抜粋ラーマクリシュナの福音

第一章 ドクシネシュワルにおけるシュリ・ラーマクリシュナ

    第一節 師との最初の出あい

 一八八二年の春、花の季節であり、甘美な南風の季節である。ここちよい三月のある日、太陽は宇宙の母(カーリ)の聖堂の上に沈もうとしている。大自然が微笑み、喜んでいる。このようなときに、Mははじめてこの神人におめにかかったのである。

 シュリ・ラーマクリシュナが長年住んでいらっしゃる母なる神の寺院は、ガンガーの東岸、カルカッタ市の北約四マイル、ドクシネシュワルの村にある。

 彼は、聖河の流れを見わたす自室の寝椅子(二つある寝台の、小さい方)の上にすわっていらっしゃる。彼の弟子たちとその他の信者たちは床の上にすわっている。彼らは師の慈悲ぶかい笑顔を見つめ、その神聖なお口からもれる生きた言葉の甘露水を飲んでいる。

 東を向き微笑みながら、師は主のことをお話しになる。

 Mは中を見て、言葉を忘れ、立ちつくす。Mは、目の前で主のことを話しているのはシュカデヴァ(生まれながら主を愛した聖者)ではなかろうか、と疑う。Mは自分の前にすわっていらっしゃるこの神なる説法者の言葉を聴いて、自分がまるで数多の聖地が集まって一つになった場所に立っているかのように感じる。プリの聖地でラーマナンダやスワループをはじめとする愛弟子たちとともに愛しい主の御名と彼の栄光にみちた御わざとをたたえられた主ゴウラーンガ・デヴァ(チャイタニヤ)が、彼の前にすわっていらっしゃるのかも知れない。

 シュリ・ラーマクリシュナはこうおっしゃる、「もし主の御名(ハリまたはラーマ)をきいただけで髪が逆立ち、歓喜の涙が目から溢れるようになったら、そのときには間違いなく、お前たちは主へのお勤め(カルマ)たとえば上層三階級に命じられている、毎日朝昼晩三回の勤行(ガーヤトリ)をしないでもよい時期に入ったのだ。そうなるまでは、お前たちに勤行(カルマ)をやめる権利はない。そうなれば実に、勤行の方が自然に脱落する。魂がこのような境地に達したら、信者はただ、主の御名、(ラーマ、ハリ、または単に象徴・オーム)をくり返せばよい。それで十分だ。他のお勤めはいらない」

 師はまたおっしゃる、「サンディヤーはガーヤトリになって終り、ガーヤトリは単に象徴・オームになって終るのだ」と。

 Mはバラナゴル(ドクシネシュワルの近く)に滞在している。彼は友人シドゥとともに夕方の散歩の途中、この寺院を訪れたのだ。日曜日で仕事は休みなのである。

 散歩の途中でMはまず、P・バネルジーの庭園を訪れたのだった。そこでシドゥが彼に、「ガンガーの岸に美しい庭園があるのだ。行ってみようではないか。パラマハンサと呼ばれている一人の聖者がそこに住んでいるのだ」と言ったのである。

 Mは言葉を忘れて立ちつくす! 彼は心の中で思う、「何という魅力のある場所だろう! 何という人だろう! 彼の言葉の何と甘美で魅力のあること! ここを動きたくない。しかし、まずそこらを見てまわって、この寺がどんな所であるかをはっきり知るとしよう。そのあとでここに戻ってきて、彼の足下にすわろう」

 Mは部屋を出て中庭に入る。彼は父なる神(シヴァ)の聖堂、愛の化身(ラーダーカーンタ)のそれ、そして最後に母なる神(カーリ)の聖堂を訪れる。

 ちょうど夕方、礼拝の時刻である。神職たちが、鈴やシンバルやドラムに合せて神像の前で灯明を打ち振っている。境内の南端から、南のそよ風に乗って、寺院の楽団が笛やその他の楽器で奏する甘美な旋律がただよってくる。その音楽はガンガーの河面にまではこばれ、遥か彼方に消えて行く。南から吹いてくる微風は何とここちよく、さまざまの花からくる甘い香りにみちていることだろう! 月が昇り、やがて聖堂も庭園もやわらかい銀色の光に包まれる。まるで自然と人とが、ともに喜び、夕拝に参加しているかのようである。

 Mはこの恵まれた光景に接して、喜びでいっぱいになる。シドゥはMにこう言う、「これはラシュマニの寺院だ。ここでは毎日欠かさず、朝から夜まで祭祀がおこなわれている。ここではまた、祭神への供養のおさがりが、毎日修行者や貧しい人々に施されているのだ」

 二人の友は壮大な中庭をぬけて、シュリ・ラーマクリシュナの部屋の方へ戻って行った。部屋の入口につくと扉がしまっている。Mはイギリス風の作法を学んでいるので、許可なしに入っては失礼であろうと思う。

 少し前に香が焚かれたところだ。

 戸口に女中のブリンダが立っている。Mは彼女に言う、

 M「あの、女中さん、彼はお部屋においでなのですか――聖者は」

 ブリンダ「はい、このお部屋においででございます」

 M「いつ頃からここに住んでおいでなのですか」

 ブリンダ「おお、何年も、何年も前からでございます」

 M「おそらくたくさんの書物を読んでおいでなのでしょう」

 ブリンダ「おおとんでもない、いいえ、一冊も読んではいらっしゃいません。彼の御口がいっさいのことを――最高の真理までも――お話しになるのですよ! 彼の御言葉は天上からくるのでございます」

 Mは大学を出たばかりである。師は学者ではない、ときかされたのだ! これをきいてあっけに取られる――驚いて言葉もでない!

 M「けっこうです。彼はいま夕方のお勤め(サンディヤー)をなさっていらっしゃるところだろうか。われわれが入ってもかまわないでしょうか。すみませんが、彼に、われわれがおめにかかりたがっていることを申し上げてくれませんか」

 ブリンダ「まあ、お入りなってもいいのですよ、坊ちゃま方。ずっとお入りなさい。そして彼の御前におすわりなさいませ」

 そこで彼らは部屋に入る。他には誰もいない。師は一人で、小さい方の寝台の上にすわっていらっしゃる。香が焚かれており、戸は閉めてある。Mは手を合わせてあいさつをする。床にござが敷いてある。彼の御言葉にしたがってMとシドゥはそこにすわる。

 師はさまざまの親切な質問をなさる。「名は何というのか」「どこに住んでいるのか」「何をしているのか」「なんでバラナゴルにきたのか」等々が、Mに出された質問の一部である。Mはこれらすべてにお返事をする。しかし、Mが話しているときにでも、シュリ・ラーマクリシュナが、彼が瞑想していらっしゃると思われるある他の主題の方に心をお向けになることに気がつく。

 これが神意識というものなのだろうか。それはMの心に釣竿を手に湖水のふちにすわっている男の姿を思い浮かばせる。魚が餌に食いつくとうきがふるえる。男は熱心にうきを見つめる。心の力を集中して竿を握り、他をふり向かず人と話もしない。

 Mは後になって、彼が毎日何回も神意識の独特な状態(サマーディ)にお入りになり、外界の意識を完全にお失いになるのだ、ということをきいた。

 M(シュリ・ラーマクリシュナに)「師よ、まだこれから夕方のお勤めをなさらなければならないのではございませんか。それでしたら、今晩はこれ以上お邪魔してはなりません。他の日にうかがいます」

 シュリ・ラーマクリシュナ「いや、いや、急がなくてもいいよ」

 彼はまたしばらく黙っていらっしゃる。やっと口をお開きになったかと思うと、夢を見ているような調子で、「夕方のお勤めだって? いや、いや、そんなものではない」

 それからしばらくたって、Mは師にあいさつをする。彼はそれに答えて、「またおいで」とおっしゃる。

 バラナゴルへの帰途、Mは思う、「この神人はどういう人なのだろう? 私の魂がもう一度あいたいと渇望するのはどうしてなのか。人が偉大であるが学者ではない、ということはあり得るのだろうか。この、魂の底から彼を慕う思いは何を意味するのだろうか。彼は、またこい、とおっしゃった。明日か、おそくとも明後日にはまたこなければならない。

   

    第二節 師と弟子

 一両日の後、朝八時頃、Mはふたたび訪問した。 師は床屋にひげをそらせようとしていらっしゃっる。冬の寒さがまだ去り切らないので、赤いモスリンでふちを取ったモールスキンのショールをまとっていらっしゃる。Mを見て、「やあ、きたね、よし、よし。ここにおすわり」とおっしゃる。

 この会見がおこなわれたのは、彼の部屋に入る途中の南向きのベランダであった。床屋の前に腰をおろして、彼は上ばきをはき、右に述べたショールをかけていらっしゃった。

 彼は床屋に仕事をさせながら、Mに向かってお話しになる。いつものように、顔に笑みを浮かべていらっしゃる。ただ、話しながら少しおどもりになる。

 師(Mに)「家はどこにあるのかね」

 M「カルカッタでございます」

 師「ここバラナゴルでは誰の家に泊っているのか」

 M「姉のところ、イシャン・カヴィラージャの家に泊っております」

 師「イシャンの家に、おお、そうか。ケシャブがいまどうしているか、お前知っているかね。非常にぐあいが悪かったときいたが」

 M「はい、私もそのようにききました。いまはもう、よくなっていると存じます」

 師「私はケシャブの回復を祈って、母なる神にささげもの――グリーン・ココナッツと砂糖――をすることを誓ったのだ。ときどき真夜中に目をさまして叫んだものだった。『おお母よ、ケシャブを治してやってください。もしケシャブがいなかったら、私はカルカッタに行ったときに誰と話をしたらよいでしょう』と。

 お前、ミスター・クックという人が近頃カルカッタにきていたことを知っているか。講演をしていたらしい。いつかケシャブが蒸気船に乗せてくれたが、そのとき、彼がそこにいた」

 M「はい、私も彼のことはたくさんききました。私は彼が講演をするのは一度もきいたことがございません。また彼のことも、あまりよくは存じません」

 師「プラタープの兄弟がきて数日間ここに泊まった。彼はここに滞在するつもりできたのだと言う。仕事がないので、妻と子供たちを義父の世話に任せてきたのだ。しかしここでわれわれは、彼の自尊心の欠けていることを叱ってやった。育てなければならない子供が大勢いるのにあんな調子で歩きまわっているのはたいそう良くないことだ、とは思わないか。他人がやってきて彼らを養い、面倒を見なければならないと言うのかね。よその人が自分の家族の世話をしなければならないのだということを――つまり義父が彼の荷物を背負わなければならないのだということを――恥ずかしいと思わないのだろうか! 私は彼を厳しく叱り、仕事を探せ、と言ってやった。このようにして自分の愚かさを指摘されたので、ようやく彼は去って行った」

 師(Mに)「お前、結婚しているのか」

 M「はい、致しております」シュリ・ラーマクリシュナはこれをきいてびっくりなさった、「ああ! 彼はもう妻をめとっているのだ! 主よ、彼をおたすけください」

 これをきいてMはろうばいした。重罪を犯した者のように頭をたれ、言葉もなくすわっていた。彼は心の中で思う、「では結婚するのはそんなに悪い事なのか?」

 師「子供たちはいるのか」

 Mは自分の心臓の鼓動をきくことができる!「はい、おります」と、弱々しい声で答える。

 師はぎょっとなさる。彼はMを非難して、「ああ! 育てなければならない子供たちまでいるとは!」

 Mは、自分のうぬぼれに恐ろしい打撃が加えられたことを感じる。

 少したつと師は優しく見上げ、愛情のこもった調子でおっしゃる、「ねえ、私の息子、お前は、ある良い人相を持っているのだよ。私は、目とひたいとを見てそれを知ることができるのだ。ヨギたち――前生で神との交わりに日々を過ごした人々――の目は、独特の表情を持っている。ある人々の場合には、まるでたったいま、神の黙想の席(アーサナー)を立ってきたばかりのように見えるのだよ!

 さて、今度はお前の奥さんだ――彼女のことをどう思うかね。神の方に、また光の方にむかう、神的な性質(ヴィディヤーシャクティ)の人か? それともその反対、神から離れて闇の方にだけむかう性質(アヴィディヤーシャクティ)の人か?」

 M「彼女は申し分のない女でございます。しかし無知で」

 師(きびしい調子で)「彼女は無知でお前は賢いと言うのか! お前は、自分は叡知を獲得したと思っている! そうかね?」

 Mは、叡知と無知が実は何であるか、ということを知らない。彼は、書物をたくさん読む人が賢い人だ、思っているのだ。(もちろんこの間違った考えは後に除かれ、彼は、神を知ることだけが叡知であり、神を知らないことが無知である、と教えられた)

 師が「お前は自分は叡知を得たと思っているのか」とおっしゃったとき、Mのうぬぼれは第二の打撃を受けた。

 師「お前は神を、『形のないもの』として瞑想するのが好きか、それとも『形あるもの』として瞑想するのが好きか」

 この質問はふたたびMを当惑させ、考えさせる、では、人が無形の神を信じていながら同時に、彼は形を持つ、と信じることがあり得るのか。さもなければ、彼を『有形』と信じている人がどうしてまた彼は『無形』であると思うことなどができよう。同一の実体の中に相矛盾する二つの属性が共存することができるものだろうか。ミルクのように白いものが同時に黒くあり得るのだろうか」と。

 しばらく考えた後、Mは言った、「私は神を、『形のある』存在としてよりむしろ『形のない』存在として瞑想したいと思います」

 師「それはよろしい。神をこの見方で、またはあの見方で眺めることは少しもさしつかえない。そうだ、そうだ、彼を無形の存在と考えることはまったく正しい。しかし、その見方だけが正しくて他は全部間違っている、などという早合点をしないように気をつけるのだよ。彼を『形のある』存在として瞑想することも同じように正しいのだ。しかしお前は、お前が悟るまで――お前が神を見るまで(そのときいっさいのことがはっきりわかるであろう)――お前のその見方を堅持しなければいけない」

 ここでMはふたたび言葉を失う。彼は何回も師の口から、矛盾は神については真理だ、ということをきくのだ! 彼はいままで読んだすべての書物の中でこのような奇妙な説にはであったことがないから、これに対しては彼の学問も力が及ばない。彼のうぬぼれはもう一つの打撃を受けた。しかしそれはまだ完全に押しつぶされていない。そこで彼は質問をつづけ、もう少し師と論じ合おうとする。

 M「そこで、師よ、神は『有形である』とするのはよろしゅうございます。しかしけっして、彼は人々が拝んでいるあの土の像ではございません!」

 師「しかし、お尋ねするがね、なぜ土の像だなどと言うのだ? 神像は間違いなく霊でできているのだよ!」

 Mはこれを理解することができない。Mは言う、「しかし、偶像を拝む人々にむかっては、神は彼らが拝んでいる土の像と同じものではないということと、拝むときに彼らは土の像ではなく神そのものを心に描かなければならないのだ、ということをはっきりと教えてやるのが人の務めではございませんか」

 師(きびしく)「お前たちカルカッタの人々の間では、『説教すること』と『他人を教えること』ばかりを考えたり話したりするのが流行になっている! ねえ、お前たちはどのようにして、お前たち自身を教えようとしているのかね。え? 他人を教えるお前たちはいったい何者なのだ? 宇宙の主が、もし必要があれば人類にお教えになるだろう――太陽と月をつくり、人や動物をおつくりになった主、彼らが生きるのに必要なものをおつくりになり、彼らの世話をし育てる親たちをおつくりになった主、あれほど多くのことをなさった主――彼が、彼らを導くこともなさらない、などということがあろうか。必ず、もし必要なら、彼がなさるだろう。彼は人間の身体という聖堂の中に住んでいらっしゃる。彼はわれわれの最も深い思いをご存じだ。かりに偶像礼拝に何か間違ったところがあるとしても、すべての礼拝は彼に向けられているのだ、ということを彼がご存じないはずがあろうか。それは彼以外のものに向けられたものではない、ということをご存じで、喜んでそれをお受けになるだろう。なぜお前たちは、自分の力のおよばないことで心を悩ますのだ? 神を知り、そして敬うことを求めなさい。神を愛しなさい、それがお前たちの、最も身近にあたえられた努めである」

 Mのうぬぼれはいまや完全に押しつぶされた。彼は心に思う、「この神人のおっしゃることはまったく本当だ。他人に説教してまわる必要がどこにあろう。私自身が神を知っているのか。私は神を愛しているか。これはちょうどことわざに、『自分が寝るだけの場所もないのにわが友シャンカラに、きていっしょに寝よとすすめる』と言っているのと同じだ! 神について、私は何も知りはしない。本当に、他人を教えようと考えるのは愚の骨頂であり無作法そのものだ――恥ずかしいことだ! これは数学や歴史や文学ではない、神の科学なのだ! そうだ、この聖者の御言葉の力はよくわかる」

 これが、師と議論をしようという、Mの最初の試みであり、そして幸いなことに最後の試みであった。

 師「お前は、『土でできた像』のことを言っていた。そうだ、そのような像でも、礼拝する必要はしばしば生まれてくるのだ。神ご自身が、これらさまざまの礼拝形式を授けてくださったのだよ。このようなことは全部、主がなさったのだ――さまざまの知識の程度にあるさまざまの人々に適合するように。

 母親は自分の子供たちのために、その一人一人が自分に合う料理を食べることができるように食物を用意するだろう。五人の子供がいるとする。一尾の魚を手に入れたら、彼女はそれからさまざまの料理をつくる。子供たちのおのおのが自分にぴったり合ったご馳走を食べることができるだろう。一人は魚入りの濃厚なピラフをもらうが、彼女は消化力の弱いもう一人の子にはスープを少しやるだけだ。三人目のためにはすっぱいタマリンドのソースを作り、四人目のためには魚をフライにする、というぐあいに、相手の胃袋に合わせるようにする。わからないか」

 M「はい、よくわかりました。初心者は主を、土の像の中に霊として拝すべきなのでございますね。信者は進むにつれて、神像からは独立して彼を拝むようになるのでございましょう」

 師「そうだ。そしてふたたび、彼が神を見たら、そのときにはあらゆるもの――神像も何もかも――が霊の現れであるということを悟るのだ。彼にとっては神像は霊でできたもの――土でできたものではない。神は霊なのである」

 M「師よ、どのようにしたら、心を神に集中することができるのでございましょうか」

 師「そのためには、人は、絶えず神の御名と彼の偉大な属性とをとなえなければならない。常に高徳の人々との交わりを求めるべきだ。常に、主を信仰する人々や主のためにこの世の事物を放棄した人々の間に行くようにしなければならない。たしかに、世間の苦労や心配の中で心を神に集中するのは難しいことだ。それだから、人は時おり、彼を瞑想するために人気を離れた場所に行かなければいけない。霊の生活の最初の段階では、人は独居しないとやっては行けない。

 植物が若いときには、周囲に垣を作って守ってやらなければならない。そうでないと、ヤギや牝牛が食べてしまうだう。

 心、人目につかぬ片隅、および森は、瞑想(ディヤーナ)のための三つの場所である。人はまた、実在と非実在(現象世界)との識別(ヴィチャーラ)を実践しなければならない。このようにすれば、人は富、名声、力および感覚の楽しみというこの世の事物への執着をふるいおとすことができるだろう」

 M「師よ、一家住者として、世間にどのように暮らすべきでしょうか」

 師「心には常に神を思いながらすべての務めをおこないなさい。両親や妻や子供たちについては、まるで彼らが自分のものであるかのように彼らに仕えなさい。しかし心の奥の奥では、彼らは実は――彼らも主を愛しているのでない限り――自分のものではないのだ、ということを知っていなさい。主お一人だけが本当に自分のものなのだ――それと主を愛する人々とが。

 金持の家に仕える女中は自分にあたえられたあらゆる仕事をするが、心はいつも、自分の故郷のことを思っている。主人の家は、彼女の家ではないのだ。彼女は本当に主人の子供たちを、しばしば『私のラーマ』『私のハリ』などと呼んで、まるで自分の子供であるかのように世話をするだろう。しかしその間中彼女は、子供たちは自分の子ではない、ということをよく知っているのだ。

 カメは食物を求めて水中を動きまわるが、彼女の心はどこにあると思うか。間違いなく、自分が卵を産んでおいた河の堤防の上だ。同様に、お前も世間で自分の仕事をしながら動きまわってよいが、心は常に主の尊き御足のもとにあるよう、十分に気をつけなさい。

 もし霊性の修行(サーダナー)によって主への深い愛(バクティ)を得る前に世間に入ると、お前はそれに従属し、まき込まれてしまうだろう。悲しみ、災害など、生身の人間が受けなければならないさまざまの不幸が、お前に心の平衡を失わせるだろう。世間の事柄に身を投じて心をまどわせればまどわすほど、ますます世間への執着は深まるだろう。

 ジャック・フルーツ(パンの木の一種、の実)を割ろうと思ったらまず手に油をすり込め。そうでないと乳のような汁がベタベタと手につくだろう。まず信仰(バクティ)という油で手を浄め、それから世間の物事を扱うのだ。

 しかし、そのためには独居が絶対に必要だ。もしバターを作ろうと思ったら、凝乳をどこか人のこない所に置け。動かされると固まらないだろう。次の仕事は、静かな場所にすわってかくはんをはじめることだ。

 もし独居して神を想うなら、お前は放棄(ティヤーガ)と信仰の精神を得るだろう。おなじ心が世間に向けられた場合には、それは俗悪になって『女と金』(注)の別名である世間のことしか考えないだろう。

 (注)シュリ・ラーマクリシュナの教えは、神を悟るまでは女に近づいてはならぬ、神を悟ったら、女は神の化身として礼拝されるようになる、というもの。

 世間は水に、心はミルクにたとえることができよう。ミルクは、ひとたび水がまざったら元の状態に戻すことはできない。それの純粋さは、もう一つの異なった状態においてのみ保つことができる。つまり、まずバターに変えられ、それから水に入れられるなら、である。お前の心というミルクを、独居の中で行なわれる霊性の修行(サーダナー)によって神の愛(バクティ)というバターに変えなさい。そうすればバターは決して水にはまざらず、水面に浮き上るだろう。同様に、お前の心も世間に影響されることはないだろう。世間の中にいても、世間のものにはなるまい。真の知識(ギャーナ)または信仰(バクティ)がひとたびえられれば、それは世間には執着せず、離れて立つ。

 それとともに識別を実践しなさい。『女と金』はどちらも非実在である。唯一の実在は神だ。金が何の役に立つか。まあ、食べるものと着るものと住む家とはあたえるだろう。その程度の役には立つが、それ以上はなんにもならない。金のたすけで神を見ることは決してできないのだ。金は、決して人生の目的ではない。これが、識別の過程である。わかるか」

 M「はい、わかります。私は近頃、プラボドゥ・チャンドロダヤというサンスクリットの劇を読む機会を得ました。その中で、識別のことを読みました」

 師「そうだ、そうだ、識別だ。話してごらん、金や女の美しさの中にいったい何があるかね。識別をはたらかせたら、お前は最も美しい女の肉体も単に肉と血と皮と骨と脂肪と髄と――おまけに他の動物と少しも変わらぬはらわたや小便、大便その他のものでできているにすぎないことを見出すであろう。ふしぎなのは、男が神を見失ってこんなものに心を奪われるということだ!」

 M「師よ、神を見ることはできますか」

 師「できるとも、そのことに疑いの余地はない。これらが神を見る方法の一部だ――ときどき人気を離れた所に行って彼の御名と彼の属性をたたえること、識別に努めること。および主を恋い慕う気持で熱心な祈りをささげること、だ」

 M「師よ、どんな心の状態になると神のヴィジョンを得ることができるのでございますか」

 師「渇仰の心で主に泣きつくのだ、そうすれば彼を見ることができる。人々は、妻や子供たちのためには、水差に一杯ほどの涙を流す! 金のためには泣いて、自分の涙の河におし流されることもいとうまい! しかしいったいだれが神を求めて泣き叫ぶか。見せるためではなく、心の底から恋いこがれて彼に泣きつきなさい。

 暁のバラ色の光は、太陽の出るまえにやってくる。それと同じように、恋いこがれるハートはやがてくる神のヴィジョンの前ぶれである。

 次の三つの執着、つまり世俗的な男がこの世のものに対して抱く執着、母親のわが子に対する執着、および貞淑な妻の夫に対する執着――これら三つを一つに集めたほどの強さで神を愛するなら、お前は彼を見ることができるだろう。

 要するに、神を見るためには心魂傾けて彼を愛さなければならぬ、ということだ。人は、母なる神にとどかずにはいないような祈りをささげなければいけない。

 子ネコはミュー、ミューと言って母ネコに泣きつくことしか知らない。他のことは全部、母ネコが知っているのだ。彼女はわが子をいまは台所、次は主人のやわらかな寝床の上、というように自分がここと思うところに隠す。そうだ、子ネコは母親に泣きつくことしか知らない」.............


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