スワミ・ヴィヴェーカーナンダによる
パタンジャリのヨーガ格言集注解

第二章 心の集中、それの実践

(1)禁欲、学習、およびはたらきの果実を神にささげることは、クリヤー・ヨーガとよばれる。

 前章の最後に述べたサマーディを、成就することは非常にむつかしい。それだからわれわれはそれらを、ゆっくりととり上げなければならない。第一歩、準備の段階はクリヤー・ヨーガとよばれる。このことばの意味ははたらき、ヨーガに向かってはたらく、という意味である。もろもろの器官は馬、心はたづな、知力は御者、魂は乗り手、そして肉体は馬車である。家の主人、王さまは、人の「自己」は、この馬車の中にすわっている。もし馬が大変につよくてたづなにしたがわないなら、もし御者すなわち知力が馬を制御する方法を知らないなら、そのときには馬車は災難にあうだろう。しかしもろもろの器官すなわち馬がよく制御されるなら、そしてもしたづな、心が御者、知力の手にしっかりとつかまれているなら、馬車は目的地に到着する。それゆえ、この禁欲とはどういう意味か。肉体と各器官をみちびきつつ、たづなをしっかりとにぎって彼らに気ままなことをさせず、両方を正しい支配のもとにおくことである。学習。この場合の学習とは何のことか。小説や物語本の学習ではない、魂の解放をおしえるすべての著作の学習である。それからまた、この学習はまったく、議論の学習ではない。ヨーギーは、彼の論争の時期はすでにおわったもの、とみなされている。彼は十分にそれをした。そしてもう満足した。彼はただ、確信を深めるために学習するのである。ワーダ Vada とシッダーンタ Siddhanta ――これらは二種類の聖典の知識である――ワーダ(議論がましいもの)とシッダーンタ(決定的なもの)。人がまったく無知である場合には、彼はこれらの第一のもの、論争、そして賛否両方の推論にふける。そしてそれがおわると、結論に到達して、シッダーンタをとり上げるのだ。単にこの結論に達しただけではなんにもならない。それが強化されなければならない。書物の数は無限であり、しかも時はみじかい。それだから知識の秘密は、本質的なものをとることである。それをとり、それを生きるよう、努力せよ。もしミルクと水を入れたカップをラージャハンサ(白鳥)の前におけば、彼はミルクだけを飲んで水はのこす、という、インドの神話がある。そのように、われわれは知識の中の価値ある部分をとり、かすをのこさなければいけない。知力の体操も最初は必要である。われわれは何でもの中に盲目的に突入してはならない。ヨーギーは議論する段階はすでに通りすぎ、岩のように不動の、一つの結論に達している。彼がいましようとつとめているのは、その結論を強化することである。議論はするな、と彼は言う、もし人が議論をしかけてきたら、沈黙していよ、と。いかなる議論にも答えるな、ただしずかにそこを去れ。なぜなら議論はただ心をみだすだけであるから。たった一つ必要なのは知力を訓練することだ。つまらないことでそれをかきみだして何になるか。知力はよわい道具にすぎず、われわれにただ、感覚によって限定された知識しか与えることはできない。ヨーギーは感覚を超越することを欲する。それだから、知力は彼の役にはたたないのだ。彼はこのことをよく知っているから、だまっていて論争はしない。どんな論争も、彼の心の平衡をうしなわせ、チッタに混乱をひきおこす。そして混乱は障害である。論争と論理の探求はただ途中のもの。それらのかなたにそれらよりはるかに高いものがある。全人生が、学生の取っ組み合いや討論研究会のためにあるわけではない。「はたらきの果実を神にささげる」というのは、はたらきのてがらもとがも、わがものとせず、両方を主にささげて平安をたもつ、ということである。

 

(2)(それは)サマーディを実践し、苦痛をともなう障害を少なくする(ためである)。

 われわれの大部分は自分の心になんでもしたいことをさせ、それをあまやかされた子供のようにしてしまっている。それだから、心を支配下におき、それを服従させるように、たえずクリヤー・ヨーガを実践することが必要である。ヨーガのさまたげは支配力の欠如から生じ、われわれに苦痛を与える。それらは、クリヤー・ヨーガという手段によって心をうちけし、おさえつけたときにはじめてのぞかれる。

 

(3)苦痛を与える障害は――無知、エゴイズム、執着、嫌悪、および生へのしがみつきである。

 これらは五つの苦しみ、われわれをしばりつける五重のなわであって、その中の無知が原因であり、他の四つはそれの結果である。それが、われわれのすべての不幸の唯一の原因である。他の何が、われわれを不幸にすることができるか。「魂」の性質は永遠の至福なのである。無知、幻覚、妄想以外に、何がそれを悲しませることができるか。「魂」のすべての苦痛は、妄想にすぎない。

 

(4)無知が、つぎにのべるこれらすべてのものを生みだす畑である――それらが眠っていようと、弱っていようと、圧倒されていようと、またはひろがっていようと――。

 無知が、エゴイズム、執着、嫌悪、および生へのしがみつきの原因である。これらの印象は、さまざまの状態で存在する。それらはときには眠っている。みなさんはしばしば、「赤ん坊のように無邪気な」という表現をきくだろう。しかし赤ん坊の内にも、ある悪魔の状態またはある神の状態が存在していて、それは徐々に出てくるだろう。ヨーギーの内部では、これらの印象、過去の行為がのこしたサムスカーラは、よわめられている、つまり非常に精妙な状態で存在しているので、彼はそれらを制御することができ、表面にあらわれることをゆるさない。「圧倒された」状態とは、ときどき一組の印象がしばらくのあいだもっと強い印象によっておさえつけられていることがあるのだが、その抑制がのぞかれると表面にあらわれる、という意味である。最後の状態は、「ひろがった」というもの、サムスカーラが助けになる環境を得て、善か悪かの大きな活動をなしとげるのである。

 

(5)無知は永遠でないもの、不純なもの、苦痛をともなうもの、および「自己」でないものを(それぞれ)永遠なもの、純粋なもの、幸福なもの、およびアートマンすなわち「自己」とうけとること。

 さまざまの種類の印象のすべては、一つの源泉を持つ、無知である。われわれは第一に、無知とは何であるかを学ばなければならない。われわれのすべては思う、「私は肉体であって『自己』、純粋なもの、光りかがやくもの、永遠に至福にみちた存在、ではない」と、それが無知である。われわれは人のことを思い、人を肉体であると見る。これが大きな妄想である。

(6)エゴイズムとは、見る道具を見る者だと思うことである。

 見る者は実は「自己」、純粋なもの、永遠に神聖なもの、無限であるもの、不死である者である。これが人の「自己」である。そして道具とは何か。チッタすなわち心、ブッディすなわち決定能力、マナスすなわち心、およびインドリヤスすなわち感覚器官である。これらは、彼にとって外界を見るための道具であって、道具を「自己」だと思うことは、エゴイズムの無知とよばれるものである。われわれは、「私は心だ」とか、「私は思いである」とか、「私はおこっている」とか、「私は幸福だ」とか言う。どうしてわれわれがおこることが、またどうしてわれわれが憎むことができようか。われわれは自分を、変化することのできない「自己」と見なすべきなのだ。もし「それ」が不変ならどうして「それ」が、ひととき幸福で、ひととき不幸でなどあり得よう。それは無形、無限、遍在なのだ。何がそれをかえることができるか。それはすべてのおきてを超えている。何がそれに影響を与えることができるのか。宇宙間に何ひとつ、「それ」に影響を与えることのできるものはない。だが無知によって、われわれは自分を心だと思い、自分は快苦を感じる、と思うのである。

(7)執着は、快楽のことをいつまでも考えることだ。

 われわれはあるものの中に快楽を見いだし、心は一つの流れのようにそれらに向かってながれる。そしていわば快楽の中心のこの追跡が、執着とよばれるものである。われわれは決して、快楽を見いださないところに執着はしない。われわれはときどきはたいそう奇妙なものに快楽を見いだすが、しかし原理はかわらない。どこであれ快楽を見いだしたところに、執着するのである。

(8)嫌悪は、苦痛を思いつづけることである。

 苦痛を与えるものからは、われわれはただちにはなれようとする。

(9)それ自身の本性の中をながれており、学識ある者たちの中にさえ定着しているのが、生へのしがみつきである。

 この生へのしがみつきを、みなさんはあらゆる動物の中にあらわれているのを見るだろう。それがもとで、未来の生に関する学説をつくる多くのこころみがなされた。人びとは来世をもねがうほど、生きるのがすきだからである。もちろん、この議論にたいした価値がないことは言うまでもない。しかしその中でもっとも奇妙なのは、西洋諸国では、この生へのしがみつきが来世の可能性を示すという考えが人間にだけあてはまり、動物を含んでいない、ということである。インドでは、この生へのしがみつきが、過去の経験と存在を証明する論拠の一つとなってきた。たとえば、もしわれわれの知識のすべては経験からきている、ということがほんとうなら、われわれは自分がかつて経験したことのないものを想像、または理解することはできない、というのは確実である。ひなどりは、卵からかえるやいなや、餌をついばみはじめる。ニワトリに卵をだかれていたアヒルの子が、殻から出るやいなや水の中にとんで行き、母親がそれを見ておぼれるだろうとおそれた、という光景はしばしば見られた。もし経験が知識の唯一の源泉であるなら、どこでこれらのひなは餌をついばむことを、アヒルの子は池が自分の本来のすみかであることを学んだのか。本能である、と言っても意味はなさない。単にことばをかえただけで、説明ではない。この本能とは何であるか。われわれ自身が多くの本能を持っている。たとえば、婦人方みなさんの多くはピアノをおひきになる。そしてならいはじめにはどんなに注意ぶかくつぎつぎに、指を白黒の鍵盤の上におかなければならなかったか、おぼえておられるだろう。しかし多年の練習を経たいまは、ゆびが機械的に動くあいだに友だちと話をしてもおられる。それは本能になったのだ。われわれのあらゆるはたらきの場合に同様である。実践によって、それは本能になるのだ、それは自動的になるのだ。しかしわれわれの知るかぎりでは、われわれがいま自動的だと見なすすべてのケースは、退化した理性である。ヨーギーのことばにしたがえば、本能は内含されている理性である。識別が内含され、自動的なサムスカーラとなるのだ。それゆえ、この世界にわれわれが本能とよぶすべてのものはようするに内含された理性である、と考えることは完全に論理的である。理性は経験なしにくることはないのだから。したがってすべての本能は過去の経験の結果である。ひなどりはタカの力をおそれるし、アヒルの子は水を愛する。これらはともに過去の経験である。そこで、この経験は特定の魂に属するものか、それとも単に肉体に属するものか、アヒルの持つこの経験はアヒルの先祖の経験か、それともこのアヒル自身の経験か、という疑問がおこる。現代の科学者たちは、それは肉体のものだと主張する。しかしヨーギーたちは、それは肉体によってつたえられた心の経験である、と主張する。これが、生まれかわりの学説とよばれるものである。

 われわれはつぎのことを知った。すなわち、それを知覚とよぶにせよ推理または本能とよぶにせよ、われわれの知識のすべては経験とよばれるあの一つの通路を通ってやってこなければならず、そしてわれわれがいま本能とよんでいるものすべては本能に退化した過去の経験の結果であるということ、そしてその本能はふたたび推理に再生する、ということである。宇宙全体を通じて右のとおりであり、インドではそれの上に、生まれかわりの説の論拠のおもなものの一つが立てられたのである。くり返しやってくるさまざまの恐怖の経験が、やがてこの生へのしがみつきを生み出す。それだから幼児も本能的に恐怖する、過去の苦痛の経験を内に持っているからだ。この肉体はほろびる、と知っており、「心配するな、われわれは幾百の肉体を持ったのだ、魂は死ぬことはない」と言う(もっとも学識ある)人びと――彼らの中にさえ、われわれはあらゆる知的確信とともに、なおこの生へのしがみつきを見いだすのである。なぜこの生へのしがみつきがあるのか。われわれは、それが本能化したのを見た。ヨーギーたちの心理学上のことばによると、それは一つのサムスカーラになったのだ。サムスカーラは精妙でかくれており、チッタの中に眠っている。この過去の死の経験のすべて、われわれが本能とよぶすべては、潜在意識となった経験である。それはチッタの中に生きており、無活動ではなく、下の方ではたらいている。

 粗大なるチッタ・ヴリッティスすなわち心の波動は、われわれは識別し感じることができる。もっとたやすく制御することができる。しかしもっと精妙な本能はどうか。それらはどのように制御することができるか。私がおこるとき、私の全心は一つの巨大な怒りの波になる。私はそれを感じ、それを見、それにさわり、たやすくそれをあやつることができる。それとたたかうことができる。しかし、下の方それの原因にまでおりて行くことができなければ、たたかいに完全には成功しないだろう。ある人が私に何か大変にあらいことばをはき、私は自分が興奮するのを感じはじめる。そして彼がつづけるのでついに私は完全におこり、自分をわすれて怒りそのものになる。彼が最初に私をののしりはじめたとき、私は、「私はおころうとしている」と思った、怒りは一つのもの、私は別のものだった。しかし私がおこったとき、私は怒りであった。このような感情は胚芽のうちに、根本で、かすかな形のうちに、それらが自分に影響を与えつつあることに気づく前に、制御されなければならない。人類の大多数の場合、このような激情のかすかな状態は、知られることさえもない――潜在意識からうかび上がってきた状態である。湖水の底からあわが上がってくるとき、表面近くまできてさえも、われわれはそれを見ない。それがやぶれてさざなみを立てるときにはじめて、それがそこにあることを知るのだ。波がかすかな原因であるうちにとらえてはじめて、それと格闘することができるのであって、波が大きくなる前にそれをとらえ征服するのでなければ、どのような激情も完全に征服できる見こみはない。われわれの激情を制御するには、まさに根源のところで制御せねばならず、そのときにはじめて、われわれは彼らの種子までやきつくすことができるだろう。揚げられた種子が地にまかれても決して発芽しないように、このような激情も決して、生じることはないだろう。

(10)精妙なサムスカーラは、それらをその原因の状態に分解することによって、征服されなければならない。

 サムスカーラは、やがて粗大な形でみずからを現すはずの、精妙な印象である。どのようにしてこのような精妙なサムスカーラを征服するか――結果をそれの原因に分解することによって、である。結果であるところのチッタがそれの原因、アスミター、すなわちエゴイズムに分解させられたときにはじめて、もろもろの精妙な印象はそれといっしょに死ぬのだ。瞑想がこれらを破壊することは、できない。

(11)瞑想によってそれらの(粗大な)変形はのぞかれるべきである。

 瞑想は、これらの波がおこるのを制御する偉大な方法である。瞑想によって、あなたは心にこれらの波をしずめさせることができ、またもし、それが習慣となるまで、すまいと思ってもせずにはいられなくなるまで、その実践を何日も、何カ月も、何年もつづけるなら、怒りやにくしみは制御され、おさえられるであろう。

(12)「はたらきのうつわ」は、それの根をこれらの苦痛をはこぶ障害の中に持ち、それらはこの見える生活または見えない生活の中で経験される。

 「はたらきのうつわ」とは、サムスカーラの総計のことである。何のはたらきであれ、われわれが行えば、心は波立つ。そしてはたらきがすめば、波はおさまった、とわれわれは思う。そうではない。ただ精妙になっただけ、それはなお、そこにある。われわれはそのはたらきを思いだそうとつとめれば、それはふたたび現れて、一つの波となる。だからそれはそこにあったのだ。さもなければ、そこに記憶はなかっただろう。こうして、よくてもわるくても、あらゆる活動、あらゆる思いはただ下って精妙になり、そこにたくわえられる。幸と不幸と両方の思いが、ともに苦痛をもはこぶ障害とよばれる。なぜならヨーギーたちによると、それらは結局は、苦痛ももたらすからである。感覚からくるすべての幸福は、ついには苦痛をもたらすであろう。すべての楽しみはわれわれをして、もっとほしいと渇望させ、それの結果として苦痛をもたらすのだ。人の欲望にはかぎりがない。彼は欲しつづける。そしてある、願望がみたされない一点までくると、その結果は苦痛である。それだからヨーギーたちは、善であれ悪であれ印象の総計を、苦痛をもたらす障害、とみなすのだ。それらは魂の自由への道をさまたげるのである。

 われわれのすべてのはたらきの精妙な根であるサムスカーラの場合もおなじである。それらは、今生または来世にふたたび結果をもたらすはずの原因である。これらのサムスカーラが非常に強い例外的な場合には、それらはすみやかに果実をむすぶ。例外的に悪い行為またはよい行為は、今生においてでもその果実をもたらす。よいサムスカーラのばく大な力を獲得し得た人びとは死ぬ必要はなく、今生においてさえ、その肉体を神体にかえることができる、とヨーギーたちは主張する。ヨーギーたちがその著書の中にのべている、いくつかのそのような例がある。このような人びとは、まさに彼らの身体の材質をかえるのだ。彼らは分子を、それらがもう病むことはなく、われわれが死とよぶものはもはや彼らにはこなくなるように配列しなおすのである。どうしてこれが不可能だということがあろうか。食物の生理的な意味は、太陽からのエネルギーの同化である。エネルギーが植物にとどき、その植物が動物にたべられ、その動物が人にたべられるのだ。それの科学は、われわれはそれほど多くのエネルギーを太陽からとり、それをわれわれ自身の一部としている、というものである。そのようなことであるなら、どうして、エネルギーを同化する方法はたった一つしかない、などということがあり得よう。植物の方法はわれわれの方法とはちがう。大地がエネルギーを吸収する過程は、われわれの方法とはちがう。しかしすべてが何らかの形でエネルギーを同化している。ヨーギーたちは、彼らは心の力だけでエネルギーを同化することができる、ふつうの方法にたよることなく、欲するだけのエネルギーを吸収することができる、と言うのだ。クモが自分の体内から糸を出して巣をつくり、それの中にしばられてあみの外には出ることができないのとおなじように、われわれも自分の実質から神経というこのあみ状の組織を放出して、これらの神経という通路による以外、はたらくことができない。ヨーギーは、われわれはそれにしばられる必要はない、と言うのだ。

 同様に、われわれは電気を、世界のどの地域にも送ることができる。しかしわれわれは、電線の力をかりて送らなければならない。自然は大量の電気を、まったく電線なしで送ることができる。われわれにおなじことのできないはずがあろうか。われわれは、心の電気を送ることができる。われわれが心とよんでいるものは、電気とまったくよくにているのだ。この神経流動体がいくらかの量の電気を持っていることは明らかである。それは極点を持っており、すべての電気的な指令に応じることができるのだから。われわれはただ、これらの神経という通路を通してのみ、われわれの電気を送ることができる。この助けなしには心の電気を送ることはできない、などということがあろうか。ヨーギーたちは、それは完全に可能であり、しかも実行できる、と言い、そしてあなたにそれができるとき、あなたは宇宙全体ではたらくであろう、と言うのだ。あなたは誰とでも、どこででも、神経組織の助けなしに、はたらくことができるだろう。魂がこれらの通路を通して活動しているとき、われわれは人が生きていると言い、これらが活動をとめるとき、人は死んだと言われる。しかし、人がこれらの通路があってもなくても活動することができるとき、彼にとっては生死は意味がないであろう。宇宙間のすべての体は、タンマートラス(宇宙の構成要素)からできている。彼らの間のちがいは、後者の配合にあるのだ。もしあなたが配合者であるなら、あなたはある体を、すきなように配合することができるだろう。あなた以外の誰が、この体をつくるか。誰が食物をたべるのか。もし別の人があなたの代わりに食物をとったなら、あなたは長くは生きられないだろう。誰が食物から血液をつくるのか。あなただ、確実に。誰が血液を浄化し、血管を通してそれを送るのか。あなたである。われわれが身体の主人であり、そしてわれわれはそれの中に住んでいるのだ。ただ、われわれはどうしてそれを活気づけるかとい知識をうしなってしまった。機械的になり、堕落してしまった。われわれはそれの分子を配置する方法を忘れてしまったのである。それだから、自動的に行っていることが知って行われなければならない。われわれは主人なのであるから、その配合を規正しなければならない。そしてそれができるやいなや、われわれは思うままに若返ることができ、そのときには誕生もやまいも死も、なくなるであろう。

 

(13)根がそこにあるから、結実が種(しゅ)、生命、および快苦の経験(の形で)やってくる。

 

 根、原因、サムスカーラがそこにあるから、それらが現れて結果を形づくる。原因は徐々にきえて結果になる。結果はより精妙になって次の結果の原因になる。木はもう一本の木の原因となる種子を生み、この関係はつぎつぎとつづく。いまのわれわれのはたらきのすべては過去のサムスカーラの結果であり、また、これらのはたらきはサムスカーラとなって将来の活動の原因となるだろう。こうしてわれわれはつづくのだ。それゆえこの格言は、原因がそこにあるのだから、結果は生きものの種という形でこなければならない、と言っているのだ。一つは人であり、もう一つは天使、もう一つはけもの、もう一つはデモンであろう。それから、そこには生涯におけるカルマのさまざまの結果がある。一人の男は五十年生き、もう一人は百年、もう一人は二年のうちに死んで、決して成熟はしないだろう。生涯におけるこれらすべてのちがいは、過去のカルマによってきめられるのである。ある人はまるで楽しみのために生まれたかのよう、たとえ森の中にかくれても、快楽がそこまで、彼についてくるだろう。もうひとりの人は、どこに行っても苦しみがついてくる。あらゆることが彼には苦痛となるのだ。それは彼ら自身の過去生の結果である。ヨーギーたちの哲学によると、すべての有徳の行為は快楽をもたらし、すべての悪徳の行為は苦痛をもたらす。わるい行いをした者は誰でも、必ず苦痛という形でその果実をかりとらなければならない。

 

(14)それらは快楽、または苦痛として、徳、または悪徳の果実をもたらす。

  

(15)識別する者たちにとっては、すべてのものはいわば苦痛にみちたものである。あらゆるものは、それ自体の結果として、またはそれによる幸福を失うことを恐れて、または幸福の印象から生じるあらたな渇望のために、そしてまた、性質(訳注�サットワ、ラジャス、タマス)間のたがいの妨害が苦痛をもたらすのであるから。

 

 ヨーギーたちは、識別力を持つ人、良識ある人は、快および苦とよばれるすべてのものを見通し、それらはすべての人のところにやってくる、そして一つはもう一つに続いてやってきてその中にとけこむ、ということを知っているのだ、と言う。彼は、人びとは全生涯、空しい望みを追っているのであって、決して彼らの欲望を満足させることはできない、と言う。偉大なる王ユディシュティラはあるとき、人生でもっともふしぎなことは、各瞬間にわれわれは自分の周囲で人びとが死んで行くのを見るのに、自分は決して死なない、と思っていることだ、と言った。周囲全部を愚者たちにかこまれながら、われわれは自分は唯一の例外、かしこい人間だ、と思っている。あらゆる種類の移り気の経験にかこまれていながら、われわれは自分の愛は唯一の永続的な愛だ、と思っている。どうしてそんなことがあり得よう。愛さえも利己的なもの、ヨーギーたちは言う、夫と妻、子供たちおよび友人たちの愛さえ徐々にうすらぐのだ、と。衰微は今生のいっさいのものをつかむ。いっさいのもの、愛さえもが力をうしなったときにはじめて、閃光とともに、人はこの世がどんなにむなしく、どんなに夢のようなものであるかを知る。そのときに、彼はヴァイラーギャ(離欲)の片鱗をとらえ、「超越存在」の片鱗をとらえるのだ。この世界をすてることによってはじめて他の世界がくるのであって、この世界にしがみついている間は決してそれはやってこない。いまだかつて、偉大になるために感覚的快楽とたのしみを拒否しなかった偉大な魂はない。不幸の原因は、一つがある方向に、もう一つが別の方向へとひっぱって永続的幸福を不可能にする、自然の二つの力の衝突である。

 

(16)まだやってこない不幸は、さけられるべきである。

 

 あるカルマは、われわれはすでに精算した。あるものは、いま精算中である。そしてあるものは、将来実をむすぼうとして待っている。第一の種類はすんでしまったものである。第二は、精算しなければならないであろう。われわれが征服し支配することができ、その目的のために全力を集中しなければならないのは、将来に果実をむすぼうと待っている第三の種類だけである。これが、パタンジャリがサムスカーラはそれらの原因状態の中にとけこませて制御すべきだ、と言っているときに、さしているものである。(第二章、10)

 

(17)さけられるべきものの原因は、見る者と見られるものとのつながりである。

 

 誰が見る者であるか。人の「自己」、プルシャである。何が見られるものか。心にはじまって粗大な物質に至る、自然の全部である。すべての快と苦は、このプルシャと心のつながりから生じる。プルシャは、忘れてはならないことだが、この哲学にしたがえば、きよらかなものである。自然とつながると、反映によってそれが快苦を感じるように現れるのだ。

 

(18)経験されるものは、要素と器官とからなりたち、明知、活動、および惰性という性質を持ち、そして経験と、(経験者からの)解放という目的を持つ。

  

 経験されるもの、すなわち自然は要素と器官――自然全体を形成する粗大および精妙な要素と、感覚の諸器官、心、等々――とからなりたち、明知(サットワ)、活動(ラジャス)、および惰性(タマス)という性質を持っている。自然全体の目的は何であるか。プルシャが経験を得ることである。プルシャは、いわば、それの強大な、神的な力を忘れたのである。ここに話がある。神々の王インドラが、あるときブタになってどろの中をころげまわった。彼は牝ブタを持ち、たくさんの子ブタをもうけて非常にしあわせだった。するとこのありさまを見た神々が彼のところにやってきて言った、「あなたは神々の王、すべての神々を支配しておいでになるのです。なぜここにいらっしゃるのですか」しかしインドラは、「心配するな。私はここでけっこうなのだ。ここにこの牝ブタと子ブタたちがいれば、天国などはどうでもいい」と言った。あわれな神々は途方にくれ、やがて、ブタを一匹ずつ殺すことにした。全部が死んだとき、インドラは泣きはじめ、悲しみなげいた。そのとき神々がブタの身体を切りさくと、彼はその中から出てきた。なんといういまわしい夢を見ていたものだろうとさとると、彼は笑いはじめた――彼、神々の王がブタになり、そのブタの生活が唯一の生活である、と思うなどとは! そればかりでなく、全世界をブタの生活にしようなどと思うとは! プルシャは、それ自身を自然と同一視すると(訳注�自分は心身結合体であると思いこむと)それはきよらかであり無限である、ということを忘れる。プルシャは愛さない、それは愛そのものである。それは存在しない、それは存在そのものである。「魂」は知らない、それは知識そのものである。魂が愛する、存在する、または知る、と言うのは誤りである。愛、存在、および知識はプルシャの性質ではない。それの本質である。それらが何ものかの上にうつったときには、あなたはそれらを、その何ものかの性質である、と言ってよろしい。それらは、生も死もなく、それみずからの栄光の中にあるプルシャ、偉大なるアートマン、「無限なる存在」、の性質ではなく、それの本質である。それはひどく堕落したように見え、もし近づいて「あなたはブタではない」と言うなら、キイキイ叫びはじめてついにはかみつくのだ。

 このマーヤー、この夢の世界の中では、われわれすべてがまさにこのようである。すべての不幸、泣いたりわめいたり、わずかの黄金の球がころがっているのを世界中がうばいあっている。あなたは決して、おきてにしばられたことはない、自然は決して、あなたをしばったことはない。それが、ヨーギーがあなたに言うことである。それを学ぶだけの忍耐力を持て。するとヨーギーが、どのようにプルシャが自然と接合し、それみずからを心であり世界であると思ってみずからを不幸と考えているか、ということを示す。それからヨーギーはつづけて、そこをぬけ出す道は経験の中にある、ということを示す。あなたはこの経験のすべてをしなければならないが、すみやかにそれをすませよ。われわれが自分をこのあみの中においたのであって、われわれはそこからぬけ出さなければならない。われわれが自分をわなにかけたのだから、われわれが自分の自由をとりもどさなければならないのだ。それゆえ、この夫の、妻の、友の、そして小さな愛の経験をせよ、もし自分はほんとうは何であるのかということを決して忘れないなら、あなたはそれらを無事に切りぬけるであろう。これは一瞬間の状態であって自分たちはそれを通りすぎなければならないのだ、ということを決して忘れるな。経験――快と苦の経験――は唯一の偉大な教師である。しかしそれは経験にすぎないということを知れ。それは一歩また一歩と、ある境地に――そこではすべてのものは小さくプルシャは実に大きくなって全宇宙は大海中の一滴と思われ、もともとなかったものとして消えてしまう、という境地に――みちびくのである。われわれはさまざまの経験を通りぬけなければならない、しかし決して、理想を忘れないようにしよう。

 

(19)性質の状態は、定義のあるもの、定義を持たないもの、暗示だけされているもの、およびしるしのないもの、である。

 

 まえに話したように、ヨーガの体系は完全にサーンキャ哲学を基礎としてつくられているので、ここでもう一度、サーンキャ哲学の宇宙論を思い出していただこう。サーンキャ哲学によると、自然は、宇宙の質料因と動力因の両方である。自然の中には、サットワ、ラジャスおよびタマスという三種類の材料がある。タマスという材料は、すべてのくらいもの、無知で重いものである。ラジャスは活動である。サットワは静けさ、光である。創造の前の自然は、アッヴィャクタ、定義を持たないもの、(個別に)別れていないもの、とよばれる。つまりその中には名と形の区別はなく、そこではこれら三つの材料が完全なバランスをたもっているのだ。それから、そのバランスがくずれ、三つの材料がさまざまの形でまじりはじめる。その結果が宇宙である。それぞれの人間の中にも、この三つの素材が存在する。サットワの材料が優勢であると、知識がやってくる。ラジャスのときは活動、タマスのときはくらさ、倦怠、怠惰および無知である。サーンキャの学説によると、この三つの素材で構成される自然の最高のあらわれは、彼らがマハット、Mahat 知力、すなわち宇宙の知能とよぶものであって、人間の知力はそれの一部分である。サーンキャの心理学では、マナス Manas すなわち心のはたらきと、ブッディ Buddhi すなわち知力のはたらきとの間にははっきりとした区別がある。心のはたらきは単に印象を集めてはこび、それらを知力 Buddhi すなわち個別のマハットに提供することである。個別のマハットはそれに決定を与えるのだ。マハットからエゴイズムが生まれ、それからさらに、精妙な素材が生まれる。精妙な素材が結合して粗大な材料すなわち外側の宇宙となるのだ。サーンキャ哲学の主張は、知能にはじまって一個の石のかたまりに至るまで、すべては一つの実質から生まれており、ちがいはただその存在の状態がより精妙か粗大か、という点だけにある、というものである。より精妙な状態は原因、より粗大な状態は結果である。サーンキャ哲学によると、自然の全体を超越して、まったく物質ではない、プルシャがある。プルシャは、ブッディとも、心とも、またはタンマートラスとも、または粗大な物質とも、他の何ものともまったく異なる。これらのどれにも似てはいない。完全に別のものであり、その性質はまったく異なる。それだから彼らは、プルシャは不死でなければならない、それは結合の結果ではないのだから、と主張する。結合の結果でないものは、死ぬことはあり得ないのだ。プルシャ(ス)すなわち魂たちは、数において無限である。

 これでわれわれは、性質の状態は定義のあるもの、定義を持たないもの、暗示だけされているもの、およびしるしのないもの、である、という格言を理解するであろう。「定義のあるもの」とは、われわれが感覚でとらえることのできる粗大な要素のことである。「定義を持たないもの」とは、普通の人びとは感じることのできない非常に精妙な物質、タンマートラスのことである。しかしもしあなたがヨーガを実践するなら、しばらくするとあなたの知覚力は非常に精妙になり、実際にタンマートラスを見るようになる、とパタンジャリは言う。たとえば、みなさんは、人それぞれが自分の周囲にある種の光を出している、ということをきいているだろう。あらゆる生きものがある種の光を放射しており、ヨーギーはそれを見ることができる、と彼は言うのだ。われわれはそれを全く見ない。しかし、花がたえず、われわれがかぐことのできる精妙な微粒子を放出しているのと同じように、われわれはみな、これらのタンマートラスを放出している。生きている限り毎日、われわれは善または悪のかたまりを放出しており、そしてわれわれの行くところどこであれ、その雰囲気はこれらの物質でみたされている。それだから人間の心には無意識のうちに、そこで神を礼拝するための、寺院や教会をつくろうという考えがうかんだのである。なぜ人が、神をおがむ場所として教会をつくるのか。なぜ、ところきらわず彼を礼拝することはしないのか。たとえ理由はわからなくても、人は、人びとが神を礼拝する場所はよいタンマートラスにみちている、ということを知ったのである。毎日人びとがそこに行く、すると行けば行くほど、彼らはきよまり、その場所はもっと神聖になるのだ。もしサットワをあまり持っていない人がそこに行くと、その場所が影響して彼のサットワの性質をめざめさせるだろう。それゆえここに、寺院や聖地の意義があるのだ。しかし、そのきよらかさはそこに集まるきょらかな人びとによるものなのだ、ということをおぼえておかなければならない。人の問題点は、彼が本来の意味をわすれて馬の前に車をつける、ということである。これらの場所をきよらかにしたのは、人びとであった。そしてそれから結果が原因となり、人びとをきよめたのである。もし悪い人びとばかりがそこに行ったとすれば、そこは他の場所と同じように悪くなるだろう。教会をつくるのは建物ではない。人びとである。しかしそれを、われわれはいつも忘れる。それだから、このサットワの性質をたくさん持つ聖賢たちが日夜それを放出して、周囲に大きな影響を与えるのである。ある人は、彼のきよらかさが触知され得るほどきよらかに、なるだろう。彼に接触した人は誰であれ、きよらかになるのだ。

 つぎに、「暗示だけされているもの」とはブッディ、知力のことである。「暗示だけされているもの」は、自然の最初の現れである。それから他のすべての現れは生まれてくる。最後は、「しるしのないもの」である。この点においては、現代の科学とすべての宗教との間に大きなちがいがあるように思われる。あらゆる宗教は、宇宙は知恵から生まれる、と考えている。神の理論は、人格という観念からはまったくはなれて心理学的な意義のなかでとらえても、創造の順序は知恵が最初であり、知恵のなかから、われわれが粗大な物質とよぶものが生まれる、というものである。現代の哲学者たちは、知恵が最後にくるものだ、と言う。彼らは、知恵を持たないものが徐々にけものに、そしてけものから人に進化する、というのだ。彼らは一切物が知恵から生まれるのではなく、知恵それ自身は最後にやってくるものだ、と主張するのだ。宗教上および科学上のこの二つの宣言は、一見相反するもののように思われるが、両方とも正しい。一つの無限の連続、たとえばA―B―A―B―A―B等をとり上げてみよ。疑問はどちらが先か、ということだ。Aか、Bか。あなたがもし連続をA―Bととるなら、あなたはAが先だと言うだろうが、もしB―Aととるなら、Bが先だと言うだろう。それはわれわれの見方による。知恵は変容して粗大な物質となり、これがふたたび知恵のなかにとけこみ、このようにして、この過程はつづくのだ。サーンキャ哲学者やその他の宗教家は知恵を先におき、連続は知恵、それから物質ということになる。科学を信奉する人はそのゆびを物質の上におき、物質、それから知恵だ、と言う。彼らは両方とも、同じくさりをさしているのだ。インドの哲学はしかしながら、知恵と物質の両方を超え、プルシャ、すなわち「自己」を見いだす。それは知恵をこえており、知恵はそれから借りた光にすぎないのである。

 

(20)見るものは、知恵 intelligence だけであり、きよらかではあるが、知力 the intellect の色づけを通して、見る。

 

 これもまた、サーンキャ哲学である。われわれは同じ哲学により、もっともひくいものから知恵に至るまで、すべては自然である、ということを見ている。自然をこえて、性質を持たないプルシャ(複数)、魂たちがある。では、どうして魂が幸福であったり不幸であったりするように見えるのか。反映によって、である。もし赤い花が純粋な水晶の近くにおかれるなら、水晶は赤く見える。同様に、魂が幸福に見えたり不幸に見えたりするのも、反映にすぎない。魂それ自体に色はない。魂は自然とは別個のものである。自然は一つのもの、魂はもう一つのもの、永久に別々のものである。サーンキャ哲学者たちは、知恵は合成物であり、それは成長し、またおとろえる、それは肉体が変化するように変化する、そして、その性質は肉体の性質によく似ている、と言う。肉体の知恵との関係は、ゆびの爪の肉体との関係によく似ている。爪は肉体の一部であるけれど、それは幾百たびも切りとられ、しかも肉体はなおつづくであろう。同様に、知恵は無限につづくのだが、この肉体は「切りとられ」すてらるのである。しかし、知恵は不死ではあり得ない、それは成長したりおとろえたり、変化しつつあるのだから。変化するものは何であれ、不死ではあり得ない。たしかに、知恵はつくられる。まさにその事実が、それを超えた何ものかがなければならない、ということを示しているのだ。それは自由ではあり得ない。物質につながっているものは自然界に属し、したがって永久にしばられている。誰が自由なのか。自由な者は、確実に原因と結果を超越していなければならない。もしあなたが自由という観念は幻想だと言うなら、私は、束縛という観念は幻想である、と言うだろう。二つの事実がわれわれの意識のなかに入ってきて、いっしょに存続または墜落するのだ。このようなのが、われわれがいだいている束縛と自由の観念である。もしわれわれが壁をつきぬけて行こうと欲し、頭がその壁にぶつかるならば、われわれは自分が壁に限定されていることを知る。同時にわれわれは、意志の力を見いだし、自分はあらゆる方向に意志をはたらかせることができる、と思う。一歩すすむごとにこれらの相矛盾する想念が、われわれのところにやってくる。われわれは自分は自由だと信じなければならない。それでも瞬間ごとに、自分が自由でないことを知るのだ。もし一つの想念がまぼろしなら、もう一つもまぼろしであり、もし一つが真実なら、もう一つも真実である、なぜなら両方がおなじ基礎、つまり意識の上に立っているのだから。ヨーギーは言う、両方とも真実だ、と。知恵がはたらいている間は、われわれはしばられている、魂として見れば、われわれは自由である、と。すべての因果の法則を超えているのが、人の本質、魂、プルシャである。それの自由は、様々の形の物質、知恵、心などのつみ重ねを通して、しみ出ている。すべてを通過して光輝いているのは、それの光なのである。知恵は、それみずからの光は持っていない。それぞれの器官は頭脳のなかに特定の中心を持っている。すべての器官が一つの中心を共有しているというわけではない。器官ははなればなれである。なぜ、すべての知覚が調和するのか。どこで彼らは統一されるのか。もしそれが頭脳のなかであったとしたら、目、鼻、耳などすべての器官が一つだけの中心をもたなければならないはずなのに、われわれは、おのおのが一つずつの中心を持っていることを確実に知っている。それでも人は、同時に見、かつ聞くことができる。それだから、知恵の背後には統一があるにちがいない。知恵は頭脳につながっている。しかしまさに知恵の背後に、プルシャ、さまざまの感覚と知覚のすべてが集まって一つになるところの統一体が立つ。魂自体が、さまざまの知覚が集まって一つになる中心なのである。その魂は、自由である。そして、あらゆる瞬間にあなたに向かってあなたは自由だ、と告げるのはその自由なのである。しかしあなたはまちがえて、あらゆる瞬間にその自由を知恵および心とまぜてしまう。その自由を知恵が持つ、と見ようとして、ただちに知恵は自由ではない、ということを知る。その自由を肉体が持つ、と見るとただちに、あなたはまたもやまちがっている、ということを自然がおしえてくれる。それだからそこに、同時におこるこの、自由と束縛のまじった感じがあるのだ。ヨーギーは自由なものと束縛されているものとの両方を分析し、それによって彼の無知は消滅する。彼は、プルシャは自由である、それは、ブッディを通ってやってくると知恵となり、それゆえに束縛されているあの知識のエッセンスである、と言うことを知るのだ。


| HOME | TOP |
(c) Nippon Vedanta Kyokai