瞑想と霊性の生活
神の名の力(1)
言葉の力
あなたは言葉の力を信じるか。一つの例をあげよう。ある黒人が、彼を中傷したことである男を訴えた。法廷で判事は彼に、その男は何をしたのか、と尋ねた。
「彼は私をサイと呼んだのです」と彼は答えた。
「いつのことか」と判事は聞いた。
「二年前です」
「なぜ、今になって告訴するのか」
「私は今朝はじめてサイを見たからです」と。
もし私たちがその意味を知るなら、名は偉大な力を発揮する。誰かが悪意をもって私たちを、サイ、とんまなガチョウ、うすのろなロバ、などというような悪い名前で呼ぶなら、私たちは興奮し腹をたてるだろう。
また私たちは、自分たちがみな、どのように自分の名前に反応するかを知っている。群衆の中のひとりの人の注意をひく最善の方法は、彼の名を呼ぶことである。これはまた、眠っている人を起こそうと思うときにもすることである。有名なイギリスの詩人テニソンはよく、注目すべき経験をした。彼はそれを、「古代の聖者」という彼の詩の中で描写している。
一度ならず、たったひとりすわって、
私自身の象徴である言葉を思いめぐらしていたとき、
自分という死すべき限界はおぼろになり、
雲が空にとけこむように、「名なき者」の中にとけ込んだ。
私は自分の手足をさわった――手足はひとのもの、わがものでは
なかった――でもつゆほども
うたがいはおこらず、何もかもはっきりと、しかも私はいない。
こんなに大きな生命をわがものとしてうけるのは、
まるで太陽が、言葉自体の中では陰もなく光りかがやき、
しかし陰なるこの世界の、陰であるようだ。
あなた自身の名は「自己」の象徴である、という事実を、あなたはみとめるか。テニソンは、彼の感受性の豊かさのゆえに、彼自身の名を用いて自分の内に、感覚を超えた世界のある片鱗を垣間みることができた。もし普通の名がそのような力を持っているなら、神の名は、どれほどかもっと大きな力があるにちがいない! しかし神の名のこの力は、それの意味、それがあらわすもの、を知る人だけが、悟ることができるのである。
神聖なことば、オウム
インドを遍歴中、スワミ・ヴィヴェーカーナンダはある日、ヒマラヤのアルモラの近くで、一本の老樹のもとにすわり、間もなく、深い瞑想に入った。瞑想がおわると、彼はそのとき同伴していた兄弟僧スワミ・アカンダーナンダに次のように言った、「今、ここのこのバンニヤンの木の下で、私の生涯の中での最も重要な問題の一つが解決された」と。このとき彼が日記にしるしたこの経験の短い記録は次の通りである。
「初めに『言葉』などがあった。小宇宙と大宇宙は同じ設計の上につくられている。個別の魂が生きた身体の中に入れられているのと同じように、宇宙霊は生きたプラクリティ(自然)――客観的宇宙――の中にある。��このように一方(魂)を他方(自然)がおおっている関係は、観念とそれを表現する言葉との関係に似ている。すなわちそれらは同一のものであって、人がそれらを区別することができるのは、心の抽象作用によるのである。思考は言葉なしには不可能である。それだから、初めに、言葉その他があったのだ。この宇宙霊の二つの面は、永遠に二元的な外観を持つ。それゆえ私たちが知覚し、または感じるものはこの、永遠に形あるものと永遠に形なきものとの結合である」と。
後年、スワミ・ヴィヴェーカーナンダはこの思想を、彼の著書「バクティ・ヨーガ」の中で詳述した。
「インドの哲学によると、この宇宙間のすべては、現れるための条件として、名と形(ナーマとルーパ)の両方を持つ。人間という小宇宙の中でも、心の素材のたった一つの波(チッタ・ヴリッティ)も、名と形という条件がなければ、おこり得ない。自然はまったく同一の設計に基づいてつくられている、ということが真実なら、名と形というこの種の条件は、全宇宙がつくられるときの設計でもあるにちがいない。��『一つの土のかたまりが分かれば、土でできたものはすべて分かる』、それゆえ、小宇宙の知識は大宇宙の知識に通じるにちがいない。さて、形はものの外皮であり、名すなわち概念は、それの内なる本質、つまり中核である。肉体は形であり、心すなわちアンタッカラナは名である。そして、話す力を持つすべての生きものにとって、音の象徴は普遍的にナーマ(名)とむすびついている。各個人の内部では、有限のマハトすなわちチッタ(心の素材)の中におこる思いの波は、まず第一に言葉として、それからもっと具体的な形として、自分を現さなければならない。宇宙では、ブラフマーすなわちヒラニヤガルバ、宇宙心(コスミック・マハト)は、まず最初にみずからを名として現し、それから形、つまりこの宇宙として現した。この表現され、感覚でとらえられる宇宙はすべて形であって、それの背後には永遠の、表現不可能なスポター――ロゴスあるいは言葉という、現す者――がいる。すべての観念すなわち名の、本質的かつ永遠の材料である。この永遠のスポタは力であり、主がその力によってこの宇宙を創造するのである。いや、主が最初にスポタという限定されたものとなられ、それから、さらにもっと具体的な、知覚し得る宇宙として彼みずからを展開されるのである。このスポタを象徴的に表現できる唯一の言葉、それがオウムである。そして、いかなる分析手段をもってしても、私たちは言葉を観念から分離することはできないのだから、このオウムと永遠のスポタは不可分に結びついている。それゆえこの、すべての神聖な言葉の中でももっとも神聖な言葉であり、すべての名と形の母である永遠のオウムから、全宇宙は創造されたのである、と仮定してよいであろう」(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、「バクティ・ヨーガ」、協会訳七二頁)
言い換えれば、神の霊が、神聖な観念を通してみずからを表現し、神聖な観念は、神聖な音すなわち言葉を通してみずからを表現するのである。神の「名」の力の正しい理解の基礎となるこの概念は、この種のサーダナーを実践した無数の聖者や賢者によって、確証され、インドの霊性の伝統の一部となっている。スワミ・ブラマーナンダは彼自身の経験について次のように言っている――
「ある日、シュリ・ラーマクリシュナは彼の教えの中で、音としてのブラフマンの現れ――ロゴス――について話された。私はこれを私の昼の瞑想の主題とした。私がすわって瞑想にはいると、突然、音――ブラフマンが私に啓示された」
カタ・ウパニシャッドは、オウムを霊性の修行の目標であるとし、それがすなわち最高の実在である、と説いている。
「すべてのヴェーダが宣言し、あらゆる苦行がそれをめざしており、それを求めて人びとが宗教を学んでいるその目標、それを私はあなたに簡単につげよう。それがオウムである。それが、至高、不動のブラフマンそのものである。それを知る者は、人生の最高の境地に到達するのである」
ムンダカ・ ウパニシャッドはオウムを弓に、浄められ、集中された心を矢にたとえて私たちに、強烈な注意力をもってその矢をはなち、それがブラフマンなる的に命中してそれとひとつになるようにせよ、とすすめている。ここでいうオウムとは、ウパニシャッド全体の意味、啓示された知識のことである。それの助けをかりて、私たちは自分の浄められた心をブラフマンに集中しなければならない。オウムはヒンドゥイズムにおけるもっとも神聖な言葉であり象徴であり、太古以来、世代から世代へとつたえられてきたものである。きわめて簡潔にヴェーダーンタの精髄を説いているマンドキヤ・ウパニシャッドは、次のように宣言している。
「不滅のブラフマンである音節オウムは、宇宙である。存在したものことごとく、いま存在するものことごとく、これから存在するであろうものことごとく、オウムである」
このウパニシャッドはオウムという言葉をさらに分析し、おのおのの音節が意識の特定の状態を意味する、としている。ヴェーダーンタによれば、人の正常な経験は、覚醒、夢、深い睡眠という三つの状態に分けられる。同じように、オウムという言葉は、三つの音節に分けられる。ア、ウ、ム、というこのおのおのの音節は、右にのべた三つの状態を意味している。小宇宙と大宇宙は同一の設計のもとにつくられているのだから、音節ア、ウ、ムはまたおのおの、広大な物質宇宙、広大な心の宇宙、およびこれらおのおのの宇宙の両方の、原因である実体を示している。しかしながら、ブラフマンすなわち絶対実在――これらはそれの現れなのであるが、――はそれらを超越しており、アマートラすなわち無音の、すなわち非顕在のオウムによって、示されているのだ。
ロゴスとナーダ・ブラフマン
パタンジャリもまた、彼のヨーガ・スートラの中で、オウムはイシュワラ、すなわち神の象徴である、と述べている。さらに彼は、このオウムの不断のくり返しは、霊性の進歩のすべての障害を取り除き、「自己」の覚醒に導くと述べている。オウムはこのように、ヒンドゥイズムのもっとも重要な、言葉による象徴のひとつである。しかし、それは、次のように語りはじめられる「ヨハネによる福音書」に述べられている「言葉」ほど、神秘的ではない――
「初めに『言葉』があった。
『言葉』は神と共にあった。
そして『言葉』は神であった。
この『言葉』は、初めに神と共にあった。
万物はこれによってつくられた。……
これの内に命があった、そしてその命は、
人びとの光であった。……
そして、『言葉』は肉体を与えられ、我らの間に住んだ……」
第四福音書の著者は、ここで、イエス・キリストはすなわち、ギリシアのロゴス、「言葉」であると見ようとしている。しかし、それは当時、新しい考えではなかった。オシリスやミトラというような古代の信仰の神々のあるものもまた、あるときは、永遠のロゴスのあらわれとみなされていた。
ロゴスという概念は、古代には広く知られていた。初期のギリシアの哲学者の一人であるヘラクレイトスによれば、宇宙の流転変化を規制する何かの根本原理がなければならない、それで彼はそれを、ロゴスと名づけた。やがてそれは、宇宙理性――人間の理性はその一部分である――と同一視されるようになった。ストア派は、それに有神論的な意味を与え、ロゴスを彼らの汎神論的な神の概念と同一視した。ユダヤ人は元来、世界は「主の言葉」によって創造されたと考えていた。後に、ユダヤの哲学者であるアレクサンドリヤのフィロはこの「言葉」あるいは「神のいき」を独立した実体とし、それをロゴスと名づけた。彼によれば、神はこの不完全な世界にロゴスを介してはたらきかけているという。第四の福音書の著者聖ヨハネは、ロゴスと神をひとつの存在と見、神とロゴスは、たった一つの神的な実在とはたらきをあらわす、名称である、と言った。ロゴスがイエス・キリストとして化身したのである。
インドではロゴスという概念は、それをスポタと名づけた文法家たちとともにはじまった。後に、タントラがそれをさらに発展させた。タントラの一部門であるマントラ・シャーストラ、すなわちマントラの科学は、全宇宙はバイブレイションから創造された、という学説に基礎をおいている。私たちが音と呼んでいるものは、外面に現れた物理的なバイブレイションに過ぎない。耳に聞こえる音より精妙な音は、ラジオ波のような電磁波である。それらは、エーテルのバイブレイションである。ラジオ波は、ラジオ受信機の中の特殊な装置によって、耳に聞こえる音に変換され得る。さらにもっと精妙なのは、思いの波である。思いそれ自体が、ナーダ・ブラフマン(またはシャブダ・ブラフマン)、すなわち宇宙心の、永遠、超感覚的、広大な拍動の、一つの現れなのである。
ナーダ・ブラフマンは単なる理論的な概念ではない。それは経験することができる、それは精妙な心によって聴くことができ、精妙なラジオ波を耳で聞くためには特殊な装置が必要であるように、ナーダ・ブラフマンのバイブレイションをきくためには、人は高度に浄化された心を持たなければならない。心が浄まり、集中されたとき、永遠の、極度に精妙な宇宙的バイブレイションをきくのである。長く引きのばされた連続音、アナーハタ・ドゥワニとして――。これは単なる空想でも、耳の病的な状態からおこった現象でもない。キニーネを大量に服用したあとや、頭に打撃を受けたときなどに聞こえる、病的な音とはまったく関係がない。それはあなたが指で耳をふさいだときに聞こえるハミング音ではない。それは、長い間の着実な霊性の修行の結果である、まったくちがったタイプの経験である。アナーハタ・ドゥワニは、泉の中の水の流れのように、ナーダ・ブラフマンすなわち宇宙心から生まれてそれの中にしりぞく、精妙な音の振動である。
このように精妙な宇宙の脈拍は、心が静まり、霊性の流れが意識のより高いレベルに昇ったときにのみ、きくことができる。しかしそれは、霊性の道を歩む人すべてが、必ずきく、というものではない。心がそのリズムに同調している人だけに聞こえるのである。それとは別の経験をする、高度な魂たちもいるだろう。アナーハタ・ドゥワニはスシュムナー――脊髄に符合する、私たちの内部の中央にある霊性の通路――のはたらきと結びついている。この管は多くの人びとの場合には、閉ざされたままの状態にある。浄化、強烈な求道心、および心の集中によって、この管は開かれ得る。霊性の流れはそのとき、その管の中を上昇し、精妙な霊的な音楽を生み出す。古代ギリシアのピタゴラス派の神秘家はそれを、「天上の音楽」と呼んだ。ヒンドゥの信者たちは、ときに、それを「クリシュナの笛」と呼ぶ。永遠のクリシュナの笛がそれである。宇宙霊から発せられる神の音楽は魂を魅了し、それを霊意識のより高い境地に導く。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは次のように言っている。
「また、すべての分節された音は口の中の空間で生まれ、舌根ではじまって口唇でおわる――のどの音がAであり、Mが最後の口唇の音、そしてUはまさに、舌根ではじまり口唇でおわるまでの音の波動の前進を示している。もし正しく発音されるならこのオウムは、音として生まれるものの全現象を現すであろう。他のいかなることばもこれはできない。したがってそれは、オウムの真の意味であるスポタの、もっとも適切な象徴である。そして、象徴は決して、象徴されるものから切りはなされることはあり得ないのだから、オウムとスポタは一つのものである。そしてスポタは形をもつ宇宙のより精妙な面であって、神により近く存在し、実に神の英知の最初のあらわれであるから、このオウムは実に、神の象徴なのである」(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、「バクティ・ヨーガ」、協会訳、七五頁)
マントラとは何か。
このようにして私たちは、オウムの意味がどれほど深く広大なものであるかを理解する。霊性の生活において、ジャパと瞑想の中で、「自己」の悟りを助けるものとして用いられるオウムの、啓発的な面を理解することは私たちにとって必要である。オウムは普通、不可分かつ超人格的絶対者を象徴しているが、それはまた、人格神と結びつけられて用いられることもある。事実、それは非常に神聖なものと考えられているので、すべての神聖な儀式やとなえ言の中で用いられているのである。しかし、通常、神の人格的な面は、それぞれが特有の音象徴、すなわちその神の名を持ち、ときにはビージャすなわち「種子」とよばれる特別の神秘的な音節を持っている。これに関して、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは次のように言っている。
「また、唯一のブラフマン、アカンダ・サチダーナンダすなわち不可分の存在・知識・至福が、不完全な人間の魂たちによっては、特定の立場からのみ、特定の性質と結びつけてのみ考えられるように、この宇宙すなわち神の身体も、思う者の心の傾向に応じて、考えられているのである。
信仰者のこの心の傾向は、、その心の優勢な要素すなわちタットワによって導かれている。その結果、同一の神が、さまざまの特質を持つ者として、さまざまの姿で見られるであろうし、同じ宇宙が、多様な形にみちたものとしてあらわれるでそう。ほとんど分化していない、もっとも普遍的な象徴であるオウムの場合、思いと音象徴とがはなれがたくむすびつているのが見られるのとまさに同じように、この不可分の結合という法則は、神と宇宙の異なるさまざまの姿にもあてはまる。それだからそれらのおのおのが、それをあらわす特定の言葉の象徴を持たなければならないのである。賢者たちのもっとも深い霊的知覚から、展開した、これらの言葉の象徴は、それらが現している神および宇宙の特定の見方をできるかぎりふさわしく、象徴し、表現しているのである。そしてオウムが、アカンダ、つまり特殊化されていないブラフマンを表現しているように、その他のものはすべて、カンダ、すなわち同一実在のさまざまに分化した見方を示している。そしてそれらの見方すべては、神を瞑想し、真の知識の獲得する助けとなっているのである」(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、「バクティ・ヨーガ」、協会訳、七六頁)
シャブダというサンスクリット語は音と言葉の両方を意味している。私たちが話すとき、私たちが耳で聞くものは、ヴァイカリーと呼ばれる、粗大な形の音にすぎない。それは、声帯、舌、その他の動きから生まれる。その背後に、思考過程の産物である言葉がある。これはマディヤマ音である。思い自体は、パシヤンティ音と呼ばれる、もっと精妙な衝動から生まれている。パシヤンティは非顕在のシャブダ・ブラフマンから発するのであって、その音の過程はパラーと呼ばれる。それゆえ人の思いの生活は、パラーから発して、パシヤンティとマディヤマを通り、ヴァイカリーに至るまでの領域をもっているのだ。私たちは、自分の内面世界についてなんとわずかしか知っていないことか!なんとうかつに考え、うかつに話していることか!思いはダイナミックな過程であって、非顕在の精妙な源から生まれてきているのだ。悪い思いはもっと深いところではたらき、私たちの心身の構造に影響を及ぼす。同様によい思いは、人格の深部をさえ、改善するのである。
通常の思いの中では、私たちは自分の心の霊的な深層にはまったく気づかない。しかし、私たちをこの心の源に導く、マントラという特殊の思いの様式がある。神の「名」(マントラ)をくり返し唱えることとその意味に思いを凝らすことによって、私たちは意識の精妙な領域に深く、もっと深く到達し、次第により高い霊的経験を恵まれるようになるのだ。正しいジャパによって、一見死んでいた音が生気をとりもどし、驚くべき力を獲得する。あらゆるマントラがこの内在の力(マントラ・チャイタニヤ)を持っている。霊的に高い魂がそのマントラをくり返すと、それはその力で満たされ、「生きたもの」となる。彼がマントラを弟子に伝授するとき、この力もまた伝達されるのである。マントラの力は、規則正しく霊性の修行を実践し、きよらかな生活を送る人だけがさとることができる。
マントラという言葉の文字の意味は、「熟考によって魂を解放するもの」(マナマート・トラーヤテ・イティ)というものである。鈍感な心の人にとっては、マントラは、単なる一つの言葉、またはきまり文句に過ぎない。しかし、進歩した霊的な魂にとっては、それは深い霊的体験に導く偉大な力の集中された思いである。マントラを正しくくり返すことによって、人は最高の悟りと自由に到達することができる。音のあとをたどることによって、ヨギは人格神の霊的なヴィジョンを得、やがてはあらゆる音バイブレイションを超越して、至高霊に到達するのだ。
マントラにはさまざまの型がある。もっとも古くまたもっとも有名なマントラの一つは、ガーヤトリー・マントラである。「ナマ・シヴァーヤ」はもっともよく知られたシヴァのマントラである。「ナモ・ナーラヤナーヤ」はヴィシュヌのもっともよく知られたマントラである。「ハレ・ラーマ・ハレ・ラーマ」など、および「シュリ・ラーマ・ジャヤ・ラーマ・ジャヤ・ラーマ」は何億というヒンドゥによって唱えられている。これらはすべて無数の聖者たちの生涯および経験と密接に結びついている。それぞれのマントラは、正しくくり返されるとき、その求道者の中に、独特なバイブレイションを呼び覚まし、最終的には、瞑想されているそのデヴァター(神)を啓示する。タントラ派の伝統では、マントラは公開されない。マントラを彼のグルから伝授された弟子は、それを秘密にし、彼のもっとも身近な親族にさえそれをあかさない。このようなマントラはそれぞれ、ビージャすなわち種子と呼ばれる、特殊な音節を含んでいる。ピージャは関連する神の固有の力を表現している。ピージャはデヴァターの創造的な力を私たちの中に呼び覚ますとされている。
ジャパの力
マントラの力は、資格のある求道者のうちでのみその力を現す。ラーマクリシュナはコシポル・ガーデン・ハウスで、その生涯を終えられるころのある日、弟子ナレンドラをラーマ・マントラでイニシエイトなさった。それは、もともと自己制御の偉大な力に恵まれていたナレンのうちに、顕著な変化をもたらした。この瞬間に彼は法悦状態となり、高い昂揚した声で、主ラーマの名を「ラーマ!」、「ラーマ!」とくり返し唱えながら家のまわりをぐるぐるとめぐり歩いた。彼は実際に外界意識をまったく失い、このような状態で一晩中すごした。師はこのことを知らされたとき、「そのままにしておきなさい。そのうちにもとにもどる」とおっしゃった。しばらくしてナレンはもとの状態にもどった。
言葉はすべて、私たちのうちに生じるある思いや願望の表現である。マントラは人の霊的衝動を表わす。普通の言葉が、聞かれたり話されたりしたとき、その言葉が私たちの内に、ある考えや願望を呼び覚ますことができるように、マントラもまた、私たちの内に潜在する霊的な傾向を呼び覚ますことができる。このような潜在的な霊的傾向の表現は、特定の文化的集団の人々のあいだでは共通しており、それゆえ、おのおのの文化集団がそれ自身の聖なる言葉の象徴、すなわちマントラを持っている。これらは、正しくくり返し唱えられるとき、大部分の人々の場合には通常覆い隠されている、霊的渇仰心を呼び覚ます。ジャパの目的は、人のうちにある、忘れられた霊的傾向を目覚めさせることである。求道者はすべて、彼の理想神(すなわち彼のイシュタデヴァター)、固有のマントラ、および、意識の明確な中心を持たなければならない。彼は常に、彼の意識の中心から離れてはならない。
ジャパ、すなわち神の御名の繰り返しは、さまざまの方法で行うことができる。求道者はそれを、少なくとも自分に聞こえる程度に、声を出して唱えてもよい。それはヴァーチカとよばれる。または彼は、ただ唇を動かすだけで、聞こえないようにもぐもぐと唱えてもよい。このような唱え方はウパームシュとよばれる。第三は、舌と唇には動くことを許さず、心の中でマントラを唱える方法である。この沈黙の唱え方は、マーナシカとよばれる。心の中でのくり返しは、確かに最善の方法であるが、それが難しいと感じる人々は、他の二つの方法を実践すればよい。それよりもっと大切なのは、求道者がジャパを行なっている間中、彼の意識の中心から心をそらさないことである。