近代インド最大の聖者と仰がれるシュリ・ラーマクリシュナ(一八三六〜一八八六年)が、その晩年の約五年間に弟子たち信者たちに語った教えの言葉は、身近な弟子の一人であったマヘンドラナート・グプタ(この記録の中ではMという仮名を用いている)によって克明に記録され、一八九七年から約三十五年間にわたり、「シュリ・シュリ・ラーマクリシュナ・カタームリタ」という、ベンガル語の五冊の書物に分けてつぎつぎに出版された。その内容は、本書の巻末の「付録A」に含まれているものを除いて全部、抜群の記憶力をそなえた著者が、直接きいた話のメモを土台に記録したものである。一九四二年、この記録の全部が、ニューヨーク市のラーマクリシュナ・ヴィヴェーカーナンダ・センターの長、スワミ・ニキラーナンダSwami Nikhilananda によって英訳され、年月日順に編成されて、「シュリ・ラーマクリシュナの福音」"The Gospel of Sri Ramakrishna" という題名の、一冊の書物として同センターから出版された。
この書物は、二年後にその再版がインド、マドラス市のシュリ・ラーマクリシュナ僧院出版部から出版され、その後、多くの版が重ねられて今日に至っている。本書は、この英訳書の翻訳である。
英訳者スワミ・ニキラーナンダ(一八九五〜一九七三年)はインド、ラーマクリシュナ僧団所属の僧であり、長年、ラーマクリシュナ・ミッションのニューヨークセンターの長として、その高徳と学識のゆえに内外の尊敬をあつめた人である。
ベンガル語の原典には、シュリ・ラーマクリシュナが郷土の方言で語った素朴な言葉がそのまま記録されている、といわれる。英訳者は、そのおもむきを異国の言葉で表現する試みはしていない。しかし、訳文はごく平易で、原典の内容を忠実に伝えたものと言われている。それを日本語に移すにあたっては、当事者が協力しておよばずながらその趣旨に沿うよう努めた。
文中には、師も信者たちもよくうたった、多くの賛歌が含まれている。それらはベンガル地方の宗教伝統の重要な特色を示し、またその大部分は、神秘体験を持つ人びとによって書かれたものである。英訳では、詩の形を保たせるために、多少、表現を変えられたところもあるといわれるが、今回、それを日本語に移すに際しては、形式にこだわらず、意味を伝えることだけを旨とした。
文中、シュリ・ラーマクリシュナの話のなかにたびたび出てくる「女と金」"woman" and "gold" という言葉の原語は、「カーミニカーンチャナ」というサンスクリットで、「色欲と金銭欲」とも訳せるものだが、それをあえて「女と金」と訳されたのは、原典の素朴な語調を保存するためであったろう。それがシュリ・ラーマクリシュナの、女性への嫌悪や軽蔑を意味するものでないことはいうまでもない。
つぎに列記する名の一部の「」は、弟子名の、本文中に現れている部分である。
「M」(マヘンドラナート・ダプタ)(一八五四〜一九三三年)
本書の原典「シュリ・シュリ・ラーマクリシュナ・カタームリタ」の著者。当時ある高等学校の校長であった。生涯の最後の二十七年間、隠栖(いんせい)してこの語録を執筆するかたわら、訪れる求道者たちに謙虚な態度で師の教えを伝えつづけた。
「ケシャブ」・チャンドラ・セン(一八三八〜一八八四年)
十九世紀後半、いわゆる知識層のあいだに勢力のあった宗教および社会改革団体、ブラフモ・サマージの当時の指導者。一八七〇年代の終りシュリ・ラーマクリシュナに会って深く彼に帰依し、シュリ・ラーマクリシュナも彼を愛した。彼の影響で、この団体の会員である知識階級の青年たちが、大勢、師のもとに集まることになった。
「ラーム」チャンドラ・ダッタ(一八五一〜一八九九年)
医師。マノモハン・ミトラとともに、最も古い在家の弟子の一人。
「バララーム」・ボース一八四二〜一八九〇年)
オリッサの貴族の出身。カルカッタに住む。その謙虚で純粋な性格のゆえに、師も彼の家にはよく泊まり、そこに大勢の信者たちが集まって教えをきいた。
「ギリシュ」・チャンドラ・ゴーシュ
(一八四四〜一九一二年)ベンガルの著名な劇作家、劇場経営者。放埒(ほうらつ)な生活をしていたが一八八四年、師に近づき、その導きを得て更生、終生師へのゆるがぬ信仰を持ちつづけた。
「スレンドラ」ナート・ミトラ一八五〇ころ〜一八九〇年)
カルカッタのイギリス人商社に勤め、高給を得ていた。放恣(ほうし)な生活をしていたが、師に会って更生、師も彼の率直で温かい性格を深く愛した。師への金銭上の奉仕を少しも措しまなかったばかりでなく、師の入寂後、出家した若い弟子たちがバラナゴル僧院で暮らすための費用を負担し、ラーマクリシュナ僧団の誕生を可能ならしめた。
「ナレンドラ」ナート・ダッタ=スワミ・ヴィヴェーカーナンダ(一八六三〜一九○二年)
師の没後、遺命にしたがって兄弟弟子たちの中心となり、ラーマクリシュナ僧団を結成した。数年にわたるインド遍歴の後、無名の青年増として単身アメリカに渡り、一八九三年シカゴで開かれた世界宗教会議に出席、ここで、師から伝えられたインド伝統の精神文化の粋を簡潔明快な現代の言葉で発表、その非凡な人格の魅力と相まって満場を圧倒した。引きつづきアメリカおよびイギリスで教えを説き、一八九七年に帰国、西洋人の崇拝者たちがささげた資金でベルル僧院を設立、現在のRamakrishna Math and Mission(ラーマクリシュナ僧団並びに奉仕団)の基礎をつくった。一九〇二年、三十九歳で没する。当協会発行「霊性の師たちの生涯」に、シュリ・ラーマクリシュナおよびホーリーマザーのそれとともに、やや詳しい伝記がのせてある。
「ラカール」・チャンドラ・ゴーシュ=スワミ・ブラマーナンダ(一八六三〜一九一三年)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダと並んで、シュリ・ラーマクリシュナ門下の双璧とうたわれた。ラーマクリシュナ僧院初代の長。
「年長のゴパール」(コパール・スル)=スワミ・アドワイターナンダ(不詳〜一九〇九年)
「バブラーム」・ゴーシュースワミ・プレマーナンダ(一八六一〜一九一八年)
「ターラク」ナート・ゴシャル=スワミ・シヴァーナンダ(一八五四〜一九三四年)
「ヨギン」ドラナート・チョウドリ=スワミ・ヨガーナンダ(一八六一〜一八九九年)
「シャシ」ブシャン・チャクラヴァルティ=スワミ・ラーマクリシュナーナンダ(一八六三〜一九二年)
「シャラト」・チャンドラ・チャクラヴァルティ=スワミ・サラダーナンダ(一八六五〜一九二七年)
「ラトゥ」=スワミ・アドブターナンダ(不詳〜一九二〇年)
ニティヤ・「ニランジャン」・セン=スワミ・ニランジャナーナンダ(一八六二〜一九〇四年)
「カーリ」プラサード・チャンドラ=スワミ・アベダーナンダ(一八六六〜一九三九年)
「ハリ」ナート・チャットパーディヤーヤ=スワミ・トゥリヤーナンダ(一八六三〜一九二一年)
サラダ・「プラサンナ」=スワミ・トリグナティターナンダ(一八六五〜一九一五年)
「ガンガーダル」・ガタク=スワミ・アカンダーナンダ(一八六四〜一九三七年)
「スボドゥ」・ゴーシュ=スワミ・スボダーナンダ(一八六七〜一九三二年)
「ハリプラサンナ」・チャタージ=スワミ・ヴィジュニヤーナーナンダ(一八六六〜一九三八年)
著者Mは勤めの身であったから、特別の機会以外は週末に師を訪れていた。週末には訪問者が多かったが、またそれをさけてわざと他の日を選ぶ信者も少なくなかったそうである。さらに師は、将来出家の可能性のある若い弟子たちに修行に関する特別の指示を与えるときには、他の人のいない時と場所を選んだという。したがって、信者たちの全部がここに登場しているわけではないし、師の教えのすべてがここにつくされているわけでもない。しかし、社会人であってしかももっとも優れた求道者であった著者が、真剣に受けとめて記録した教えの数々は、われわれ一般の読者が求める最高の目標を示すものであろう。師は、大切と思われる教えは相手の必要に応じていくたびもくり返し、Mもそれを倦むことなく書きとめている。この反復がまた、読者が知的理解以上の何ものかを得ることを大きく助けているのである。
一九八七年十二月
日本ヴェーダーンタ協会