スワミ・ヴィヴェーカーナンダによる
パタンジャリのヨーガ格言集注解

第四章 独立

(1)シッディ(ス)(複数)は、生まれながらに、化学的な手段で、言葉の力によって、苦行によって、または精神集中によって得られる。

 ときどき、人はシッディ(ス)、すなわち力を持って生まれる。もちろん、それらは彼が前生においてかち得たものである。このたびは、彼はいわばそれらの果実を楽しむために生まれたのだ。サーンキャ哲学の偉大な父カピラについて、彼は生まれながらのシッダであったと言われている。文字どおり、成功した人、という意味である。

 ヨーギーたちは、これらの力は化学的な手段で獲得することができる、と主張する。科学は最初は錬金術としてはじまったものだ、ということは、皆さんご存じである。人びとは、賢者の石や不老不死の霊薬などをさがしに行った。インドには、ラーサーヤナと呼ばれる一派があった。彼らの考えは、理想、知識、霊性および宗教はすべて非常に結構だ、しかし、肉体がこれらすべてを成就するための唯一の手段である、と言うものだった。もし肉体がしばしば終わりをむかえるなら、目標に到達するのにそれだけ多くの時間がかかるだろう。たとえば、ある人がヨーガを実践したいと思う、または霊的になりたいと思う。大きな進歩をとげる前に、彼は死ぬ。それから別の肉体をとって、ふたたび始める、それから死に、また生まれる。こうして、死んではまた生まれることに多くの時が費やされるだろう。もし肉体が生死をまぬかれるほど丈夫で完全につくられたなら、われわれは霊的になるためにそれだけ多くの時間を得たであろう。それゆえこれらラーサーヤナたちは、まず肉体を非常に強くせよ、と言うのである。彼らは、この肉体を不死にすることができる、と主張する。彼らの考えは、もし心が肉体をつくるのであれば、そしてもし、おのおのの心は無限のエネルギーの一つの出口に他ならないと言うのが本当なら、おのおのの出口が外からどれほどの量のエネルギーを取り入れようと、そこには限度はないはずだ。どうして、われわれの肉体をずっと生かしつづけることはできない、などと言うことがあり得よう。われわれは自分のものである肉体はすべて自分でつくらなければならないのだ。この肉体が死ぬやいなや、別の肉体をつくらなければならないのだ。もしわれわれにそれができるなら、どうして現在の肉体を出ることなしに今、ここでそれをすることができないのか。理論はまったく正しい。もし死後も生きていて他の肉体をつくることができるのならなぜ、この肉体を完全に解消させることなくただ絶えず変化させて、ここで肉体をつくる力を持つことはできないのか、と言うのである。彼らはまた、水銀と硫黄の中には驚くべき力が隠されており、しかもこれらのある調合によって、人はすきなだけ寿命をのばすことができる、と考えた。またある人びとは、ある種の薬品は空中を飛ぶような力をもたらす、と信じた。現代用いられているもっともすばらしい薬物の多く、特に薬の中に金属を用いる方法は、ラーサーヤナたちに負うものである。ヨーギーたちの中のある派の人びとは、彼らの主な教師たちの多くが今もなお、彼らの古い肉体の中で生きている、と主張する。ヨーガの偉大な権威者パタンジャリはこれを否定しない。

 「言葉の力」マントラと呼ばれる、ある種の神聖な言葉がある。それらは力を持っており、ある条件のもとにくり返されると、このような非凡な力を発揮する。われわれは夜ひる、何とも思わないような、奇跡のかたまりのまっただ中で生きているのである。人の力、言葉の力、心の力に限界はない。

 「苦行」皆さんは、あらゆる宗教で苦行と禁欲が実践されているのをご覧になるだろう。これらの宗教概念において、ヒンドゥたちは常に極端にまで行く。皆さんは、生涯両手を挙げたままですごす人びとを見いだされるだろう。ついにはその手はしなびて死んでしまうのだ。夜ひる立ちつづけている人がある。ついには彼らの足はむくみ、彼らは生きていても足はそのままの形で硬直しているので、もはやまげることはできず、生涯立っていなければならないのである。私はあるとき、このようにして両手を挙げたままでいる人にあい、それをはじめたときにはどんな感じであったかと尋ねた。彼は、それは恐るべき責め苦であった、と答えた。あまり苦しいので川に行って水にもぐると、それで少しの間苦痛がやわらいだ。一ヶ月後には、それほど苦しくなくなったそうである。このような実践によって、さまざまの力(シッディス)は得られるのである。

 「精神集中」精神集中はサマーディであり、それが、ヨーガそのものである。それが、この科学の主な主題であり、それが最高の手段である。その前に挙げたものは二義的なものにすぎず、それらによって最高目標に達することはできない。サマーディは、それによってわれわれが心理的、道徳的または霊的ないっさいのものを得ることのできる、方法である。

 

(2)別の種への変化は、天性(nature)の充足(the filling in)によっておこる。

 パタンジャリは、これらの力は生まれながらに、時には化学的方法により、または苦行によって得られる、と主張した。彼はまた、この肉体はどれほど長い間でも生かせておくことができる、と言うことも認めている。今や彼はつづけて、肉体の他の種への変化の原因は何であるか、を述べている。彼は、これは「天性が(すき間を)満たすこと」によってなされる、と言うのだ。それを彼は、つぎの格言で説明している。

 

(3)善悪の行為は性質の変容の直接の原因ではない。ただそれらは、性質の進化を妨げるものの破壊者としてはたらくのだ。農夫が水路の邪魔ものをこわすのと同じである。そうすれば水は、それ自体の性質によっておのずから流れ下るだろう。

 田畑をうるおすための水はすでに水路にきており、ただせきの所でとめられている。農夫がそのせきを開くと水は重力の法則によってひとりでに流れる。そのように、すべての進歩と力はすでに各人のうちにある。完全は人の本性であり、ただそれがせきとめられ、それの正しいコースを進むことを妨げられているだけなのである。もし誰かがそのせきをとり去ることができるなら、本性がどっと流れ込むだろう。そのときその人は、すでに自分のものであった力をわがものとするのである。われわれが悪人と呼ぶ人びとが、せきがこわされて本性がどっと流れ込むやいなや聖者となる。完成にむかってわれわれを駆り立てているのは、自然(本性)なのである。そして結局、彼女は全部をそこにつれて行くだろう。宗教的になるためのこれらすべての修行や努力はさまたげを取り除き、われわれの生得の権利、われわれの本性であるところのかの完成に向かって扉を開くという、消極的な作業に他ならないのである。

 今日、古代のヨーギーたちの進化の学説は近代の研究と照らしあわせるともっと分かりやすいであろう。それでも、ヨーギーの学説はもっとすぐれた説明である。現代人が提出する進化の二つの原因、すなわち雌雄淘汰と適者生存は、適当ではない。かりに人間の知識が非常に進歩して、肉体維持の目的からも配偶獲得の目的からも競争はしなくなったとする。すると、現代人にしたがえば人間の進歩は止まり、人類は滅亡するだろう。この学説の結果は、あらゆる迫害者に良心の呵責をおさえつける口実を与える、というものである。世間は、哲学者のふりをしてすべての悪い、無能な人びとを抹殺し、(もちろん自分たちがそれらの唯一の判定者なのだ)こうして人類を保存しよう、と欲している人びとにこと欠かないのだ! しかし、偉大な古代の進化論者パタンジャリは進化の真の秘密はあらゆる生き物の中にすでに存在する完全さの現われである、この完全さがせき止められ、背後にある無限の潮がみずからを表現しようともがいているのだ、と断言している。これらの苦闘と競争はわれわれの無知の結果に他ならない。なぜならわれわれは、せきを開いて水を流入させる、正しい方法を知らないのだから。背後にあるこの無限の潮は、みずからを表現しなければならない。それが、すべての現われの原因なのである。生きるための競争とか性に関する満足感とか言うのは、無知からくる一時的な、不必要な、表面的な結果にすぎない。すべての競争がやんだ後にさえ、背後にあるこの完全な天性は、ひとり残らず完全になるまで、われわれを前進させつづけるのであろう。それだから、進歩するためには競争が必要だ、と信じるべき理由はないのである。けものの中に人間がおし込められていた。しかしドアが開かれるやいなや、人間が飛び出した。そのように人間の中に無知という錠前とかんぬきにとじ込められて、神がひそんでいる。知識がこれらのかんぬきをこわすと、神が表に現れるのである。

 

(4)エゴイズムからのみ、つくられた心は生じる。

 カルマの理論は、われわれは自分の善い、または悪い行為のために苦しむ、そして哲学の全範囲は人の栄光を実現することである、というものである。すべての聖典は人の、魂の、栄光をたたえ、それから同時に、カルマを説いている。善い行ないはこれこれの結果を生み、悪い行ないは別のこれこれの結果を生む、ということだ。しかしもし魂が善行または悪行によって影響されるのであれば、魂には何の価値もない。悪行はプルシャの性質の現われをさまたげる。善行はその妨害をとり除くので、プルシャの栄光が現われる。プルシャ自体は決して変わらないのである。あなたが何をしても、それがあなたの栄光、あなたの本性を破壊することはない。なぜなら魂は何ものにも影響されることはなく、ただそれの前にベールがかかってそれの完全性を隠すだけなのだから。

 自分のカルマを速やかに消却しようとして、ヨーギーたちはそれをさせるためにカーヤ・ビューハすなわち身体の群れをつくる。これらすべての身体のために、彼らはエゴイズムから心をつくる。これらは元の心とは区別して、「つくられた心」と呼ばれる。

 

(5)さまざまの「つくられた心」の活動はさまざまであるが、一つの元の心がそれらすべての支配者である。

 これらさまざまの身体の中で活動するこれらさまざまの心は、つくられた心とよばれ、身体はつくられた身体とよばれる。つまり、製造された身心である。物質と心は無尽の倉庫のようなものである。ヨーギーになると、あなたはそれらを支配する秘訣を学ぶ。それは常にあなたのものであったのだが、あなたはそれを忘れていたのだ。ヨーギーになれば、あなたはそれを思い出す。するとあなたはそれで何でもすることができる。すきなように、それをあやつることができるのだ。製造された心がつくられている材料は、小宇宙のために用いられている材料とまさに同じである。それは、心は一つのもの、物質は別のものというのではなく、それらは同一のものの異なる面なのである。アスミター、即ちエゴイズムは、ヨーギーのこれらつくられた心とつくられた身体が製造されるところの、材料の精妙な状態である。それゆえ、ヨーギーが自然のこれらエネルギーの秘密を発見したとき、彼はエゴイズムと呼ばれる材料から、身体または心をいくつでも製造することができるのである。

 

(6)さまざまのチッタの中で、サマーディによって得られるものは無欲である。

 さまざまの人びとの中にわれわれが見る、すべてのさまざまの心の中で、完全な集中、サマーディに達した心だけが、最高である。薬物により、または言葉により、または苦行によってある力を得た人はなお、欲望を持っている。しかし精神集中によってサマーディに達した人だけは、まったく欲望にしばられない。

 

(7)ヨーギーたちにとって働きは白くも黒くもない。他の人びとにとっては、それらは三重――黒、白、および混合である。

 ヨーギーが完成に達すると、彼の活動、およびそれらの活動によって生じたカルマは彼をしばらない。なぜなら彼はそれらを欲しなかったのだから。彼はただ働きつづける。善を行なうために働く。そして善を行なう、しかし結果には頓着しない、またそれは彼のところには来ないだろう。しかし、その最高境地に達していない普通の人びとにとっては、働きに三種類がある。黒(悪行)と白(善行)とその混合である。

 

(8)これら三種類の働きから、おのおのの状態の中でその状態にふさわしい願望だけが、表われるであろう。(他の願望はしばらくとめおかれて)

 かりに私が善、悪および混合三種類のカルマをつくり、そして死んで天国で一個の神(a god)になったとする。神の身体が持つ願望と、人間の身体が持つ願望とはちがう。神の身体は食べも飲みもしないのだ。私のまだ果たされていない過去のカルマで、その結果として食べたい飲みたいという欲望を生み出すものはどうなるのか。私が神になったらこれらのカルマはどこに行くのだろうか。答えは、欲望はふさわしい環境においてのみ表面にあらわれる、というものである。環境にふさわしい欲望だけが表われ、残りはたくわえられるだろう。今生において、われわれは多くの神的な願望を、人間的な欲望を、動物的な欲望を持つ。もし私が神の身体をとるなら、善い願望だけが浮かぶだろう。なぜなら環境がそれにふさわしいから。そしてもし動物の身体をとれば、動物的な欲望だけが生まれて善い願望は待つだろう。これは何を示すか。環境の力によって、われわれはこれらの願望を阻止することができる、というものである。環境にふさわしいカルマだけが、出てくるであろう。これは、環境はカルマそのものをさえ制御することのできる大きな力だ、ということを示すものである。

 

(9)種においては、場所においては、時においては離ればなれであっても、欲望には連続性がある。記憶および印象のもとが一つであるから。

 経験が希薄になると印象になる。印象が復活すると記憶になる。記憶という言葉はここでは、印象にまで弱められた過去の経験と、現在の意識的活動との無意識の統合を含む。各身体の内で、同様の身体の内で得た印象の群れだけが、その身体の活動の原因となる。異なる形の体の経験は、休止状態にある。おのおのの身体は、まるでその種だけの一連の身体の、子孫であるかのように行動する。

 

(10)幸福への渇望は永遠のものであるから、欲望に始まりはない。

 すべての経験は、幸福への願望に先行される。おのおのの新しい経験は過去の経験から生まれた傾向の上につくられるのだから、経験に始まりはなかった。それだから欲望に始まりはない。

 

(11)原因、結果、維持するもの、および対象によって一つにつかまれ、これらがなくなってはじめてそれ(欲望)はなくなる。

 欲望は原因と結果によって一つにつかまれている。(編集者の注、第二章(3)、第四章(7)および第二章(13)を参照)もしある欲望が生まれれば、それはその結果を生むことなしには死なない。それから、また、心は偉大な貯蔵庫、つまりサムスカーラという形に変えられたすべての過去の欲望の維持者であって、それらの欲望は、果たされるまでは死なないであろう。その上に、感覚が外界の対象を受ける間は、新たな欲望が生まれるであろう。もし欲望の原因、結果、維持および対象をまぬかれることができるとするなら、そのときにのみ、それは消えるだろう。

 

(12)過去と未来は、彼ら自体に自然なすがたで存在する。性質(qualities)が異なる形をとっているのだから。

 その意味は、存在は決して非存在からは出てこない、というものである。過去と未来は、形に現われてはいないけれど、精妙な形で存在するのだ。

 

(13)グナの性質(nature)によって、それらは現われたり、かすかであったりする。

 グナは、サットワ、ラジャスおよびタマスという三つの物質であり、それの粗大な状態が、感覚にとらえられる宇宙である。過去と未来は、これら三つのグナの現われの、異なった様式から生まれる。

 

(14)ものの統一性は、変化の統一性から。

 三つの物質があるけれど、それらの変化は調和的であるから、すべての対象は彼らの統一性を持つ。

 

(15)同一の対象に対する知覚と欲望はさまざまであるから、心と対象とは異なる性質を持つ。

 すなわち、われわれの心からは独立して、一つの客観的な世界がある、ということである。これは仏教の観念主義への論駁である。さまざまの人が同一のものをさまざまに見るのだから、それはどの特定個人の想像でもあり得ない。

 (原注=ある版には、次の格言が加えられている)

 

 対象は、たった一つの心に依存する、と言うことはできない。そこにそれの存在の証拠がなかったら、それは非存在になるだろう。

 (右の格言の編集者の注)

 もし一つの対象の知覚がそれの存在を示す唯一の基準であるとしたら、もし心が何かに没頭するか、サマーディに入るかすればそれは誰にも知覚されず、非存在だと言われてもよいだろう。これは望ましくない結論である。

 

(16)ものは心に、知られたり知られなかったりする。それらが心に与える影響によって。

(17)心の状態は常に知られている。なぜなら心の主、プルシャは不変であるから。

 この学説全体の要点は、宇宙は、心理的、物質的両方の存在だ、というものである。この両方が、不断に流動的な状態にある。この書物は何であるか。それは、絶えず変化しつつある微分子の結合である。一群れが出て行く、すると別の群れが入ってくる。それは渦巻きだが、しかし何が統一体をつくるのか。何がそれを同一の書物とするのか。変化はリズミカルである。部分はたえず変化しつつあるけれど、それらは調和した秩序をもって私の心に印象を送りつつあり、これらが接合されて、連続した画像をつくるのである。心それ自体はたえず変化しつつある。心と肉体は、異なる割合の速度で動いている、異なる物質の二つの層のようなものである。相対的に、一つはおそく、もう一つはそれより速いから、われわれは二つの動きを区別することができるのだ。たとえば、列車が動いており、それと同じ方向に一台の馬車が走っている。これら両方の動きをある程度知ることは、できる。しかしなお、もう一つの何かが必要だ。動きは、そこに動かない何ものかがあるときにのみ認めることができるのだ。しかし二つか三つのものが相対的に動いているときには、われわれは第一に、より速いものの、それから順次、よりおそいものの動きを認める。心はどのようにして認めるのか。それも流動している。それだからもっとゆっくり動く別のものが必要であり、それからあなたは動きがさらにゆるやかな、さらにもっとゆるやかな、ものへと達しなければならず、終わりがないだろう。それゆえ論理はあなたに、どこかで止まれ、と強いる。あなたは、決して動かないあるものを知ることによって、この連続を完了しなければならないのだ。この決して終わらない動きの鎖の背後に、不変の、無色の、純粋なるもの、プルシャがある。これらすべての印象は単に、幻灯機がまったく曇らせることなしにスクリーンの上に映像を放射するように、それの上に映されているものである。

 

(18)心は一個の対象であって、みずから光り輝くものではない。

 自然界いたるところに莫大な力が現われている。しかしそれはみずから光り輝くものではなく、本来知能を持っているものではない。プルシャだけがみずから光り輝き、あらゆるものに光を与える。すべての物質と力に浸透しているのは、プルシャの力である。

 

(19)それは同時に両方を認識することはできない、ということから。

 もし心がみずから光り輝くものであったなら、それは、それみずからとそれの対象との両方を同時に認識することができるであろうが、心には、それはできない。それが対象を認識するときには、自分自身を映すことはできない。それだから、プルシャはみずから光り輝くもの、心はそうではない。

 

(20)認識するもう一つの心が仮定されるとすると、そのような仮定には終わりがなく、記憶の混乱がそれの結果となるだろう。

 普通の心を認識する、もう一つの心があると想像しよう。すると前のを認識するさらにもう一つの心がなければならず、そのようにしてそこにその連鎖の終わりはないだろう。それは記憶の混乱に終わるだろう。記憶の貯蔵庫はないだろう。

 

(21)知識の本質(プルシャ)は不変であって、心がそれの形をとるとき、それが意識を持つようになるのだ。

 パタンジャリは、知識はプルシャの性質ではない、ということをもっとはっきりさせようとして、こう言っているのだ。心がプルシャの近くに来るとそれがいわば心に映り、心がしばらくの間、知るようになって、それ自体がプルシャであるかのように思われるのだ。

 

(22)見る者と見られる者とにいろどられて、心はあらゆるものを理解することができる。

 心の一つの側には外界、見られる世界が映っており、もう一つの側には見る者が映っている。このようにして、心にはすべての知識の力がくる。

 

(23)心は、無数の欲望によっていろとりどりにされているけれど、他者(プルシャ)のためにはたらく。なぜなら、それは結合してはたらくのだから。

 心はさまざまのものの合成物であるから、それ自身のためにはたらくことは、できない。この世界で結合であるものはことごとく、その結合のめざす、それのためにこの結合がなされつつある、ある第三のものを持つ。それゆえ心のこの結合は、プルシャのためである。

 

(24)識別をする人びとにとっては、心をアートマンと認めることは、やむ。

 識別によって、ヨーギーは、プルシャは心ではないということを知る。

 

(25)そのとき、識別に専念して、心はカイヴァッリャ(孤立)の直前の状態に到達する。(原注=別の読み方もある。その場合その意味は、「そのとき心は識別に深く入り、カイヴァッリャの方へひかれるであろう」)

 このように、ヨーガの実践は識別力を養い、直感力を明確にする。目からベールが落ち、われわれはものをあるがままに見る。われわれは、自然は合成物であって、照覧者であるプルシャのためにパノラマを見せているのだ、ということを、自然は主ではない、自然界のすべての結合は単に、これらの現象を、内なる玉座にすわる王であるプルシャに見せるためであるにすぎないのだ、ということを見いだす。長い実践によって識別が来るとき、恐怖はやみ、心は、孤立を達成する。

 

(26)それに対する妨害として起こる思いは、印象(複数)から来る。

 起こってきて、自分が幸福になるためには外部の何ものかが必要だ、と思わせるすべてのさまざまな思いは、完成への妨害である。プルシャはその本性が幸福であり至福である。しかし、その知識が過去の印象によっておおわれているのだ。これらの印象が、みずからを解決しなければならない。

 

(27)彼らの破壊は、前に(第二章10)言ったように、無知、エゴイズムの場合と同じ形で行なわれる。

(28)本質の正しい識別の知識を得てさえも、果実をほしがらない彼、彼のところには、完全な識別の結果として、徳の雲とよばれるサマーディが来る。

 ヨーギーがこの識別力を得ると、前章に述べたすべての力が彼のもとに来るが、真のヨーギーはそれら全部を斥ける。彼のもとにはダルマメーガ、徳の雲と呼ばれる独特の知識、独特の光が来る。歴史に記録されている世界の偉大な予言者たちはすべて、これを持っていた。彼らは知識の全根底を、彼ら自らの内に見いだしていたのである。真理は彼らにとって現実となっていた。彼らが力へのうぬぼれをすてた後は、平安と静けさ、そして完全な浄らかさが彼らの本性になっていた。

 

(29)それによって、苦痛と働きは止む。

 その徳の雲が来たら、もう下落のおそれはない。何ものも、そのヨーギーを引きずり落とすことはできない。もう、彼にとって悪はないだろう。もう苦痛もない。

 

(30)そのとき知識は、おおいと汚れを除かれて無限になり、知られ得るものはわずかになる。

 知識自体がそこにある。それのおおいは除かれた。仏教聖典の一つは、ブッダ(これは状態の名)の意味を、空のように無限な、無限の知識、と定義している。イエスはその境地に達してキリストとなった。皆さんのすべてがその境地に達するであろう。知識は無限になり、知られ得るものはわずかになる。全宇宙は、それの知識の対象すべてとともに、プルシャの前では無に等しいものとなる。普通の人間は自分を非常に小さなものと思う。なぜなら、彼には知られ得るものが無限量と思えるから。

 

(31)そのとき、諸性質の相継ぐ変容は終わる。彼らは目的を達したのだから。

 そのとき、種から種へと変わるこれらすべてのさまざまの変容は、永久にやむ。

 

(32)瞬間(複数)にともなって存在し、他のはし(一連の最後)において認識される変化は、連続である。

 パタンジャリはここで、瞬間瞬間にともなって存在する変化、即ち連続という言葉を定義しているのだ。私が思う間に多くの瞬間がすぎる。そして各瞬間に、思いの変化がある。しかし私はこれらの変化を、一連の終わりにはじめて認識する。これが連続と呼ばれるものである。しかし遍在を悟った心にとっては、連続はない。それにとってはいっさいが現在となったのだ。それにとっては現在だけが存在し、過去と未来は失われている。時は制御されて立ち、すべての知識はそこ、一秒のなかにある。いっさいは閃光のように知られるのだ。

 

(33)プルシャのため、という動機をまったく失って、性質(グナ)が逆の順序で解消する。それをカイヴァッリャと言う。言いかえればそれは、知識という力の、それの本性における確立(establishment)である。

 自然の務め、我らのやさしい乳母である自然が彼女自身に課したこの非利己的な仕事はおわった。彼女はやさしく、自らを忘れた魂のいわば手をとって、さまざまの体を通じてより高く、もっと高くと彼をみちびきつつ、宇宙間のすべての経験、すべての現われを彼に見せた――ついに彼の失われた栄光が戻って来、彼が自分の本性を思い出すに至るまで。それからこの親切な母は、やはりこの道なき人生の砂漠をふみ迷っている他の者たちのためにもと来た道を引きかえした。このようにして彼女は、始めもなく終わりもなく働いているのだ。そしてこのように快と苦を通りぬけ、魂たちの無限の流れが、完成という、自己自覚という大海の中に流れこみつつあるのである。

 彼ら自らの本性を自覚した者たちに栄光あれ。彼らの祝福が、我らすべての上に与えられるように!

 


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