スワミ・ヴィヴェーカーナンダによる
パタンジャリのヨーガ格言集注解

第三章 力

 われわれはいまや、ヨーガの力(複数)のことが述べてある章に入った。

 

(1)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。

 ダーラナー(集中)は、心が身体の内か外のある対象に集中し、その状態を保っていることである。

 

(2)その対象の知識の不断の流れが、ディャーナである。

 心が、頭のいただき、ハート等々というような一つの対象を思おうと、ある特定の箇所に集中しようと、努力し、そしてもし心が肉体のその箇所を通してのみ感覚を受け、他の箇所からは受けないようになることに成功するなら、それはダーラナーであろう。そして心がみずからをしばらくの間その状態に保つことに成功したとき、それがディャーナ(瞑想)とよばれる。

 

(3)それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。

 それは、瞑想中に形、すなわち外側の部分がすてられたときにやってくる。かりに私がある書物を瞑想していたとする。そして徐々に心をそれに集中し、内面の感覚、すなわち形ではまったく表現されていない意味だけを知覚することに成功したとき――ディャーナのその状態が、サマーディとよばれるのである。

(4)(これらの)三つが一つの対象に(対して実践されると)かかわると、サムヤマである。

 ある人が彼の心を、何であれ特定の対象に向けてそこに集中することができ、それから、その内なる部分から対象は切りはなして、長い間心をそこに保つことができると、これがサムヤマ、すなわちダーラナー、ディャーナおよびサマーディがあいついで一つとなっているものである。ものの形は消え、心の中にはそれの意味だけが残っているのだ。

 

(5)それをかち得ると、知識の光がくる。

 人がこのサムヤマをつくることに成功すると、すべての力が彼の支配下にくる。これは、ヨーギーの大きな道具である。知識の対象は無限であり、それらは、粗大なもの、もっと粗大なもの、最も粗大なもの、および、精妙なもの、もっと精妙なもの、最も精妙なもの等々と分けることができる。このサムヤマは、はじめには粗大なものに適用され、あなたがこの粗大なものの知識を得はじめたら、徐々に、順序を追って、より精妙なものへともって行かれるべきである。

 

(6)それは、段階にそって適用されるべきである。

 これは、あまりに急速に進もうという努力をしてはならぬ、という、警告の言葉である。

 

(7)これら三つは、その前のものよりもっと内面的である。

 これらの前に、われわれはプラッティャーハーラ、プラーナーヤーマ、アーサナ、ヤマおよびニヤマを学んだ。それらはこの三つ――ダーラナー、ディャーナおよびサマーディ――の外の部分である。人がこれらに到達したら、彼は全知、全能となるだろうが、しかしそれは、「救済」ではないだろう。この三つは、心をニルヴィカルパ、すなわち不変にはせず、ふたたび肉体をとるための種子を、残すだろう。この種子が、ヨーギーのことばにしたがえば、「油で揚げられた」ときにはじめて、それらはさらなる植物を生みだす可能性を失うのだ。これらの力は、種子を「油で揚げる」することはできない。

 

(8)しかしそれらでさえ、種子のないもの(サマーディ)の外側である。

 それだから、あの種子を持たぬサマーディに比べると、これらでさえ外側である。われわれはまだ真のサマーディ、最高の段階に達したのではなく、一つのより低い境地に達したのだ。その中にはなお、われわれが見る通りの宇宙があり、またその中に、これらすべての力もある。

 

(9)不安定な心の印象の抑圧により、また制御の印象が生まれることにより、その制御の瞬間に存続する心は制御の様相をとる、と言われている。

 それはつまり、サマーディのこの最初の状態の中では、心の変化は制御されてはいるが完全にではない。なぜならもし完全に制御されていたなら、様相もないだろう。もしそこに、感覚を通ってとびだすよう心をうながす変化があり、ヨーギーがそれを制御しようと努めるなら、まさにその制御自体が一つの変化であろう。一つの波がもう一つの波でとめられる、ゆえにそれは、すべての波が静まる真のサマーディではないだろう。制御それ自体が一つの波なのであるから。それでも、このより低いサマーディは、心があわだちさわいでいるときよりははるかに、より高いサマーディに近いのである。

 

(10)それの流れは、習慣によって堅固になる。

 この不断の心の制御の流れは、毎日毎日実践されると堅固になり、その心は、不断の集中の能力を得る。

 

(11)あらゆる種類の対象をとり入れる力、および一つの対象に集中する力、これら二つの力がそれぞれに一つは破壊され一つは現わされると、チッタはサマーディという様相をとる。

 心はさまざまの対象をとり上げ、あらゆる種類のものの中に突入する。それはより低い状態である。心が一つの対象をとり上げ他のすべてを斥けるとき、それはより高い状態であって、サマーディはそれの結果である。

 

(12)チッタの一点集中は、過ぎた印象と現在の印象とが同じであるときだ。

 われわれはどのようにして、心が集中したことを知るのか。時の観念が消滅するからだ。知らぬ間に時がたてばたつ程、われわれは集中しているのだ。ふつうの生活の中でもわれわれは、夢中になって本を読んでいるときには時のたつのを知らず、あとで何時間もがすぎていたことを知って驚くことが、よくある。すべての時は、やってきて唯一、現在の中に立つ、という傾向を持つであろう。それだからこの定義が与えられる――過去と現在とが来て一つになって立つとき、心は集中した、と言われる。(注)

 (編集者の注)格言(9)、(11)および(12)の中に述べられている三種類の集中状態の間の違いは、次の通りである。第一の場合には、不安定な印象がおさえつけられているだけで、入ってきたばかりの制御の印象によって抹消されていない。第二の場合には、前者はくっきりと浮きあがって立つ後者によって完全におさえつけられる。しかし最高である第三の場合には抑圧の問題はなく、同じ印象が流れのようにつづくだけである。

 

(13)これによって、形、時および状態という三つの変容が、精妙または粗大な物質および器官の中において説明される。

 形、時および状態に関する心の三つの変化によって、粗大および精妙な物質と器官の中のそれらにつながる変化が説明される。かりにここに一つの黄金のかたまりがあるとする。それは、腕輪や耳飾りに変形される。それは形の変化だ。おなじ現象が時という立場から見られると、われわれに時の変化を示す。また腕輪も耳輪も、光っていたりくもっていたり、太かったり細かったり、いろいろであろう。これは状態の変化である。さて格言(9)、(11)および(12)にあるように、心は、ヴリッティスに変わりつつある――これは形の変化である。それが過去、現在および未来という、時の各瞬間を通りすぎるということは、時の変化である。その印象がある特定の期間内、たとえば現在には強さにおいてことなる、というのは、状態の変化である。いままでのいくつかの格言で教えられたさまざまの集中はヨーギーに、随意に自分の心を制御し得る力を与えるためであった。その力があってはじめて彼に、第三章(4)に述べられたサムヤマが可能となるのである。

 

(14)過去のであれ現在のであれ、またはまだ現れていないものであれ、変容によって影響されるものは、限定されたもの(the qualified 条件つき)である。

 それはつまり、限定されたものは、時により、またサムスカーラによって影響されていて、常に変化しつつ現われているものである、ということである。

 

(15)変化の連続は、多様な発展の原因である。

(16)三種類の変化のサムヤマをつくることによって、過去と未来の知識が来る。

 われわれは、サムヤマの第一の定義を忘れてはならない。心が、対象は外にあるという印象をすてて、それの内なる印象と一つになるとき、そして、長い修行により、それが心によって保持され、また心が一瞬のうちにその状態に入れるとき、それがサムヤマである。もし人が、その状態の中で過去と未来を知りたいと思うなら、サムスカーラス(複数)の中の変化の上にサムヤマをつくらなければならない(第三章(13))。あるものは今はたらきつつあり、あるものははたらきずみであり、あるものははたらくのを待っている。それだから、これらの上にサムヤマをつくることによって、彼は過去と未来を知るのである。

(17)普通混同されている言葉、意味および知識の上にサムヤマをつくると、すべての動物の音の知識が来る。

 言葉は外的な原因を示し、意味は、外界の印象を心に伝えるべくインドリヤ(ス)の通路を通って頭脳に移動する内的な振動を示し、知識は、それによって知覚が生じるところの、心の反応を示している。これらの三つが、混同されて、われわれの感覚対象をつくるのである。かりに私がある言葉をきくとする。そこにはまず外界の振動があり、つぎに聴覚器官によって、心に運ばれる内なる波動があり、そこで心が反応し、私は言葉を知るのだ。私が知る言葉は、振動、神経波動、および反応の混合である。通常これら三つは不可分なのだが、訓練によって、ヨーギーはそれらを切りはなすことができる。人がこれができるようになると、もし彼がいかなる音であれその上にサムヤマをつくるなら、それが人がだした音であれ他の動物がだした音であれ、彼はその音が表現しようとしている意味を理解する。

 

(18)印象を知覚することによって、過去生の知識(が来る)。

 われわれが持つ経験のおのおのはチッタの中の波という形で得られ、そしてこれは低くなり次第にかすかなものになるが、決して失われはしない。そこに微細な形で存続し、もしわれわれがこの波をふたたびとり上げることができるなら、それは記憶となる。それゆえ、もしヨーギーが心中のこれらの過去の印象の上にサムヤマをつくるなら、彼は自分のすべての過去生を思いだしはじめるだろう。

 

(19)他人の肉体にある徴しの上にサムヤマをつくることによって、彼の心を知ることができる。

 各人が自分の肉体に、彼を他者から区別する、特定の徴しを持っている。ヨーギーがこれらの徴しの上にサムヤマをつくると、彼はその人の心の性質を知る。

 

(20)しかしそれの内容ではない、それはサムヤマの対象ではないのだから。

 肉体の上にサムヤマをつくっても、彼は心の内容を知ることはできないだろう。第一に肉体の徴しの上、それから心それ自体の上と、二重のサムヤマが必要であろう。ヨーギーはそれから、心の中にあるすべてを、知るのだ。

 

(21)肉体の形の上にサムヤマをつくることによって、形を知覚できる状態がさまたげられ、目の中に現れる力が切りはなされるから、そのヨーギーの肉体は見えなくなる。

 この部屋のまん中に立っているヨーギーが、見たところ姿を消すことができる。彼はほんとうに消えるのではないが、誰の目にも見えないであろう。形と肉体とが、いわば切りはなされるのだ。このことは、そのヨーギーが、形と形づくられているものとが切りはなされたことによる集中力を、得たときにはじめてなされ得るのだ、ということをおぼえていなければならない。そのとき、彼はそれの上にサムヤマをつくり、形を知覚する力はさまたげられるのだ。なぜなら、形を知覚する力は形と形づけられているものとの接合からくるのだから。

 

(22)これによって、話されつつある言葉や他のそのようなものが消えたり隠れたりすることの意味も、説明される。

(23)カルマに二種類がある――すぐに実をむすぶものと後に実をむすぶものである。これらの上にサムヤマをつくることよって、またはアリシュタ、前兆、とよぶ徴しによって、ヨーギーたちは自分が肉体を離れる正確な時を知る。

 ヨーギーが彼自身のカルマの上に、いまはたらきつつある、またはたらこうとして待っている、彼の心の中のもろもろの印象の上にサムヤマをつくるとき、彼は待っているそれらの印象によって、彼の肉体が滅びる時を正確に知る。彼は何時何分に死ぬ、ということまでも知る。ヒンドゥは、死期を知ることを非常に重要視する。臨終の瞬間の思いがつぎの生を決定する大きな力を持つ、とギーターの中で教えられているからである。

 

(24)友情、慈悲など(一章33節参照)の上にサムヤマをつくることによって、そのヨーギーは豊かに、それぞれの性質を得る。

(25)ゾウやその他のものの力の上にサムヤマをつくることによって、それぞれの力が、そのヨーギーに来る。

 ヨーギーがこのサムヤマを成就して、そして力を欲するなら、彼はゾウの力の上にサムヤマをつくってそれを得る。誰であれ、もし彼がそれを得る方法を知りさえするなら、無限のエネルギーがその人の意のままになるのだ。ヨーギーはそれを得る科学を発見した。

 

(26)「光り輝く光明」(一章36節)の上にサムヤマをつくることによって、精妙なるもの、さえぎられているもの、および遠いところにあるものの知識が来る。

 ヨーギーがハートの中のあの「光り輝く光明」の上にサムヤマをつくると、彼は非常に遠くにあるもの、たとえば、遠いところで起こっていることや山々などにさえぎられているもの、そしてまた非常に精妙なものなどを見る。

 

(27)太陽の上にサムヤマをつくることによって、この世界の知識が(来る)。

(28)月の上につくると、星々の群の知識が(来る)。

(29)北極星の上につくると、星々の動きの知識が(来る)。

(30)へその周囲につくると、肉体の構成の知識が(来る)。

(31)のどのうつろなところにつくると、飢えがとまる。

 人が非常な空腹を感じているときに、もし彼がのどのうつろな箇所にサムヤマをつくることができるなら、空腹感はとまる。

 

(32)クールマ kurma という神経の上につくると、身体の固定が(来る)。

 彼が修行しているとき、身体が動揺しない。

 

(33)頭のいただきから放射する光(の上につくると)、シッダー siddha たちの姿を(見る)。

 シッダーは、幽霊たちより少し程度の高い生きものである。ヨーギーがその心を自分の頭のいただきに集中すると、彼はシッダーたちを見るであろう。このシッダーということばは、あのしばしば用いられる意味のように、解脱した人びとをさすものではない。

 

(34)またはプラーティバー Pratibha の力によって、すべての知識が。

 これらすべては、どのサムヤマによらないでも、プラティバー(浄らかさから来るおのずからなる明知)の力を持つ人には得られる。人がプラティバーの高い状態に上ると、彼はあの偉大な光明を得るのだ。すべてのもの事が、彼には明らかになる。サムヤマをつくらないでも、彼のところにはあらゆることが自然にやってくる。

 

(35)ハートにつくると、心の知識。

(36)快楽は、魂とサットワとを区別しないところからくる。それらはまったく異なるものである。後者の活動はもう一つのもののためなのであるから。自己に集中する者の上につくるサムヤマは、プルシャの知識を与える。

 

 サットワのすべての活動、光と幸福という性格をもつ、プラクリティの一つの変形は、魂のためのものである。サットワがエゴイズムから解放され、プルシャの純粋知能によって照らされるとき、それは、自己に集中した者と呼ばれる。なぜならその状態にあっては、それはすべての関係から独立したものとなるから。

 

(37)それから、プラティバーに属する知識と、(超自然的)聴覚、触覚、視覚、味覚、および嗅覚が生まれる。

(38)これらはサマーディの妨げである。しかしそれらは世間の状態の中では力である。

 ヨーギーに対して、世界の快楽の知識は、プルシャと心の結合から来る。もし彼が、それらは自然と魂、つまり二つの別々のものである、という知識の上にサムヤマをつくろうと欲するなら、彼はプルシャの知識を得る。それから、識別が生まれる。その識別を得たとき、彼はプラティバー、最高の素質の光を得る。しかしながら、これらの力は、最高の目標、純粋「自己」の知識および解脱、の成就の妨げである。それらはいわば、途中で出あうものであって、もしそのヨーギーがこれらをしりぞければ、彼は最高境地に達する。もし彼が、これらの獲得に誘惑されるなら、彼のそれ以上の進歩はとめられる。

 

(39)チッタの束縛の原因がゆるめられたとき、そのヨーギーは、それの活動の通路(神経)を知ることにより、他の者の肉体に入る。

 そのヨーギーは、ある死体に入って、彼みずからはもう一つの身体の中ではたらきつつ、それをおき上がらせ動かすことができる。または、彼は生きている身体に入り、その人の心と器官を制御して、しばらくの間その人の身体を通して活動することができる。それは、プルシャと自然とのこの識別ができるようになったヨーギーによってなさるのだ。もし彼が他者の身体に入ろうと欲するなら、彼はその身体にサムヤマをつくってそれに入る。なぜなら、彼の魂が遍在であるだけでなく、ヨーギーがおしえるように、心も遍在なのだから。それは宇宙心の一片なのである。さて、しかしながら、それはただ、この身体の中の神経の流れを通してはたらくことができるだけである。しかしこのヨーギーがこれらの神経の流れから自分を解放するなら、彼は他のものを通じてはたらくことができる。

 

(40)ウダーナと呼ばれる流れを克服することによって、そのヨーギーは水の中または泥沼の中にも沈まない。いばらの上なども歩くことができるし、意のままに死ぬことができる。

 

 ウダーナは、肺臓および上半身のすべての部分を支配する、神経の流れの名である。そして彼がそれの主人となると、彼は目方が軽くなる。彼は水の中に沈まない。彼はいばらや剣の刃の上を歩き、火の中に立ち、またすきなときに今生を去ることができる。

 

(41)流れサマーナの征服により、彼は光の炎にかこまれる。

 彼のすきなときに、彼の身体から光が出る。

 

(42)耳とアーカーシャとの間にサムヤマをつくると、神的聴覚がひらける。

 アーカーシャ即ち、エーテルがあり、器官即ち、耳がある。それらの上にサムヤマをつくることによって、そのヨーギーは非凡な聴力を得る。彼はあらゆるものを聞く。幾マイルも離れたところで話されたことも響いた音も、聞くことができる。

 

(43)アーカーシャと肉体との間の関係にサムヤマをつくり、綿や毛などのように軽くなって、それらを瞑想しつつ、ヨーギーは、天空を行く。

 このアーカーシャは、この肉体の材料である。肉体になっているのは、ある形をとったアーカーシャにほかならない。もしヨーギーが彼の肉体のこのアーカーシャなる材料の上にサムヤマをつくるなら、それはアーカーシャの軽さを得、彼は空中を通ってどこにでも行くことができる。他の場合にも同様である。

 

(44)「偉大な disembodiedness」(魂、心などの肉体からの離脱)と呼ばれる、肉体の外での心の "real modifications"(真の変容)の上にサムヤマをつくると、光の覆いが消えてしまう。

 心は、それの愚かさのゆえに、自分は肉体の内ではたらいている、と思う。もし心が遍在であるなら、どうして私が一つの神経組織にしばられ、「エゴ」を肉体の中だけにおいておく、などということがあろうか。そんなことをするわけがない。ヨーギーは、どこであれ自分の好むところに「エゴ」を感じたいと思う。エゴイズムが肉体の中になくておこる心の波が、「真の変容」または「偉大な disembodiedness 」と呼ばれるのである。彼がこれらの変容の上にサムヤマをつくることに成功すると、光を覆ういっさいのものは行ってしまい、すべての闇と無知は消える。あらゆるものが、彼には知識でみちあふれていると見える。

 

(45)諸要素の粗大な、および精妙な形、それらの本質的な特徴、それらに内在するグナ、および魂の経験へのそれらの貢献、の上にサムヤマをつくることによって、諸要素が支配できるようになる。

 ヨーギーは、諸要素の上に――最初は粗大な要素の上に、それからより精妙な状態の上に――サムヤマをつくる。このサムヤマは、仏教徒の一宗派がより多くとり上げている。彼らは土の一かたまりをとってそれの上にサムヤマをつくる。すると徐々に、それの構成要素である精妙な材料を見はじめる。そして彼らがそれの中のすべての精妙な材料を知ったとき、彼らはその要素への支配力を得る。他の諸要素の場合も同じである。ヨーギーはそれら全部を征服することができる。

 

(46)そこから、小さくなる力および他のもろもろの力――「肉体の glorification(賛美、美化)」の力、肉体の性質を不壊とする力――が生まれる。

 これは、ヨーギーが八大神通力を獲得したことを意味する。彼は自分を一分子のように小さくすることも、山のように巨大にすることもでき、大地のように重くすることも空気のように軽くすることもできる。何であれ、彼の好むものに到達することができ、欲するものを支配することができ、欲するものを征服することができ、その他さまざまのことができる。ライオンは子羊のように彼の足下にすわるであろうし、彼の願望はすべて意のままに達せられるであろう。

 

(47)「肉体の glorification」というのは、美しさ、肌色、つよさ、磐石の堅さである。

 肉体は不壊となる。何ものもそれを傷つけることはできない。そのヨーギーが希望するまで、何ものもそれを破壊することはできない。「時の権威をやぶり、彼はその肉体を持って、この宇宙に生きる」ヴェーダに、その人にはもはや、病も死も苦痛もない、と書いてある。

 

(48)諸器官の客観性と啓蒙の力の上に、エゴイズムの上に、それらに内在するグナの上に、そして魂の経験へのそれらの貢献の上にサムヤマをつくることによって、諸器官の征服が来る。

 外界の対象を知覚するにあたり、諸器官は心の中の自分の場所を去って対象の方に行く。このあとに知識が来る。エゴイズムも、この行為に立ちあっている。ヨーギーがこれらの上と他の二つの上に順々にサムヤマをつくるとき、彼は諸器官を征服する。あなたが見、または感じる何でもを、例えば一冊の書物をとり上げ、まず心をそれに、それから書物という形の中にある知識に、そしてそれからその書物を見る「エゴ」そしてそれから、といように心を集中せよ。その実践によって、すべての器官は征服されるであろう。

 

(49)そのことから肉体に、心のように急速に動く力、肉体からは独立した器官の力、および自然の征服、がやってくる。

 諸要素の征服によって glorified((46) 参照)肉体が来るのと同じように、諸器官の征服からは、右に述べた力がくるであろう。

 

(50)サットワとプルシャの間の識別の上にサムヤマをつくることによって、全能と全知とが来る。

 自然が征服され、プルシャと自然との間のちがいが――プルシャは不壊であり純粋であり完全である、ということが――悟られると、そのときに全能と全知が来る。

 

(51)それらの力をもすてることによって、あの悪の種子の、破壊が来る。それは、カイヴァリャに導く。

 彼は独在 aloneness、独立を得、自由になる。人が全能および全知の考えさえもすてるとき、そこに楽しみへの、天上の生きものからの誘惑への、完全な拒絶が来る。ヨーギーがこれらすべての驚くべき力を見、しかもそれらを拒否したとき、彼はゴールに到達するのだ。これらすべての力は何か。単なる現れだ。夢にすぎない。全能さえ、一つの夢である。それは心に依存している。そこに心がある限り、それは理解することができる。しかしゴールは、心さえも超えたところにあるのだ。

 

(52)ヨーギーは、また災いを恐れて天界の住人たちの誘惑に誘われたりおだてられたりしてはならない。

 他の危険もある。神々その他の生きものが、ヨーギーを誘惑しようとやってくるのだ。彼らは、誰でもが完全に解脱することを望まない。彼らはちょうどわれわれのように嫉妬深い、そしてときにはわれわれよりも悪い。彼らは自分たちの地位を失うことを非常に恐れているのだ。完成に到らないで死ぬヨーギーたちは神々になる。本道をはずれて横みちの一つに入り、このような力を得るのだ。彼らはもう一度生まれなければならない。しかし、このような誘惑に負けないほど十分に強く、まっすぐにゴールに向かって行く人は、自由になる。

 

(53)一瞬間のとき(a particle of time)と、その前 precession とあと succession の上にサムヤマをつくることによって、識別が来る。

 どのようにしてわれわれは、このようなことすべて――神々、天上界、および超能力――を避けるべきか。識別によって、悪から善を見分けることによって、である。それだから、それによって識別力が強化されるようなサムヤマが、ここに教えられているのだ。これはサムヤマを瞬間( a particle of time 一秒間の一片)とその前後の上につくる、という方法である。

 

(54)種、徴しおよび場所によっては区別をつけることのできないもの、それらでさえ、右のサムヤマによって、識別することができる。

 われわれが苦しむ不幸は無知から、真実なものと真実でないものとの識別がないところからくる。われわれはみな、悪いものを善いととり、夢を現実ととる。魂が唯一の実在であるのにわれわれはそれを忘れている。肉体は非真実の夢である。しかもわれわれは、自分たちはすべて肉体だ、と思っている。この識別の欠如が、不幸の原因である。それは無知からおこっている。識別がくれば、それが力をもたらし、そのときにはじめてわれわれは、肉体、天国、および神々などという、これらさまざまの概念のすべてを避けることができる。この無知は、種、徴し、および場所によって区別することから生じる。例えば、牝牛の場合を考えてみよう。牝牛は種によって、犬と区別される。牝牛たちのみの場合にも、われわれは一頭の牝牛と別の牝牛とをどのようにして区別するか。徴しによって、である。もし二つの対象がまったく同じであるなら、もしそれらが別々の場所にあれば、区別することができる。対象がまじりあってこれらの相違点もわれわれを助けない場合には、右に述べた修行によって得られた識別力が、それらを区別する能力を、われわれに与えるであろう。ヨーギーの最高の哲学は、プルシャは純粋で完全であって、この宇宙間に存在するたった一つの「単一なるもの」である、というこの事実にもとづいている。肉体と心は合成物である。それなのにわれわれはつねに、自分は肉体である、心である、と思っている。これは、区別が失われた大きな間違いである。この識別の力が得られると、人は、心理的なものであれ物質的なものであれこの世界のいっさい物は合成物であって、したがってプルシャではあり得ない、ということを見るのだ。

 

(55)救いの知識は、同時にすべての対象を彼らのすべての多様性のまま包含する、識別と言う、あの知識である。

 救いの知識と言うのは、この知識がヨーギーをして、誕生と死の大海をよこぎらしめるからである。精妙な、そして粗大な、それのあらゆる状態にあるプラクリティが、この知識の把握の内にある。この知識による認識におよぶものはない。それはすべてのものを同時に、ひと目で取りこむ。

 

(56)サットワとプルシャの間の純粋性の相似によって、カイヴァリャがくる。

 魂が、それは神々から最低の原子に至る何ものにも依存してはいない、ということをさとるとき、それはカイヴァリャ(独在)および完全と呼ばれる。それには、サットワ( intellect 知力)とよばれるこの純粋性と不純性との混合がプルシャそれ自体ほど純粋になったときに到達する。そのときサットワは、純粋性の、まったくのエッセンスだけを反映する。それがプルシャなのである。

 


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