、世俗の生活のさまざまの障害、誘惑や落し穴、激流、失敗および失望などと戦って心細く感じたり、さもなければ成功への希望を失ったりしているような人々に、それらが与えるインスピレイションにある。ここに含まれているもろもろの貴重な教えは、弟子または求道者がしっかりとした頼もしい足どりで人生の最高目標への道を進むのを、大きく助けるであろう。主に初歩の段階で求道者が直面して心を悩ます大小さまざまの疑いや問題の、適切な論議と優れて実際的な解決法もその内容の特色であるが、しかしこの書は同時に、それらの助言の基礎である高い霊性の真理を豊かに蔵している。これらの教えはやさしい会話調で与えられているので、まるで直接話をきいているように新鮮で感動的であり、観点が普遍的であるから、男女、学識の有無、老若、または僧俗を問わず、あらゆる宗派に属するあらゆる人々に差別なしに受け容れられ、理解されるであろう。これは実に、霊的生活と至高者の自覚を渇望する人々にとって、欠くことのできない書物である。

 

 一九四九年三月一日 マヤヴァティにて           発行者

(マヤヴァティはヒマラヤ山中、ラーマクリシュナ・ミッションの重要なセンター、アドゥワイタ・アシュラマが置かれている土地の名。発行者は当時のこのセンターの長、スワミ・ヨゲーシュワラーナンダ)


   原著者の献呈の辞

 つつしんでこの書をシュリー・シュリー・サーラダーデヴィとスワミ・ヴィヴェーカーナンダとに献げ奉る。彼らの溢れる恩寵とゆたかな祝福を深く心に銘じて。


    一

 神を悟るには、求道者は次のものを持っていなければならない。忍耐、不屈の努力、心身の清らかさ、強烈な願望、すなわち渇仰心、およびいわゆる「六つの性質」である。「六つの性質」とは、シャマ(心の平静)、タマ(感覚の制御)、ウパラティ(対象物への執着心の放棄)、ティティクシャー(あらゆる種類の苦悩のさ中にいて心を動かさぬこと)、シュラッダー(霊性の師および聖典への信仰)およびサマーダーナ(神への心の集中)である。

    二

 修行の結果として得られるであろう悟り、見神、またはそれに類する経験を、グル以外の誰にも語ってはいけない。あなたの霊性の至宝、あなたの心の奥底の思いは、常に自分の内部に隠しておけ。これらは世間の人々の眼にさらすべきものではない。あなたと主とだけでひそかにわかち合うべき、あなたの神聖な所有物である。同様に、自分の落度や欠点について他人に語ってはならない。それによって自尊心を失うし、他人の尊敬も失う。それらは主に向かって告白すべきものだ。彼に、それらに打ち克つ力を与え給えとお願いせよ。

    三

 瞑想をはじめるときには、まず落着いてすわり、しばらくの間わが心を見つめよ。それが好むところをさまよわせてやれ。自分は目撃者である、傍観者である、と思え。心がどのように浮いたり沈んだり走ったりとびはねたりするか、見つめながらすわっていよ。「私は肉体ではない、感覚でもない、心でもない。私は心とは全く別のものである。心もやはり、物質的なものである。それは、物質のもっと精妙な形であるにすぎない。私はアートマン(自己)である、主人である。心は私の召使いである」と思いつづけよ。何らかの怠惰な思いが起ったら必ず、直ちにそれを強制的に抑えつけるようにせよ。

    四

 人は通常、休んでいるときには左の、働いているときには右の、そして瞑想のときには両方の鼻孔によって呼吸をする。瞑想に最も適した状態は、心身共に静まって呼吸が両方の鼻孔によってなめらかに行われているときである。しかし、あまりこのことを気にしたり、これによって自分の行動を規制したりしてはならない。

    五

 心が完全に静かなときには、呼吸は落ついて、やがてクンバカ(呼吸の保留)がやって来る。呼吸が落ついたときには、心は一点に集中する。バクティ(神への愛)もまたおのずからクンバカを、ひき起し、呼吸は平静になる。ヨガを修行しないでも、主を忘れず渇仰の心でジャパ(称名)を行なっていれば、プラーナーヤーマ(呼吸の制御)は自動的に達成される。

    六

 アビヤーサ、すなわち不断にくり返す努力、とヴァイラーギヤすなわち世間の事物への無執着、この二つ以外には、心の一点集中をとげるための容易い便利な方法は無い。

    七

 あなたがジャパと瞑想に献げる時間がどの位であれ、――たとえそれがたった十分か十五分間であるとしても――心魂かたむけてそれを行ぜよ。主は内在者、内なるガイドでいらっしゃる。かれはあなたのハートを見ていらっしゃるのだ。彼のものさしは何時間瞑想をしたかとか、何回ジャパを行なったかとか言うことではなく、どれほど主を慕っているかということだ。 

    八

 最初は、ジャパと瞑想は無味乾燥なものと感ぜられるだろう。しかし、たとえそれが薬をのむようなものであろうとも、それでもあなたは実行しつづけなければいけない。三、四年間着実に実行すれば、歓喜を覚えるようになるだろう。そうなると、たった一日でも瞑想ができないと不幸に、まるで調子が狂ったように、感じるのだ。

    九

 霊的大成のためには積極的努力( Purushakara )が必要である。「私は修行にはげみ、みずからの努力によって神を悟ろう」と固く決意せよ。そして三、四年間、毎朝、毎晩少くとも一時間ずつ、ふさわしい姿勢ですわってジャパと瞑想とを着実に行ないつづけよ。それで成功するものかしないものか、見てみるがよい。

    一〇

 家住者があまりプラーナーヤーマすなわちヨガをやるのはよろしくない。それをしたいと思う人たちは、生活のあらゆる面で規律と節度を厳重に守らなければいけない。滋養のあるサトゥワ的な(純粋な)食物を適当な時間にとり、規律のある活動をし、悩みのない生活を送り、空気が清浄で気候温和な、健康的で人里はなれた場所に住んで言葉をつつしまなければいけない。とり分け不可欠なのは、ブラマチャーリヤ、すなわち完全な純潔を守ることである。これらの戒めを破ると、ハートもしくは頭脳に病をひき起す恐れがある。

    一一

 ジャパと瞑想をたえず行なうことによって心が静かに浄らかになると、そのときには心みずからがあなたのグル、すなわち指導者になる。あなたはあらゆることを正しく理解できるようになり、霊性に関する疑いや問題には、内部から解答が与えられるようになるだろう。心が次から次へとあなたのなすべきことを告げ、また、どのようにふるまうべきかも告げてくれるだろう。

    一二

 ジャパ(称名)を行なうときには、同時に、あなたのイシュタ(注=求道者が自分のために、または彼の師が彼のために、礼拝の対象として選んだ神の特定の姿、英語では Chosen Ideal と訳す)を瞑想せよ。そうでないと、決してジャパは深まらない。たとえ瞑想の中で神の姿の全部が想い浮かべられなくても、どこでもよい、心に浮かんだ部分から始めよ。失敗しても、幾たびでもくり返すのだ。成功しないからと言って、あきらめては駄目だ。不とう不屈の精神を以てやりつづけるのだ。瞑想は、ただ、やりたいなあと思っただけでやれるようなものではない。心を他の対象からつれ戻して瞑想の対象に集中させる、という努力が必要だ。このことにおける成功は、ひたすら実修をつづけているうちにおのずからやって来る。

    一三

 ジャパ、すなわち心の中でマントラをくり返すのに、それを指でかぞえたり、数珠をくったり、あるいは反復の数をひかえたりする――これらすべては単に、心を他の対象から引き離して礼拝の対象に集中せしめることを助けるための初歩的な手段だ。こういうことをしないと、心がいつ、あらぬ方角にそれて行ってしまうか分らないし、居眠りをしてしまうかも知れないだろう。それゆえ、このような方法は最初はある人々には多少心の集中を妨げるもののように見えるかも知れないが、それらによって心のわるさを見張り、すぐにそれを発見して心を引きもどし、瞑想の対象に集中せしめることができるのだ。

    一四

 決して、自分は弱い、などと思ってはいけない。自分自身を深く信ぜよ。「私にできないことはない。しようとさえ思えば、何でもすることができるのだ」と思え。われとわが心に対して敗北を認めないでもよいではないか。もしそれを服従せしめることができるなら、全世界はあなたの足の下にあるのだ、と知れ。自信をもっていない人は神への真の信仰も持っていない。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、真の無神論者とは、彼自身への信仰を持っていない人だ、と言った。自信を持っていない人間の言葉には、誰も耳を傾けないだろう。神もやはりそういう人の祈りには耳をお傾けにならない。

    一五

 アーサナーとは、しっかりと、しかもらくに長いこと瞑想にすわっていられるような姿勢のことだ。ただし、背骨はまっすぐに保ち、上半身の重み全部が肋骨の上にかかって胸はくぼまないよう、胸と頚と頭とは垂直でなければいけない。いかなる場合にも、屈んだ姿勢は健康ではない。

    一六

 世界は、実体の無いはかないもの、彼だけが実在である、という考えが心の底深く根をおろしていない限り、瞑想のときに心は必ず落着かないだろう。感覚の楽しみへの渇望から解放されればされただけ、神への愛は深まり、それと同時に、心は平静になるだろう。たとえ一かけらでも神の愛を経験すれば、この世のすべての快楽は取るに足りない、味気ないものとなる。

    一七

 ジャパ、瞑想、礼拝儀式、祈り、記憶、聖典の読誦、有徳の人々との交わり、神に関する会話、人里離れた処に退いて霊的思索に没頭すること――この中のどれでもよい、あなたの気持と環境とに応じて、あなたをひきつけるもの、あなたに喜びを与えるものを取り上げて実行せよ。しかし、瞑想とジャパとは最も重要なものだ。どんなに忙しくても、病気のときまたは気分のすぐれないときでも、たとえ一日でも決して怠ってはいけない。このような場合には、もし平常通りの形で行なうことがむずかしいなら、敬礼をし、祈って少くとも十分か十五分間、ジャパをせよ。

    一八

 分別のある人は、医学害を読んで自分で自分の病気を診断、薬を処方しよう、などとはしない。病気のときには医師の助言を乞うべきだ。同様に、もし、多くの書物や経典を読んでから自分のために特定の修行方法を選ぼうとすると、心は疑惑や不安に迷ったりなやんだりして、進歩は妨げられるだろうし、努力の浪費や、時には害を招くことにもなろう。そのわけは、さまざまの経典は、さまざまの気質や能力を持つ、また人生のさまざまの段階にある多くの求道者の必要に応じて、相異なる、時にはまるで反対の行き方や方法を示している。それゆえ、多くの場合、どれが自分にぴったりと合っているかを自分で決めるのは危険である。グルのみが、あなたを正しい道に導くことができるのだ。それだから、霊性の知識はグルから直接に受けなければならないのである。彼から与えられたイニシエイションと指示とはあなたが守るべき唯一の道であると知れ。もしあなたが、彼に命ぜられた修行を彼およびその教えに対するゆるぎない信仰をもってひたすら行なうなら、やがては成功すること疑いない。どんなことがあってもこのような修行は決してあきらめてはならないし、また他の誰がすすめても他の方法を始めてはならない。もし一つの方法から他の方法へととび移るなら、その唯一の結末は、道を見失って何ものをも得られずさまよい歩く、ということだろう。

    一九

 信仰は奇跡を起す――不可能を可能にする。信仰はその小舟をば、帆を上げて乾いた陸地の上でも走らせる。懐疑的な自己は、足くびの深さの水にさえも溺れる。

    二〇

 希望は生命だ。希望は、力と努力の源泉だ。もし希望が失われるなら、その人は死の苦しみを苦しみ、生きながら死んだものとなる。最後の息のときまで希望にすがりつけ。死がやって来るまで、決して神を悟ることへの希望をすててはならない。そうしよう、とさえお思いになれば、彼はいつ、あなたの上に恩寵の雨をお降らせになるか分らない。彼は最後の瞬間にでもご自身をお示し下さるかも知れないのだ、という、この信仰を持ちつづけよ。

    二一

 神が無限のお慈悲をもって、グルを通じて、彼の聖所への入口の鍵であるところのシッダ・マントラをお授け下さったときには、彼がご自身を余すところなくお与え下さったものである、と知れ。しかし、あなたとしては、そのことに対する深い確信を持つことが必要である。もしあなたが不注意と怠慢によって、量り知れないほど貴重なこの宝石を失うなら、自分は神の恩寵を受けるに価せぬ人間なのである、と知れ。この賜ものの正しい評価とは、目標に達するまで、グルから授けられたマントラと教示とを心魂かたむけて実行することである。こうすることによってのみ、あなたは彼に負債の一部を返すことができるのだ。神は自分の近親者たちよりもっと自分に近く親しいお方なのである、ということをあなたが深くさとればさとるほど、あなたは彼の恩寵の、よりよき受納者となるだろう。彼の恩寵によって、あなたは今生においてでも自由になり、永遠に至福にみちた者となるであろう。

    二二

 神への愛と帰依の心が育つまでは、人はこの世界の、うつろいやすく実体のない性質に気づくことはできない。心はたった一つであって、一部分を神に献げ、他の部分は名声や感覚対象への願望によって満たす、という風に、いくつもに間仕切りをする、というわけには行かないのだ。全心を神に献げるのでなければ、彼を悟ることはできない。それができなければ、人はくり返しくり返しこの世に生まれて、果てしない不幸に苦しまなければならないのだ。

    二三

 世を捨てるためには、僧になったり森の中に隠れたりしないでもよい。真の放棄は心のものだ。もし心で世間を捨離するなら、世間に暮らしていようと森に入ろうと同じことだ。たとえ森の中に逃げ込んでも、世間の事物への執着を心の中から完全にすて去っているのでなければ、世間もまた森の中まで迫いかけて来て、今までと全く同じようにあなたを悩ますだろう。それから逃れる道はどこにもないだろう。

    二四

 どうしても世間に暮らさなければならないのであれば神をあなたの世界とせよ。彼と共に家庭を造れ。あなたがなすこと、および見るもの聞くものことごとく、それを神であると思え。それはすべて遊び、彼と共にするゲームである。人生は一つのゲーム、その中では母ご自身が遊び手であり、あなたは彼女の遊び相手である、と知れ。母があなたと共に遊んでいらっしゃるのだということがわかると、この世界はまるで変って来るだろう。この世界には幸福もなければ不幸もない、善もなければ悪もない、執着もなければ嫌悪もない、貪欲もなければ嫉妬もない、ということがわかるだろう。したがって、すべての迷いや利己主義や争いは消滅し、そこでは決して、対立に苦しむということはないだろう。この母なる神との遊びの中では結合または分離、友または敵という観念、高い低いの観念、「私が」および「私の」という観念は、すべて非存在である。ただ、くんでも尽きない至福、無辺際の愛、および無限の平和があるだけだ。もし、かの至福をたとえ一しずくでも経験するなら、世俗の対象の喜びなどは軽べつすべきものに思われるだろう。かの愛をたとえ一原子でもわがものとするなら、全世界が自分の最愛の者たちよりも愛しくなり、天上の至福が、全身の毛孔の一つ一つを通して感ぜられるだろう。この遊びの中には恐れはない、心配も、束縛も、疲れもない。それは常に永久に新しいプレイだ。また、何と無限に数多くの遊び方を、母はご存じなのだろう! 彼女がお遊びになる形や方法には際限がない! 人はそれを思っただけで夢中になり、その中に合一してしまう。その超越的恍惚状態の瞬間には、遊びはやむ。だってそのときには誰が誰と遊ぶというのだ? この喜びにみちた経験、この幸福な合一の状態は言葉や思いの及ぶところではない! 知る人のみぞ知る! 実に愉快だ( Great fun)! ああ、実に愉快だ!

    二五

 私たちは世間の楽しみは十分に楽しみ、それと同時に神の自覚も得たいと思います。むなしい夢だ! それはできない、わが友よ。

    二六

 もし神が来て、「お前は何が欲しいのか。私が欲しいのか。それとも、名声と健康と富にみちた幸福な生涯を百年も、妻や子供や孫たちと共に生きたいのか」とおっしゃったら、おそらく一千万人に一人を除いて他は全部、熱心に後者をお願いすることだろう。

    二七

 神を自覚するためには、人は百パーセント、自分をその仕事に心から献げ切らなければならない。たとえその一パーセントの百万分の一、または極微の一小部分が欠けていても駄目だ。われわれのほとんどすべての者がねがうのは大した骨折りや苦しみをせず、何ものをも犠牲にしないでやすやすと彼を悟ることだ。私たちは神と世間との間で妥協したいと思います。私たちは、もしグルが無限の慈悲をもって彼にひきあわせて下さり、私たちに救いを与えて下さるなら、これにまさる仕合せはないと思います。ああ、どうしてそんなことができよう?「主は、貸しは全部とり立てなければ承知なさらない。最後の一銭一厘までも勘定して」

    二八

 ほんとうに彼を欲する人は彼を見出す。そうでない人は、五人の悪魔たちの調子に合せて踊らされ、肉体と宇宙の物質を形成する五元素――土、水、熱、空気、および空間――にもてあそばれる。彼はあらゆる種類の悪い力のなすがままになるのだ。

    二九

 広告をうのみにして、多くの人が一トラー(注=インドの重量単位)半ルピーの金を買いに走る。だが、純粋の金だけが金なのだ。ただ金の様に光っているだけのものは金ではない。それはまやかしであり偽せものである。半ルピーを失うだけではないか!

    三〇

 祈りとは、一定の聖句をとなえることではない。そんなことをしても、何の効果もありはしない。心中に祈っている事柄に対する真の欲求を感じ、その祈りがかなえられない間は強烈な苦悩を感じるようでなければならない。その道程にどんな困難があっても必ず祈りの目的を達する方法を見出そう、と思って落つかず、まるで生命にかかわることででもあるかのように、心魂かたむけて奮闘努力しなければならない。そのようにしてはじめて、あなたの祈りはかなえられ、心底からの願望はみたされるであろう。このような祈りだけが、至高者の御座にまでもとどくのだ。

    三一

 最高の知識、信仰、霊性――これらのものは、莫大な努力によってはじめて得られるものだ。それらをかち得るためには、人は非常な努力をしなければならない。この努力あってはじめて、それらはその人のものとなり、長持ちし、言いつくし難い喜びをもって心を満たすようになるのだ。このようなものを贈りものとして人に与えることは誰にもできない。人は霊的修行を勤勉に実践しなければならない。それによってのみ、悟りは得られるのだ。その程度は霊的努力の強度に応じて異なる。訓練、または厳しい労働なしに得られたものは、その重みを失い、高く評価されず、はげしい努力によって得られるような幸福をもたらさない。おまけに、来たときと同様にやすやすと行ってしまい、怒り狂う人生の大波に打ちのめされたときにはほとんど助けにならない。危険、困難、試練にあたってもろ共におし流されてしまう。霊性をその人自身のものとする、ということは、自分を完全に自己(アートマン)の自覚の中に浸み込ませ、ためにその人の性格が全く変って完全に新しい人格が現われる、ということだ。それはこの同じ肉体の中でもう一度生まれ替るようなものだ。子供の遊びではない。このようなことは、その人が完全にめざめて、まるで全生命がそのことにかかっているかのようにそれに最大の努力を傾けたときにのみ、可能である。こういうわけだから、人はまだ目標に達していない間は絶え間なく、そしてひたむきな献身をもって、霊性の修行を続けなければならない。

    三二

 もしあなたが他者のために自分の小我を捨てるなら、あなたは真の自己(アートマン)を見出すばかりでなく同時に他者をあなたのものとするだろう。小我を助けようとすればするほど、一層自分の真の自己を失い、そして他者を遠ざける。

    三三

 絶え間なく努力しつづけよ。英雄のように戦え。決してふり返ってはいけない、常に前進せよ。ゴールに向かって進め! 途中で疲れたとか、駄目になったとか、かたわになったとか、そんなことにいささかでも注意を向けてはならない。恐れるな! 勇気! 勇気! 負けるという思いすら、心に入ることを許してはならない。ゴールの実現、さもなくば肉体は朽ちよ! これをあなたのマントラとせよ。勝利か死か! これをあなたのかけとせよ。死ななければならないのなら、英雄の如くに死ね。要塞はこのようにして襲うものだ。

    三四

 泣きごとや自己憐びんは何の役にも立たない。「私は実に不幸な、つまらぬ、悪い、弱い人間です。何ひとつ自分ではできません」こういうのは、にやけた男、無能力な愚者のいう言葉だ。こんな人々に何かができると思うか。一心に励み、はっきりと目をさまして前進せよ。それで始めて、成功が得られるのだ。ただすわって「おお! 道は遠く険しい」と言っているだけで道は終るか。立って歩き始めるのだ。すると進むにつれて、道は次第に短くなるだろう。勇気、力、希望、思いがけない助けがやって来るだろう。道は次第に平たんに、まっすぐになるだろう。そして間もなく、ゴールに着くだろう。おお! 成就の喜びよ!

    三五

 多くの人々は、もし悟りを開いた(シッダー)グルによってイニシエイト(注=グルが、弟子となる者にマントラを授ける。それによって、両者間に師弟の関係が成立する)されれば、師がそのつもりになりさえすれば彼の慈悲により、ある神秘的な方法によって自分のすべての悩みは解消するものだ、という風に考えている! こうして、不治の病も癒されるだろう、思い通りの職が得られるだろう、この世で幸福に暮らし、繁栄するだろう、娘たちにはやすやすと良縁が得られるだろう、高校または大学の試験にはパスするだろう、訴訟には勝ち、商売や事業は繁盛するだろう、家庭のもめごとは片づくだろう、土星のような不吉な星の影響もまぬがれることができるだろう、などなどというわけだ! 彼らがグルに持込む懇願にはきりがない。彼らは、イニシエイション、すなわち霊的修行をはじめることと、これらのつまらない世俗の問題との間には何のかかわりもない、ということを知るべきである。グルに向かってこんな恩恵を乞うのは子供じみたことでもある。全然、霊性の徴しなどではない。グルは全能の神でもなければこの世の贈り物の分配者でもなく、人々の運命の支配者でもない。そんなわずらわしい願いごとによって彼を困らせたり悩ませたりするのは間違っている。そんなことをすると、その弟子は、グルの恵みや祝福を受けるよりむしろ不興をこうむることになるだろう。グルと弟子との関係は純粋に霊的なものである。

    三六

 果報をねがいつつ行なう祭祀や礼拝は、ただの商取引である。このような見解をもって霊性をかちとることはできない。そこから得られる結果は極度に貧弱な、そしてはかないものである。果報への願望を抱きながらの礼拝は心を浄めない。神への高い信仰も得られなければ救いも得られない。永続する平和も喜びも得られない。シュリ・ラーマクリシュナは、何らかの下心をもって献げられた品物は受けることが、いや、それに触れることさえ、おできにならなかった。

    三七

 今生で神を自覚するためには、自分の力と才能の全部をあげてサーダナー(霊的修行)に努めなければならない。自分の一切を、もしできるならそれ以上を、彼に献げなければならない。シュリ・ラーマクリシュナがよくおっしゃったように、十分と言われる以上に信仰し献身せよ。その意味は、人は信仰と帰依の心が溢れている器のようにならなければいけない、ということだ。どれほどの人たちがこの豊かさを持っているだろうか。だが、絶望する必要はない。あなたの能力の最善を尽してサーダナーをやりつづけよ。ただし、常に次のことを堅く信じていよ。すなわち、自己(アートマン)の自覚が目標である場合には、たとえどんなにはげしく努力をしてもそれは無にひとしく、決して足りるということはないのである。なぜなら、究極的にはこの目標は、彼のお慈悲によってのみ、達せられるのだから。

    三八

 しかし神のお慈悲は、自己の最大限の力を尽した者、決して骨を惜しまなかった者、舵をすてなかった者、幾多のはげしい努力の末ついに、自力のみで神を自覚することは不可能だ、彼のお慈悲なしには不可能だ、ということを知るに到った者の上だけに降るのである。求道者が、もやもやとした薄やみの中で道に迷ってしまったように感じ、岸の見えない海中で溺れかかり、浮かぼうと、して力つきた、と感じたときに、そのときに始めて、主は蓮華のおん手で彼をひき上げ、生死の世界の彼方、永遠の至福と無限の平和のある処につれて行って下さるのだ! その至福のたとえ一微粒子でもをわがものとするなら、そのシヴァすなわち個人の魂は、量ることのできない幸福を感じるのである。

    三九

 なぜそんなに世間を恐れるのか、まるで取って食われるかのように。勇敢であれ! 無恐怖であれ! 英雄となって、世間を軽く見よ。そうすると世間も、あなたをつかんでいる手を離すのだ。「私は大そう弱い、私は程度が低く罪深い、私は無価値な人間だ。何ひとつ成就することはできない、私にはその能力がない」こんな有害な想念を抱いていては、人生で何事を行なっても決して成功はしない。そんな思いを一掃して立ち上り、英雄のように言え、「私は不死の子、不死性は私の生得の権利、何ものもそれを私から取上げることはできない!」と。   

    四〇

 弱さ、または怠惰が心を占めたときには、次の詩句を朗誦せよ。

 私は神の子、その他のものではない。

 私はブラフマン、絶対者、

 不幸や悲しみは、私には近づけない。

 私はサット・チット・アーナンダ。

 私の本性は永遠の自由。

 おお、心よ、言え、オーム!

          タット、サット、オーム!と。

    四一

 できる限り主を記憶し、彼のことを思うようにせよ。彼のみを、自分自身よりももっと親しい、自分の身内として認めよ。この世においてもあの世においても、あなたのたった一つの隠れ家であり頼りどころである彼、彼のみを心魂かたむけて愛せよ。人はわが愛する者のことを思い、思いつつそれによって喜びと幸福を感じる。常にその愛する者と共にいたいと願う。他の話題について語らなければならないとか、他のことに心を向けなければならないとなると恨む。しかしながらこのような地上の愛には、地上の他の一切のものと同様に別離と終末がある。しかし、神の愛には終りはない。それは尽きることのない宝だ! それを飲めば飲むほどもっと欲しくてたまらなくなる。そしてついには、至福の中に没入して、自分を忘れ、その中に溶け込んでしまうのだ。そのときには、この小さな個人性は溶け去って神性がその場を占めるだろう。この死骸のような存在の代りに、神意識が魂を照らすだろう。死の踊りは永久に止み、あなたは、不死性を得るのである。

    四二

 あなたは霊性に関する助言はすでにいやというほど読んだり聴いたりした。日常生活の中で多少でもそのような助言を実行しようと努力するのでなければ、どんなに沢山読んでも聴いても何にもならないだろう。誰もあなたに代って何かをして上げる、ということはできない。あなたが自分でやる他はないのだ。もしあなたが真剣に努力しはじめるなら、神はあなたを助け、その恵みを、あなたの上にお垂れになるだろう。神ご自身でさえ、そのような者の荷物を背負い、彼の途の一部を、お導きになるのだ。第一にみずからの努力、次に恩寵、そして最後に実在の自覚である。...........


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