瞑想と霊性の生活

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世間の義務と霊性の生涯(2)
 

 私たちの義務として考えられなければならない、もう一つのことがある。私たちは、学生時代をすぎても、少しばかりの勉強は続けるようにしなければならない。勉強やまじめな読書の習慣が突然とまるのは、私たちの心と思考能力の発展にとって非常によくない。多くの人が学校を出たり、年をとったりすると、考える習慣を失う。これはほんとうによくない。散漫な、漠然とした思考ほど危険なものはない。考える習慣を失って、彼らは単なる行動の人となり、考える人ではなくなるのだ。行動と思考の両者は結合され、調和していなければならない。そうでないと、非常に好ましくない結果が生まれるだろう。大部分の人にとって、いったん中断した学習をまたとり上げることは、考える習慣が失われているために、ほとんど不可能であり、成功するごくわずかな人たちでも、おそるべき奮闘と努力の時期を経なければならない。浅い、表面的な読書、軽薄なおしゃべり、無思慮な、見せかけの活動が、彼らの思考能力をまったく台無しにしてしまっているのだ。もし目を開くなら、あなたは私たちの現代世界のなかにそれの結果を見るだろう。高い理想を抱いているでもなく、真理とより高いおきてを理解しているでもない、無考えで熱狂的な活動、人びとがどんなにそれを自慢しても、それは怠惰のための怠惰に比べて、大してすぐれているとは言えない、活動のための活動である。私は何かをつくり出している、と言うだけでは十分ではない。私がつくるものは、良いもの、建設的なものでなくてはならず、破壊的なもの、人間を堕落に向かわせるものであってはならないのだ。

 だから、私たちは、十分に読書する時間は見いだせなくても、まじめに考えることを、毎日の日課としなければならない。もっと高い、建設的な方向に沿った思いに使えるはずの時間が、無益な、有害でさえある思いに不断に浪費されているのだ。一日の中には、非常に多くの、ぼんやりとしている瞬間がある、そしてこのぼんやりしている瞬間こそ、もっと高い思いのために使われるにふさわしい時間である。無益なことを思うかわりに、その時間をもっと高いことのために利用しようではないか。片隅にすわってぼんやりしているかわりに、私たちはそのような瞬間を、もっと高い、もっと真実な思いに費やすことができるのだ。もしほんとうにこれを実行するなら、私たちは、自分の修行、研究、知的な思索のために十分な時間があることに気づくだろう。私たちの思いは決して、漫然と成りゆきに任せてはならない。

 私たちはしばしば、大なり小なり漠然とした気分で三十分ぐらい、ただすわっていたり、軽いものを読んだり、つまらないものにきき言ったりしている。馬鹿者のように、こんなことをしているのだ。ときにはそれを楽しいとさえ感じる。しかし、この三十分が信仰に関する読書かまじめな勉強に、有益なことや健全なことのために使われようとすると、頭脳全体が反乱をおこして抵抗する。

 仏陀の有名な次の言葉を、深く考えることは有益である、「さあ、兄弟たち、どうぞ忘れないでくれ。まじり合ったものはことごとく、朽ち果てる運命にあるのだぞ。常に、用心深くあれ」この忠告は、私たちに現象のはかなさを悟らせることによって、無益な仕事や行き当たりばったりの考え方をしないよう、私たちを大きく助ける。私たちは人生で、常に変化し、無数に形を変えて行くもの、ではなく、不変の「根本原理」を重視するよう、常に心がけるべきである。人の最高の義務は、まさ今生でこの根本原理を悟り、そのうえで、他者もそれを悟るよう助けることである。

 もし、無駄なおしゃべりと無益な仕事や思いに失われている時間に気づいて、それを活用するよう心がけるなら、私たちは、有り余るほどの時間を見いだすであろう。修行によって、私たちは、普通なら二時間の思索を必要とするところを三十分ですませることができるような、集中力を養うことができるのだ。質と量という二つのものがある。もしあなたが量を増やすことができないなら、質――あなたの瞑想、学習の質――を改善せよ。

 すべての人が、祈り、ジャパ、瞑想の時間を持つだけでなく、修行の後には少なくとも十分間、ウパニシャッドのある章句を読む、というような定まった学習の時間を持つことが望ましい。無気力と怠惰は、霊的生活のあらゆる段階における、二つの最大の敵である。また、心身両面の無気力に陥っている多くの人びとがいるが、これは非常に危険である。このような無気力な気分が自分を支配するのを許すなら、私たちは、自分の修行の時間も読書や研究の時間も、まったく見いだせなくなる。そのような気分になると、確かに時間はそこにあるのだが、「見る」ことができなくなるのだ。あまりにものぐさになって時間にさえ気づかなくなるのである。

 感覚の制御は、私たちが深く考えることを、真剣に、目的をもって生きることを、助ける。常に感覚の世界に住まなければならない、などということはない。感覚が制御がされれば、思考の面に留まることがらくになる。常に外界からぶったりけられたりする必要はないではないか。気が散ることがなくなれば、私たちは、もっと真剣な自覚的な生活を送り、あらゆる状況のもとに、できる限り目覚めた状態を保ちつづけることができるであろう。しかし、外界への気散じと世俗の営みという刺激が除かれるとかえって、勉強や修行の時間をますます見いだせなくなり、木石のように鈍くものぐさになる人も、いることはいる。

義務と執着

 私たちは自分の仕事を、一、人びとや事物への執着から、二、義務の感覚から、または三、すべての存在の内にやどる「至高の霊」への信愛から、するであろう。よく、最初の二つは混同されるので、大部分の人びとは、真の義務の感覚を執着から区別することができない。すると、執着を義務として正当化することになる。それゆえ、ある思索家は、「義務は、私たちが自分の執着に対して支払わなければならない罰である」と言っているのだ。これは一見、非常に奇妙な不満足な定義と見えるかもしれないが、それはもっと高い立場から理解されるべきである。仏陀のような人たち、キリストのような人たち、ラーマクリシュナのような人たちはまったく義務を持たない。彼らの場合、そこには愛の奉仕があるだけで、義務はない。彼らの活動には拘束がない。そこには、働きによって何かを得ようとか何かの成果を挙げようとかいう望みはない。完全な人間は、義務も執着もない。彼には、義務として遂行しなければならないものはないのである。彼の行為は単に、拘束感または「私と私のもの」という思いはまったく無い完全な自由のもとになされる、愛の奉仕である。

 義務とは、この小さな私たちのエゴの世界、私たちの肉体意識、私たちの心などに執着したり、しがみついたりすることではなく、従って私は、それがどのような性質のものであれ、執着によってか、または欲望の満足のために行われた仕事を義務と呼ぶことはできないし、義務として扱うこともできない。そのような仕事は、私たちの卑小な性格への執着であり、しがみつきであって、もっと高い意味の義務と自由の、果実ではない。

 真の義務は、感覚の制御中に、無私の中に、愛の奉仕の中に、心の浄化と正しい集中の中に、そしてすべての能力をより高い方に向けて神の道具にふさわしいものとすることの中に成り立つ。純粋になればなるほど私たちは、すべてのものの中に宿る神への愛の奉仕、という形の仕事を、よりよく行なうことができるようになるが、私たちはそれに執着しないよう、注意しなければならない。他はどうであれ、執着には、決して義務という名は与えられない。多くの人びとはいわゆる義務を、粗大なまたは精妙な形の感覚的快楽への執着から、人や物への執着から行なっている。しかしこれは義務ではない。ここで私たちは、何かの形をとっているが実際には根強い自己中心主義にすぎないものと、言葉通りの義務であるものとを、はっきりと見分けることを学ぶ必要がある。

 自分の小さなエゴとその小さな欲望への、さまざまの感覚的快楽と所有物への、過度のしがみつきをすてる覚悟ができていないかぎり、私たちは、もっと高い立場に立つことはできず、従って、「義務とは私たちが自分の執着に対して支払わなければならない罰である」という定義の意味も、理解することはできない。実は、義務は私たちの霊的成長を助けるものである。これは、すべての人に共通の原則と見なされるべきである。自分のさまざまの義務を果たすこと――自分の肉体の必要をみたすこと、または他者を助けること、または主に奉仕すること――が、私たちの霊的進歩をうながすべきなのである。もし私たちが霊的に進歩をしないなら、私たちの仕事に対する態度、または義務の感覚にどこか、まちがったところがあるにちがいない。

 無関心な気分を養おうとする人びともいる。彼らは多分、自分の私的な事柄以外のすべてに無関心である。この無関心は、利己性と怠惰の結果であることが多い。それはタマス的な状態であって、霊的な人の真の離欲と混同してはならない。そのような無気力な怠惰な人びとは、生きているというより死んでいると言ったほうがよい。真の離欲、真の傍観者の態度は、あなたを目覚めさせ、仕事であれ瞑想であれ、すべてのものに熱意を与える。

義務の葛藤

 多くの場合私たちは、自分はなすべき義務を持つ、と考えているが、それは自分の理解を超えたものだと感じている。それは私たちにとってあまりに高すぎるのである。そのような場合には、どうすればよいか。いま果たされつつある義務を助けとし、それを目標に向けての踏み石とせよ。義務にとって、固定的な基準というようなものはない。私たちの成長とともに、義務は常に変化する。子供の義務は青年の義務ではない。青年の義務は老人の義務ではない。家住者の義務は僧の義務ではない。それゆえ、それぞれの場合が、それぞれに判断されるべきである。

 私たちの義務の感覚は、楽しさの感覚と相容れないことが非常に多いが、私たちは、自分の義務感を楽しさの感覚と一致させ、思いとしたいこととを一致させ、そのようにして莫大なエネルギーの消耗を意味する不必要な苦労と心配をさけることを学ばなければならない。

 ときどき私たちは、人生の努めに忙しくて修行をする時間がないと不平を言う。通常、そのような不平には根拠がない。もっと高い生活への真の、誠実で根の深い渇仰心があるなら、あなたは修行と勉強に必要な時間は必ず見いだすであろう。そして、もしあなたが真の渇望を感じているのに、それをしなかったら、あなたは完全に混乱してしまうに違いない。魂がほんの少しでも目覚め始めたなら、それにはどんなことがあっても必ず、栄養が与えられなければならない。そうでないと人格に重大な亀裂が入り、大きな混乱と不安、甚だしい不満足感とバランスの喪失がおこる。そのような場合、魂を飢えつづけさせているかぎり、あなたは決して安心を得ることはできないだろう。

 私たちは、ある日は修行を少し急いで行わなければならず、ある日には、もっとひまがあってもっと注意深く行なうであろう。しかし、もしそれをまったくしないなら、一日中その思いに責められて、心が乱れるだろう。あわただしくであれ、ゆっくりであれ、霊的修行は毎日、着実に、ひたむきに、規則正しく行なわれなければならない。

 霊性の修行と読書のための時間がまったくない、と言うのは本当ではない。もし私が睡眠に六時間を取っているなら、まあ、それを十分間減らすことができよう。そして五分ぐらいを食事の時間から、さらにその他から五分間を、というようにして、私は少なくとも三十分間を、霊性の修行と読書のために確保することができるだろう。そしてたとえ心が乱れていても、たとえ十分に注意を集中することができなくても、たとえ修行が機械的になるとしても、たとえ勉強とか集中とか、思っただけで私の頭脳全体がはげしく抵抗するとしても、これは、どんな状況のもとにあっても、必ずしなければならないことである。そして、これもまた義務である。なぜなら、他者に奉仕する目的でまず自分に奉仕するなら、私は遥かにもっと効果的に、そしてよい気持で彼らに奉仕することができる。もし自分の利益は求めない、正しい精神で他者のために働くことができるなら、私たちはもっとよい形で瞑想をすることができるようになるであろうし、そしてそれがまた私たちが、神への全面的な帰依による、いっそううやうやしい態度で他者のために働くのを助けるであろう。

 仕事に従事しているときでさえジャパをしつづけている人たちもいる。私たちがどのようにして心を制御し、浄化し、正しい方向に沿って発達させるかを知りさえするなら、心は、驚くべき能力を持つようになる。人は無条件に神に帰依しつつ、完全にお任せの態度で仕事を見事に成し遂げることができるのだ。それから、すべての仕事が礼拝であるという時がくる。私たちが祈りに満ちた帰依の気分にある時もまた、仕事は礼拝になる。仕事と帰依心の両者を結合し、しなければならないことを、完全に無私の心で行なうことができるのである。

 

仕事は、もっと高い目標を持たなければならない

 大部分の人びとの生活の中に、何の理想も、より高い目標も、何かのはっきりとした考えもない、無目的の活動が見られる。それは、もうろうとした想念と欲望の海の中を漂流しているにすぎない。一般にそのような人びとが、義務と呼んでいるのは、実は執着以外の何ものでもない。大部分の人びとは、感覚の楽しみへの執着と渇望で忙しがっている。執着の方向に沿い、間違ったことにしがみついている時はいつも、やすやすと活動的になる。私たちは非常にしばしば執着のゆえに、渇望のゆえに、ある仕事を自分の義務と呼んでいる。それはまったく義務ではない。私たちはそれに聞こえのよい高尚な名をつけて満足しているが、それはまったく感覚の楽しみへの執着と渇望である。義務自体は、個人の場合にせよ、集団の場合にせよ、決して、その中に執着やエゴイズムの要素を含んではならない。私たちは決して私的な目的のためではなく、「当然なすべきことである」という感覚で、完全に自己をささげた気持で働かなければならない。

 通常人びとは、粗大または精妙な、彼らの感覚と私的願望の奴隷として働く。しかし、「偉大な人たち」は、一般に理解されている義務感からでも執着からでもなく、彼らのはかりしれない自由の精神をもって働いている。彼らは、自分は主の御手のうちの道具であると完全に悟っていて、すべての行為を、あらゆるものの内にやどる神への愛の奉仕という形で、行なうのである。

 私たちの活動は、自分たちの小さな欲望の領域を越えた目標を持つべきであり、そしてこの目標が、理解されなければならない。私たちの活動は決して、無目的なもの、活動のための活動であってはならないのだ。自分は「活動的」であると誇っている人がたくさんいる。しかしそれはただ、彼らが静かにすわっていることができない、というだけのことなのだ。彼らのは、目的のないサルの活動である。たしかに目まぐるしく動いてはいるが、何のためなのか、誰も知らない。少しも自慢できることではない。そのような人びとは、物質的な面で常に何かをして、何かを見て、または何かを聞いており、もしそれを妨げられると、不幸に感じるのである。彼らはもはや、思いの世界では生きることができないのだ。大部分の人びとは執着と肉体へのしがみつきのみによって、シュリ・ラーマクリシュナが「カーマ・カーンチャナ(女と金)」と呼んでおられたもののために働いているのである。もし、ある人の内に真の義務の感覚が生まれるなら、それはそれでよかろう。しかしそれさえなお、ある種の束縛だ。それよりもっと高い、よいものがある。すなわち、完全な帰依による、すべてのものの内なる神への愛の奉仕である。

 もちろん、理想が高くなればなるほど、それに応じて常に、ある程度の制限も生まれる。より高い理想を抱いた瞬間、私はもはや自由に、無考えにあらゆる種類のいわゆる義務、あらゆる種類の活動に入り込むことはできない。私は盗むことはできない、嘘をつくことはできない。不道徳な行為をすることはできない。性的に不純な生活をすることはできない。下品な、俗悪な振舞をすることはできない。少なくとも、真にまじめで良心的な人びとには、それはできない。破廉恥な人たちは、それらすべてを、いやそれ以上のこともやってのけるだろう。そのように、この点においてもまた、良心的な人は破廉恥な人よりきびしい制限を受ける。しかしこの種の制限は、より高い秩序に属するものである。もし私たちが、真剣にもっと高い理想を持ちこむなら、ある活動と、ある種のいわゆる義務は、その理想と一致しないことを見いだすであろう。そのときには、それらすべては投げ捨てられなければならない。他に方法はないのだ。

 ある妥協をする場合には、私たちは自分が弱いことを語り、そして知るべきである。決して、自分の弱さを正当化したり、ましてそれを義務と名付けるようなことまでもしては、ならない。そして、かりに妥協をするとしても、それは、いつかはすべての妥協を克服するのだ、という思いとともにはじめて、なされるべきである。決して、それを正当化する試みなどをしてはならない。理想は決して、おとしてはならない。

 義務の問題は非常にむずかしい問題である。それゆえ、バガヴァッド・ギーターの中に、賢者でさえ、何が義務で、何が義務でないかについては混乱する、と言われている。前に述べた定義のように、義務とは、私たちを進歩する方向に助けるものであり、義務でないものとは、私たちの進歩を妨げたり遅らせたりするものである――ちょうど、善とは私たちの進化を助けるものであり、悪とは私たちの進化を遅らせたり妨げたりするものである、と言うことができるように。しかし、これらはすべて、非常に緩やかな一般的な定義にすぎない。おのおののケースが、それ自体の、価値に応じて判断されるべきである。そして、常に、より小さなものは、より大きなもののために犠牲に供されなければならない。より低い自己は、より高い「自己」のために犠牲に供せられるべきである。そうすることによって、私たちは、一歩一歩より高い義務へと昇ってゆき、ついには、すべての義務は脱落し、残ったのはただ、完全な帰依と無私の精神による、すべてのものの内なる神への愛の奉仕、という目標に、到達するのである。これが、すべての「偉大な人たち」が支持している理想である。

 

他の人びとを霊的に助けること

 霊的な生活において進歩したら、あなたは他の人たちを霊的に援助するよう努めるべきである。しかしそれは、あなたがすでに得た力の範囲内でせよ。それ以外は、自分が助けたいと思う人びとのために主に祈れ。もしあなたが真剣に誠実に祈るなら、主は彼らにとって最善のことをして下さるだろう。あなたが他者を助けることができるのは、彼らが主、すなわちあなた自身のイシュタデーヴァターと波長があっているかぎりにおいてである。

 自分を助けることができなければ、あなたは、他人を十分に助けることはできない。あなたが乗っている船が転覆しても、もし非常に泳ぎがうまければ、あなたは仲間の一人ぐらいを救うことはできるかもしれない。しかし、彼ら全員を救うことはできない、もしそれをしようとしたら、あなたを含めて全員がおぼれ死ぬだろう。それだからまずはじめに、識別力を用いて冷静に自分の力量をはかり、その限度を知れ。その上で、機会があったら、他者を助けることに努めよ。

 シヴァは、全世界を救うために恐ろしい毒を飲み干した。彼は毒に害されることなしにそれを同化する力を持っていたのだ。もしこの世の毒を除こうとするならあなたはまず、シヴァの驚くべき浄らかさを得なければならない。少量からはじめるがよい。より純粋に、そして霊的に強くなるにつれて、あなたは自分をまったく危険にさらすことなく、より大量の毒を吸収できるようになるであろう。他者のために深く感じて彼らを助けたいと思えば思うほど、あなたは無執着になり、あなたのイシュタデーヴァター、主にもっと近づくようになるであろう。あなた自身と他の人びとのために祈れ。

 何が起こっても、主の真の子供であることを学び、「彼」とあなた自身への不動の信仰を与えてくださるよう、「彼」に祈れ。主をあなたのすべてのすべてとせよ。そのとき、何ものもあなたに影響を及ぼさないであろう。あなたの内なる神「意識」と交流しつづけてさえいれば、いつ、どこにいても、あなたは安全であろう。純粋で、ひたむきで堅固であれ。あなたは必ず目標に達するであろう。

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