瞑想と霊性の生活

目次へ

世間の義務と霊性の生涯(1)

義務とは何か

 私たちはみな、通常義務と呼ばれるさまざまの活動に多忙である。しかも実にしばしば、これらの活動の結果が不安と不幸だけであることを見いだす。もしそれが本当なら、私たちの義務の概念の、どこかに間違いがあるにちがいない。私たちはカルマ、すなわち仕事をしている、しかし通常、その仕事を神を悟るための方法すなわちヨーガに変える仕方を知らないのである。スワミ・ヴィヴェーカーナンダがカルマ・ヨーガについて教えていることを考えてみよう。

「……カルマ・ヨーガは言います。第一にこの利己心なる触手をのばす傾向を破壊せよ。それをくい止める力を得たら、それをうちに引っ込めて、心が利己主義という道に出て行くことを許すな、と。それから、世間に出て行き、できるだけ働くがよろしい。どこででも交際なさい、行きたいところにおいでなさい。あなたは決して、悪に染まることはないでしょう。ハスは水の中に生えますが、水はその葉に触れたりくっついたりすることはできません。あなたも世間でそのようにあられるでしょう。これはヴァイラーギヤ、つまり離欲または無執着と呼ばれるものです。私は無執着なしにはいかなる種類のヨーガの基礎もあり得ない、ということを申し上げたいと思います。無執着はすべてのヨーガの基礎です。家に住むこと、よい衣服を着ること、およびよい食物をたべることをやめて砂漠に行く人が、もっとも執着心の深い人であるかもしれません。彼のたった一つの持ち物である肉体が、彼にとっての一切物となるかもしれないのです。そして生きている間中、彼はただその肉体だけのために、あがき苦しむでしょう。無執着は、われわれが目に見える自分の肉体に関してするすることを指すのではない。それはすべての心の中にあるものです。「私と私のもの」というくさりは心の中にあります。もしこのくさりで肉体と、そして感覚の対象とがつながっていなければ、われわれはどこにいようと、無執着です。ある人は、王座にすわっていてしかも完全に無執着であるかもしれません。もうひとりはぼろをまとっていてしかも大変に執着しているかもしれません。まず第一に、われわれはこの無執着の境地を獲得しなければなりません。それから絶え間なく働かなければならないのです。カルマ・ヨーガはわれわれに、すべての執着をすてることを助ける方法を教えます――それは実に非常にむずかしい道ではありますが」。(協会訳、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ「カルマ・ヨーガ」、一七五頁)

 では義務という言葉で私たちは何を意味しているのか。義務(duty)と恩義(obligation)という二つの言葉のうち、恩義という言葉は、身近な者への直接的な拘束義務と特殊な人間関係を示唆している。たとえば、人は、寡婦となった年老いた母親に対し、彼女を扶養するだけの恩義がある。一方、義務とは、通常、身近な直接的な環境からの強制力という点では、より弱いが、道徳的なあるいは倫理的な根拠に基づく強い強制力を伴っているように思われる。英国の詩人ワーズワースは、義務を「神の声の厳格な娘」と名づけている。私たちは、自分がときには義務と私欲との葛藤に引き裂かれることもあるのを知っている。いずれにせよ、私たちのような悟っていない魂にとっては、義務とは、自分に対するある束縛と強制である。

 悟った魂の場合はちがう。神の化身シュリ・クリシュナは、バガヴァド・ギーターの中で、私たちに次のように言っている。「私は義務を持たない、すべての世界の中で、私が未だ得ていないものはなく、また得なければならない者もない、しかしそれでも、私は働きつづける」と。神の化身たちや悟った魂たちは自由の精神で、苦しんでいる人類への愛から働くのだ。神人の内部には欲望の葛藤がなく、それゆえ、義務の葛藤もない。彼はもの事をするのにただ一つの途しか持たず、それは神に向かう途である。無知のゆえに、私たちは義務の性質についてもそれの果たし方についてもしばしば混乱するのである。

義務と利己性

 どんなにはっきりとスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、私たちのいわゆる義務感がしばしば病的になっていることを、指摘していることか!

「義務がわれわれの病気になるのです。それはわれわれを絶えず引きずって行きます。われわれをつかまえて、われわれの全生涯を不幸にします。それは、人間の生活の中の毒物です。この義務、この義務の観念は、人類の魂の奥を焼き焦がす、真夏のまひるの太陽です。あの哀れな義務の奴隷たちを見てごらんなさい。義務は彼らに、お祈りをとなえる時間も沐浴する時間も残しておいてやりません! 義務は、常に彼らの上にあるのです! 彼らは出かけ、そして働きます。義務が彼らの上にあります! 彼らは家に帰り、次の日の仕事のことを考えます。義務が彼らの上にあるからです! それは奴隷の生活を生きることであって、ついには路上に倒れ、馬のように手綱をかけられたまま死ぬのです。これは普通に考えられている義務です。たった一つの真の義務は、無執着であって自由な人間として働き、すべての働きを神にささげる、というものであるべきです」(協会訳、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ「カルマ・ヨーガ」一八〇頁)

 私たちは義務の奴隷となって、自分の全生涯をみじめなものにしている。自分の義務はどこにあり、それを果たすにはどうすればよいのかを、もっと正しく理解しなければならない。どんなにたびたび私たちは、私たちが自分の問題の解決法も会得していないのに、愛からではなく、自己満足のために、他人を助けようとしているのを見いだすことだろう! 確かに、熱心に他者に奉仕する無私の魂たちもいる、しかし、私たちの先輩のスワミのひとりがかつて「神の大きな精神病院」と名づけたこの奇妙な世界には、自分が人生に挫折しているために、または身近にある平凡な仕事をしたくないために、絶えず他人に自分をおしつけて自分の虚栄心を満足させようとする世話やきがいるものだ。そのような自己中心的な人たちは、「彼らは私の愛の奉仕を必要としているのだ」と主張する。私たち人間は自己愛にみちているものだから、自分が他人を嫌っていると同じように他人もまた自分を嫌っているだろうとは想像することができない。あるときある心理学者がこのことを少女たちのあるグループに教えた。すると彼女たちは非常に驚いたという。自己愛は、自分が心底から嫌われることがあるという思いを、容易には認めないからである。

 別のタイプの、自己中心的な人びとがいる。彼らは他人を幸福にすることに熱心すぎて、祈りや瞑想のひまがないように見える。彼らは、ひととき、彼らのうぬぼれを満足させるクラブやブリッジ・パーティ、社交、夕食会、政治的問題の委員会などに参加して世を救うことに熱心であるが、もの珍しさがすり切れてくるか、おしゃべりや活動が下り坂になってくるとたちまち惨めになり、不満を感じるのだ。スワミ・ヴィヴェーカーナンダははっきりとこう言っている。

「奴隷状態を義務と受け取るのは――肉の肉への病気的な執着を義務と解釈するのは――何とやさしいことでしょう! 人びとは世間に出て、金またはその他の、彼らの執着の対象を得るためにもがき、たたかいます。なぜそれをするのか、と彼らに尋ねてごらんなさい。彼らは言います、「これは義務です」と。それは、金と利得へのばかげた貪欲なのですが、彼らはそれを少しばかりの花で飾ろうと努めるのです」(同上)

 利己主義を花々で覆い隠したとて、放棄の精神で真の義務を果たし、それを霊性の生活全体の一部とする事などできるものではない。自己中心的な「義務」は、私たちに多くの問題をもたらし、新しい束縛を作り出すであろう。

エゴのさまざまの面

 人間は、実にさまざまの因子の奇妙な組み合わせである。ウィリアム・ジェームズによると、多くの人びとはそれぞれ、幾つかの自分を持っていると言う。その意見が自分にとって気になるような人びとの幾つかのグループ、そのグループの数だけの自分である。私たちは、二重の、それどころか多重の人格を持っている。会社の中で一個の自分である。教会の中ではもう一つの自分、さらに家庭の中の自分もいる。私的生活では喜んですることも、公の場ではすることをためらう。さまざまの自分が、ときには、互いにまったく矛盾し、そのために、非常な混乱に陥る。次のような話がある。ある雑貨商人とその家族は、いつも日曜日に商売をしていたが、信仰復興運動の会に参加して、回心して日曜日には商売をしなくなった。回心した翌日の日曜日、近所の子供が牛乳を買いにその店の戸をノックした。すると雑貨商人の小さな娘は、二階の窓から身を乗り出して、言った、「あなたは私たちが先週回心したのを知らないのね。もし日曜日にミルクを買いたかったら、裏口にまわらなければだめよ」と。

 しかし、このような仕方でみずからを欺いているのは、このような無知な人たちばかりではない。非常に地位の高い人びとも、しばしば二重の生活を送っている。ドイツのケルンの選帝候で大司教でもあった人の話がある。ある日彼は、ひとりの農夫の面前で、神を冒涜する言葉を使った。農夫は驚きを隠すことができなかった。彼は弁解しようとして、こう言った、「おお、いま私は、大司教としてではなく、一王族として罵っているのだぞ」と。それに対して、聡明なその農夫は言った、「しかし、殿下、その王族が地獄に行ったとき、大司教の方はどうなるのでしょうか」と。

 もし公私二つの生活を区別して反対の行動規範に従うなら、私たちは、心の不安と二重の束縛という形で、非常に重い罰金を払わなければならないのだ、ということをおぼえておかなければならない。確かに、自分自身の生活の中に、地獄を作って一連の悪い結果を招いているのは、私たちなのである。

 真の義務があるように、偽りの義務もある。人生で、どちらの行為が正しくまた間違っているかを判断するのは必ずしも容易ではない。法律によれば、平和時に、人を殺すことは悪であるが、戦時には、特に、入隊したときには、できるだけ多くの敵を殺すことが、すべての人の義務となる。ヒンドゥの宗教によれば、牛は母性の象徴になっているから、牛を殺すことは悪であるが、ムスリムにとっては、あるお祭りのお祝いに牛を殺すのは賞賛に値することである。また、ヒンドゥは、義務として常にアヒムサすなわち不殺生を実行している一方、ムスリムは、かつては「異教徒」を殺すことが賞賛されていた。そして、中世の時代においては、キリスト教の宗教裁判の裁判長は、母なる教会のために異教徒を火刑に処することを彼らの義務と考えていた。このようにさまざまな義務また義務が存在する。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは次のように断言している。

「義務に客観的な定義を与えることは、こういうわけで完全に不可能です。それでも、主観的な側から見た義務があります。どんな行為であれ、われわれを神に近づかせる行為は良い行為であり、われわれの義務です。どんな行為であれ、われわれを堕落させる行為は悪い行為であり、われわれの義務ではありません」(同前八八頁)

 偉大なヒンドゥの哲学者ラーマーヌジャによれば、魂を成長させる方向に導くものは善であり、魂を萎縮させる方向に導くものが悪である。

ヒンドゥイズムにおける義務の概念

――ヴァルナーシュラマ・ダルマ

 ヒンドゥの宗教は、それぞれが特定の義務を持つ、四つの社会階級を制定している。すなわち霊的な人、軍人、商人、および労働者である。これらの階級のおのおのに、また、個人の成長段階に応じた特有の義務がある。学生としての義務、家住者としての義務、社会活動から引退した者としての義務、そして出家者としての義務である。古代のヒンドゥ文化の中では、これらの生活態度はすべてはっきりと、厳しく定められていた。しかし現代になって、西洋流の社会的政治的思想や技術が、これらすべてを完全に変えてしまった。今日では、権利と義務が混乱しており、自分がどこに所属しどのような義務を負うているのかを知らない人たちがふえるばかりである。ヒンドゥの教えによれば、各人が、彼のダルマ、すなわちその人を上の方向へと歩ませる彼にとっての正義の道、を持っている。「ダルマ」とは、人の生活全体を、個人および社会全体としてみずからを現わしている深い宇宙のリズムに統合させることに役立つ、包括的な存在のおきてである。霊と、無数の現われとの間には統一があるのだ。

 バガヴァド・ギーターおよびその他の聖典の偉大な教えは、社会の一部分としての個人はまた、不可分の宇宙全体の一部でもある、というものである。古代のヒンドゥの聖典の中に、その口の中からブラーミン、つまり欲情を制御し、知識と正義と浄らかさをそなえた霊的な人を生み出す、強力な「存在」の象徴が出てくる。「彼」の腕からは武士が、その腰からは食物と人の生活に必要な手段とを提供するのを義務とする商人と農民が、その足からは、この世の骨の折れる仕事をする労働者が生まれるのだ。社会のそれぞれの階級はすべて、人間の体の各部分にように、全体にとってのなくてはならない一部である。学生と家住者の段階を終えた後には、隠遁の生活の期間があり、そして多分、あらゆる執着から解放されてひとりで瞑想する世捨て人の生活のためのさらなる期間がある。

 もし人生のすべての段階にある各人が、根底にひそむ宇宙のリズムに統合されているなら、その人は彼自身の幸福ばかりでなく、周囲のすべての人の福祉をも増進するだろう。それが、私たちのおのおのにとっての最高の義務である。宇宙的「存在」は、しばしば、「絶対なる単一」のさまざまの現われを私たちに思い起こさせるように、無数の手足として表現される。各人は、世界という舞台の上の俳優であって、自分自身の役割をできるだけうまく演じることを学ぶべきである。二人が同じ役を演じる、ということはあり得ないのだ。

 アメリカの独立宣言は、「すべての人間は平等であるように創造されている」と言う。さて私たちはみな、外面生活でも、内面生活でも、二人の同じ人はいない、ということを知っている。それにどうして、彼らが平等であり得ようか。それに対してヴェーダーンタは答える、「同じ霊がすべてのものの中に宿っている。しかし心理的、肉体的能力と性質に関しては、人は平等ではなく互いに大きく異なっている」と。霊的な面では同一であり平等であるが、その他の面で無限の多様性があるのである。

 偉大な学者にして博愛主義者イシュワル・チャンドラ・ヴィッダシャーゴルは、あるときシュリ・ラーマクリシュナに、「神はある人には、多くの力を、ある人にはより少ない力をお与えになったのですか」とたずねた。師はそれに対して次のように答えられた。

「一切所に遍在する霊として、彼はすべての生きもののなかに、アリのなかにさえも、宿っていらっしゃる。しかし、彼の力の現われ方は生きものによって違います。そうでなければどうして、ある者は十人の敵を敗走させ、他の者はひとりの敵に立ち向かうこともできないなどということがあり得ましょう。また、なぜすべての人があなたを尊敬するのですか。あなたが二本の角を生やしているとでもいうのですか。(笑い)あなたは他者よりも多くの慈悲心と学識とを持っておられる。それだから人びとがあなたを尊敬し、そして敬意を表しにやってくるのですよ。なるほどとは思いませんか」(協会訳「ラーマクリシュナの福音」)

 ヒンドゥの見解は、各人が事態をありのままに受け入れ、自分の能力を知り、自分の存在の真理を見いだして、それからみずからの成長の法則、すなわちみずからのスヴァダルマに従え、と教えている。その時に初めて、自分自身および社会に対する義務がはっきりとわかるであろう。ある若い家住者がシュリ・ラーマクリシュナのところにきて、自分は世を放棄してサンニヤーシンになる決心をしたと言った。師は、彼を、家族のもとに帰るように諭した。「おお、義父が彼らの面倒を見るでしょう」と、出家気取りの彼は答えた。「お前は道義心を持っていないのか」とシュリ・ラーマクリシュナは言い、彼を叱ったのち、仕事を見つけて家族を養え、と命じた。各人の、普通の生活のあらゆる段階のためにダルマがあり、もっとも平凡な生活でさえ、宇宙のリズムにあづかっているのだ。正しい方法で人生の義務を果たすことによって、それぞれが霊的に進歩しなければならない。そこに職業または身分の優劣貴賎の問題はない。すべての人が霊性の完成を目指さなければならない。これが、バガヴァド・ギーターの中心的なメッセージであり、次のような詩節で明瞭に述べられている。

人は彼の仕事を通じて主を礼拝することにより、最高の霊的完成に達する。すべての仕事は主から発し、主はすべてのものに浸透している。

 私たちの前には二つの道がある。第一は、合法的な世俗的成功および楽しみへの道である。この道を節度をもって歩みつづけると、おのずから第二の道へと昇るようになる。第二の道は神を悟り、あらゆる束縛から解放される道である。人は、彼の能力に応じてこのどちらの道を選んでもよい。何としても避けるべきは、情欲と偽りと貪欲に満ちたアダルマすなわち不正義の道である。もし世間の活動から物質的繁栄が生まれたなら、それを他者にもわかち与え、自他ともどもの霊的福祉の増進に役立たせるべきである。

家住者の義務

 ヒンドゥの社会生活の体制の中では、家住者は、社会の大黒柱と見なされている。子供たちは、一般社会の福祉と安全に貢献するように教育されなければならない。マヌ・シュムリティに次のように書かれている。「すべての生きものが空気に頼って生きているように、人生の他の段階に属する人びとはすべて、家住者に頼って生きている」と。

 しかし、家住者の生活とは、感覚的快楽に屈する生活ではない。シュリ・クリシュナの、彼の弟子ウッダヴァへの忠告の中で、この点がくり返し強調されている。

家住者は常に、理想的な善は快楽の内にではなく、個人の生活が宇宙全体の一部となるときの、知識の獲得の内にある、ということを、おぼえていなければならない。信者は、家住者としての義務を通して神なる「霊」を礼拝した後、完全に霊的な修行に没頭し彼のハートを浄化するために、森の中に隠遁してよろしい」(バーガヴァタム、一一・一七・五二・五五)

 ヒンドゥの聖典によれば、家住者は果たすべき五種類の義務を持つ。それらは、一、神々の礼拝、二、聖典の研究、三、同胞を助けること、四、先祖への供養、五、動物を保護すること。これらの義務はパンチャ・マハー・ヤギヤ(偉大な五つの犠牲的行為)と名づけられている。そしてこれらすべての義務は、厄介な仕事としてではなく、奉仕の精神で、礼拝の精神で、行われなければならない。このような精神で義務を果たすなら、義務は束縛にはならない。反対に、義務は、霊性の生活を助ける。ヴェーダーンタは、義務と奉仕と礼拝を統合することを目的としている。活動が私たちの霊的生活と結びつけられないなら、それは義務とは言えない。もし、ある仕事があなたを神から引き離すと思われたら、あなたはその仕事をしてはならない。どんな種類の仕事も、私たちをますます神に近づけてくれるようでなくてはならない。シュリ・クリシュナはバーガヴァタムの中で、ウッダーヴァに、次のように教えている。

「私」を至高の「目標」であると知り、自分の義務の遂行を通じて不断に、着実に「私」を礼拝する者、そのような者は知識と悟りを授けられ、速やかに「私の存在」に達する。いかなる義務も、「私」への帰依とともに遂行されるなら、解脱へと導く。これが祝福を得る方法である。(ブリハダーラニヤカ・ウパニシャド一・四・一六とサタパタ・ブラフマナ一・七・二・六)

人の彼自身への義務

 右に述べた五種類のほかにさらに、各人が彼自身――彼のより高い「自己」――への義務を持つ。すべての魂は、「宇宙霊」の部分であるのだから、彼が彼のより高い「自己」への義務を果たすとき、彼はすべての義務をも果たしていることになる。人のより高い「自己」は、みずからを現わし、発展させることを待ち望んでいるのだが、彼のより低い自己すなわちエゴによって絶えず、その顕現が阻まれているのである。日常生活の騒音と雑踏、感覚の快楽への向こう見ずな突進の中で、人は内なる「静かな声」、彼の魂の叫びを無視する。その結果、彼がすることは何でも、最終的には不満と葛藤の原因となってしまうのだ。いわゆる同胞への奉仕さえ、彼には疲労と不満感しかのこさない。私たちの義務はすべて、自分のより高い「自己」の展開を、不可欠の目的として持っていなければならない。それではじめて、人生が有意義なものになるのである。

 大きな問題は、人びとが厳しいサーダナーを実践することもなく、主の御手の内の浄らかな道具にもならないうちに、霊性の教師になりたがることである。主は、人間のからだという聖堂の中に住んでおられるのだ。私たちは第一に、自分が主を知るようになり、自分の問題を解決することができ、そしてそれから、他者をたすけるべきである。私たちは、自分がそこにいる、というまさにそのことによって、他者に気づかれることなく「真理」を放射し、沈黙の内に、彼らを助けることができるのだ。自分がどんな霊的経験も得ていないのに他者を霊的に助けようと思ったり言ったりするのは、まったく不合理なことである。ひとたび、真の浄らかさと無執着とを内に育てたなら、あなたはもう、世俗にまじることはないし、世間もまた、あなたの心と神経に影響を及ぼすことはない。その時にはじめて、自分は主の御手のうちの道具にすぎない、ということを悟って、他者を助けることについて話すことができるのである。

目次へ


| HOME | TOP |
(c) Nippon Vedanta Kyokai