瞑想と霊性の生活

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神についてのさまざまの考え方(1)
 

絶対者をさがし求めて

 まさに人間の文明がはじまったとき以来、人は、宇宙の神秘を理解しようと努力してきた。一方では、複雑なさまざまの領域に分けられ、無数の生きものが存在する、あるがままの自然を、研究しようとしてきた。他方では、宇宙の起源を見いだそうと努力しつづけてきたのである。シュウェターシュワタラ・ウパニシャッドはこのような、太古以来の人間の心の問いかけではじまっている。

 ブラフマンを(すなわちヴェーダを)

     学ぶ人びとは論じる、

 原因は何か? (それは)ブラフマンか?

     どこから、われわれは生まれたのか?

 なぜ、われわれは生きているのか?

     ついにはどこにいこうのか?

 誰の命令によって、ブラフマンを知るわれわれが、

  幸不幸のおきてにしたがわなければならないのか? (シュウェターシュワタラ・ウパニシャッド、1・1)

 それにつづく詩節には、これらの問いを互いに問うている賢者たちが、宇宙のあり得る原因について論じる。彼らは試みに、時間、自然、法、偶然、物質、エネルギー、心、およびエゴを原因として取り上げるが、これらのいずれもが他の何ものかに依存せざるを得ないのだから、これらのどれ一つも、またこれらのいかなる組み合わせも、宇宙の原因ではあり得ない、ということを知る。このような究極的な問いの解答は推論だけでは得られない、ということを知ったのち、つぎに賢者たちが実践したのは瞑想であった。彼らはふかい瞑想の中で、あらゆるものの内部のみずから光りかがやく力であり、時間からエゴにいたるすべてのはたらきを統括する、ブラフマンという不変の、至高の存在をさとった(同上1・3)

 この至高の存在の本質は何か? ヴェーダの時代のごく初期にすでに、ヒンドゥの賢者たちはこの主題を思索していたことを私たちは見いだす。リグ・ヴェーダの有名なナーサディーヤ・スークタ(「無はなかりき」賛歌)は次のように言う、

 非存在もなければ存在もなかった、

  この世界もなければ、それをこえた天空もなかった。

 何が、どこを、おおっていたのか?

    また、何が避難所を与えていたのか?

 そのとき、死もなければ不死もなく、

    昼と夜のきざしさえなかった。

 かの唯一の呼吸をせぬものがおのずから呼吸をし、

    他に何もなかった。

 やみがそこにあり、最初はやみにかくされて、

    いっさいのものが未分化の存在であった。

 そのとき存在していたものはすべて無であり、

    無形であり、タパスによって、単一が生まれた。

 右に引用した詩節は、ブラフマンが創造以前に存在していたときの非二元の性質をえがいている。純粋な絶対の存在という概念さえ、非二元の実在を限定することになる。それだから後には、ウパニシャッドの中で、究極の実在は、「これにあらず」、「これにあらず」というような言い方であらわされているのが見られるのだ。

 サーンキヤ哲学というもう一つの哲学の学派は、それとはことなる実在の概念を持っていた。サーンキヤ哲学はヒンドゥの非常に古い哲学体系の一つであり、おそらくもっとも古い哲学であろう。それは他のすべての哲学体系に影響をおよぼした。その心理学はヒンドゥイズムのほとんどすべての学派によってとり入れられている。サーンキヤ哲学の根本のカテゴリーはプルシャとプラクリティの二つである。プルシャは霊であり、プラクリティは、心と感覚をふくむあらゆる物質的なものの究極の根源である。生きているものと同じ数のプルシャが存在する。プルシャはヴェーダーンタのジーヴァ(個別の自己)に相当する。いずれの哲学体系でも、自己の真の性質は無限にして永遠なる純粋意識であるが、無知のために自分は心とからだであると思いこみ、くりかえしくりかえし生物として生まれかわるのだ、とされている。ヴェーダーンタの中の非二元論学派には、サーンキヤ哲学のプラクリティにほぼ相当する宇宙的な無知、すなわちマーヤーという概念がある。両学派とも、自己と非自己の識別にもとづいた知識のみが、ジーヴァをその束縛から解放する手段であると考えている。サーンキヤ哲学とヴェーダーンタ哲学の間には共通する点が多い。

 しかしヴェーダーンタは、絶対の存在・知識・至福という性質の、ブラフマンと呼ばれる究極実在の概念を持っている。それが、魂たちおよび物質的対象としてみずからをあらわすのだ。またサーンキヤ哲学には、ヴェーダーンタのような至高の存在すなわちイシュワラという概念がない。個別のたましいはすべて同一のカテゴリーに入れられ、たとえサーンキヤ哲学のヨーガ体系の中でイシュワラという名が出てきたとしても、それは、常に自由にしてすべての教師の教師である一個の特別なタイプのプルシャを意味しているにすぎない。彼は創造者ではない。パタンジャリは、このようなイシュワラへの信仰と帰依によって人は直接にサマーディに到達すると言う。宇宙の創造と破壊は、プラクリティの中で永遠に進行するのだ。ヴェーダーンタでは、ブラフマーあるいはヒラニヤガルバとよばれる宇宙の創造者の地位は、至高の統治者であるイシュワラよりもひくい。スワミ・ヴィヴェーカーナンダによれば、イシュワラは、人による、絶対者の最高の読みである。

 ヴェーダーンタのもう一つの特徴は、ヴィシュヌ、シヴァ、またはデーヴィという神々を最高神、すなわちイシュワラと同じものと見ることである。神の化身たちもまたしばしばイシュワラと同じであるとされる。バーガヴァタムは、シュリ・クリシュナを神の化身の一人とみなすことを強く拒否する、彼は最高神そのものなのであるから。

 このような、神の化身と至高の存在との同一視は、バガヴァッド・ギーターの次の詩節にも見いだされる。

 「世界には二つのプルシャがある、すなわち死滅するものと不滅のものとである。あらゆる存在は死滅するものであり、クータシュタ(シャンカラによれば、それはマーヤー、すなわち根源的無知である)は不滅のものとよばれている。しかしそのほか 

に、もう一つの別のものがある、すなわち三つの世界にあまねく浸透し、それをささえている、最高位の自己である不変の主がいる。私は、死滅するものをこえ、不滅のものさえ超越しているので、世界でも聖典でも、プルショッタマ(至高霊)として賛美されている。(ギーター十五章十六ー十八)

霊性の生活における人格神の位置

 神的人格の中に、信者は有限なものと無限なものとのつながりを見いだす。はじめに彼は人格のすばらしい魅力に引き寄せられ、それを通して次第に、無限なものをさとるのである。

 私たちには、感情を集中させる何ものかが必要である。それ故、もしある神聖な形、特定の神的人格に魅力を感じなければ、私たちはおのずから崇拝する人物をとり上げてそれをしたうようになる。しかし、最初はこれらの偉大な存在の人間的な面に魅惑させられるが、やがて彼らの中に神を見いだすようになる。ここに、化身崇拝の必要がひそんでいるのだ。建物を建てようとするなら、あるモデルが必要である。これらの神人の場合、彼らのからだと心はまるでガラスの容器のようであって、それを通して宇宙霊がかがやきあらわれているのを私たちは知る。それにくらべれば、私たちの体と心はせいぜい鉄の容器である。私たちの仕事は、この鉄の容器をガラスの容器に変えることである。神人は彼らの超人的な霊的努力によって、鉄の容器をガラスの容器に変える方法を教えているのだ。これらの神人でさえ、規則正しい修行と修養によって心と体を鍛錬しなければならなかった。彼らもまた、彼らの道具を完成させなければならなかったのだ。プゥラーナ(神話)の中でこれらの神人たちは、人格と根本原理とがみごとにとけあったものとして描かれている。彼らにあっては、意識を通して超意識が顕現されている、もし私たちが彼らの人間的な面に魅惑されるなら、やがてその神的な面に触れるようになるであろう。

 徹底したアドワイティン(非二元論者)でさえ私たちのために、私たちが現在の境地のままで理解し得るような思想を、提供しようとしている。彼はよろこんで私たちの手をとり、私たちを次第により高い真理に導こうとしているのだ。偶像崇拝は人々が、成長するために必ず通りすぎなければならない一つの段階である。もし人々が彼らの感情と情緒を集中させる何らかの神聖な偶像を取り上げないなら、彼らは何かの恐ろしい生きた人間の偶像、男の人形か、女の人形を取り上げて、それを崇拝し、その奴隷になってしまうであろう。

 どちらの偶像が望ましいであろうか、血のかよう肉体をもったふつうの偶像と、もっと高い理想をあらわしている神像とでは。人間の偶像には、あなたは高い理想は見いだせないであろう。またもしあなたが抽象的なものを努力して考えようとつとめても、抽象は抽象のままでいるが、生身の偶像、男の人形や女の人形は私たちのすべての注意をひき、私たちにとって真にリアルなものとなり、ほかの一切のことがおのずからおこってくるだろう。私たちが自分の内に、自分の人格とは別の、自分の姿とはべつの神を思うことができればできただけ、私たちは他の人びとの内にも、彼らの形とは別の神の存在を思うことができるだろう。そうなれば、われわれは安全である。そうなれば決して男の偶像の奴隷にも、女の偶像の奴隷にもならないであろうから。

 人びとが探求する神的存在の性質の概念は、彼ら自身の知識の成長にともなって変化する。シュリ・ラーマクリシュナは次のように語られた、「信者には三つの種類がある。一番低い人は、『神はあそこにおられる』と言って天を指す。中位の信者は、『神は内なる支配者としてハートにやどっておられる』と言う。しかし最高の信者は言うのだ、『神のみが、あらゆるものになっておられるのだ。われわれが知覚するすべてのものは、神のさまざまのの姿である』と」(協会訳、「シュリ・ラーマクリシュナの福音」374頁)さらに彼は神の人格的な面と超人格的な面との関係を次のようにあきらかにしておられる。「絶対の存在―知識―至福なるブラフマンを、はてのない海として考えてみよ。バクタの愛の、いわば冷却力によって水があちこちで凍り、氷のかたまりができているのである。言葉をかえれば、神はときどき彼を、愛する者たちのためにさまざまの形をおとりになり、彼らに向かってご自分を人格としてお示しになるのだ。しかし、知識という太陽がのぼると、氷のかたまりは溶けてしまう。そのときには人はもう、神を一人格であるとは感じないし、神の形も見ない」(同前、85頁)

古代インドにおける神の概念の変遷

 ヒンドゥの聖典を研究していると、私たちは最高神のさまざまの概念にであう。ある信者たちは、彼は形と属性の両方を持っておられる、と言う。彼らは、彼と人格的な関係を持ちたいとねがう。また別の信者たちは、彼は無限の力と知識とそのほかのさまざまの特質をそなえておられると言い、彼は無形なのであるけれど、さまざまの形をとられるのだ、と考えている。彼らは人格的な面に注目はするけれど、特に超人格的な面を重視し、人格的な面は一つのあらわれにすぎない、とする。

 霊性の生活の初期には、大部分の信者たちは、神を人の形と感情に結びつけ、彼は自分の外におられる、と考えざるを得ない。ときどき信者たちは、誠実な信仰によって心がきよめられた結果、長い間そとにあるものとして礼拝してきたのと同じ神のヴィジョンを、内に見ることがある。そのとき彼は、彼を内在の霊として、「耳の耳、心の心、生命の生命」(ケナ・ウパニシャッド、一、二)としてさとるのである。つぎに、彼は、彼が火の中に、水の中に、木の中に、全宇宙に遍満する、また女に、男に、青年に、乙女に、杖をつく老人になっており、さまざまの形に生まれている、唯一の神であることを知る(シュウェターシュワタラ・ウパニシャッド、九・一)。彼にとって、神は今やあらゆる生きものと物に内在する根本原理である。彼は神々の神であるばかりでなく、すべてのものの真の自己、不変の生命でもある。さらに進むと、見神者は、彼がことばと思いをこえた超越的な実体であることを知る(タイッティリヤ・ウパニシャッド、七)。目に見えず、…………それを表現する言葉はなく、思うこともできず、定義不可能、自己のみから成る、意識そのものなる存在である。平安、最高の至福であって、非二元の存在である(マーンドゥキヤ・ウパニシャッド、7)。

 ヴェーダのリシたちは、雷神、すなわち雨を恵むインドラ、太陽の軌道をつかさどる神、ミトラ、あざやかな青空の中に住み、悔いあらためたものを罪から解放するヴァルナ、火の神であり、時に父として、また兄弟として、親族として、友人として語られる神アグニ、などを礼拝した(リグ・ヴェーダ、一、1・9)。信者たちの理解力を正しくみちびくよう、この世界での生活と活動をはげます太陽の神、サーヴィトリが祈りむかえられた。あの、霊性の自覚のごく初期においてさえ、ヴェーダのリシたちのある人たちがあらゆる自然現象の背後に内在の霊の存在をみとめていたというのは、おどろくべき事実であった。そして、おのおのの神がつぎつぎに、全知、全能の、しかも遍在の神として礼拝されているのだから、一見、多神論的な概念の背後に一神論の思想がかくされていたことはあきらかである。このことは、次のように宣言する、よく知られた賛歌からもあきらかである。「ひとつであるものに、聖者たちはさまざまの名を与える。彼らは彼をアグニ、ヤマ、マータリシュヴァンと呼ぶ(リグ・ヴェーダ)

 リグ・ヴェーダの時代ののち、ヒンドゥイズムの中で、特に礼拝と祈りに用いられる象徴と名前に、革命がおこった。かつてあまり重要でなかった名が、後の時代には重要になり、また新しい神の名もパンテオン(万神殿)に加えられた。さらにもっとのちになると、シヴァ、ヴィシュヌ、およびデヴィの崇拝、そしてラーマとクリシュナのような神の化身たちの崇拝が民間にひろまって来た。しかしこれらのおどろくべき変化のただ中でも、ヒンドゥの信仰者の至高の神の概念、最高の霊性へ向けての彼の希望と渇仰心、神のたすけとみちびきをもとめる願望、および霊的交流へのあこがれはすこしも変わらなかった。時がたつにしたがって、超人格的な根本原理は、神のすべての人格的あらわれの背景となっており、さまざまの象徴を通して礼拝されるすべての神的人格の源であるのだ、ということがますますはっきりとみとめられてきた。実に、アドワイタ(非二元論的)ヴェーダーンタによれば、人がどのような象徴をとり上げようと、どのような人格神の礼拝からはじめようと、霊性の生活の最高目標は、超人格的存在、第二なるものなき一者の究極的な経験にあり、そこでは、礼拝者は、無限者の中にとけこんでそれと一つになる。その最高の経験の中では、人と神との間の、また神と世界との間の、すべての区別はなくなり、第二なるものなき一者だけがのこるのである。

 右の経験にもとづいて、民衆的なヒンドゥイズムの中には非自己を否定して自己を強調するいくつかの一元論的な瞑想法がある。シャンカラーチャリャは彼の「ニルヴァーナに関する六連の詩」の中で次のように言っている。

 「私は心でも知性でもない、記憶でもエゴでもない。

私は聴覚でも、味覚でも、嗅覚でも、視覚でもない。私はエーテルでも、大地でも、火でも、空気でもない。私は絶対の知識であり至福である。私はあらゆるものに遍満する自己である、私はあらゆるものに遍満する`自己である」(シャンカラーチャリャ、ニルヴァーナ・サットカム、七)

 「私は不確定の、不変の、無形の、あらゆるものに遍満する、遍在のものである。私はすべての感覚的執着のとどかないところにいる。かつて束縛されたことがないから、自由でさえもない。私はすべての相対的な知識をこえている。私はすべてに遍満する自己である。私はすべてに遍満する自己である」(同右の六)

 この種の瞑想は、不変のものを瞑想したウパニシャッドの見神者たちの中でも最とも大胆な人々がおこなった、次のような実在への近づき方と一致する。

 「それは粗大でも精妙でもなく、みじかくも、長くもない、……目もなければ耳もない、声帯もなければ心もない、内もなければ外もない……(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド、三、八、八)この不変のものは決して見られず、目撃者である。……それは決して考えられず、思う者である。それは決して知られず、知る者である。(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド、三、七、二三)」

 絶対の超越的実在、第二なるものなき一者、というこの崇高な概念の上に、古代インドには、無数の形でみずからをあらわすけれど、しかも無限、かつ無形でありつづける、内在の超人格神的原理、という観念が発達した。これが後に、限定非二元論とよばれるようになったのである。多くの求道者は、神の人格的な面に関心がないので、このような神的原理を崇拝することを好む。ウパニシャッドそれ自体があらゆる被造物に内在する神の瞑想を説いているのだ。

 「彼は下にいる、彼は上にいる、彼はうしろにいる、彼は前にいる、彼は南にいる、彼は北にいる、実に彼はいたるところに、そしてあらゆるもの中にいる。」(チハーンドギヤ・ウパニシャッド、七、二五、一)

 彼はもっとも精妙なものより精妙、もっとも広大なものより広大、すべての生きもののハートにやどる自己である。」(カタ・ウパニシャッド、一、二、二〇)

 彼は大地の、空気の、日の、月の、星々の中、いたるところにいる。彼はあらゆるものと生きものを内から制御している。彼は内なる支配者、礼拝するものの不滅の自己である。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド、三、七、7)

 信者は彼と神との間の区別を保持している。彼は自分を一つの魂、神をすべての魂の魂と考えるのだ。

 

神の人格的な面と超人格的な面

 しかしシュリ・クリシュナがバガヴァッド・ギーターの中で述べているように、「創造者のことが、心を超人格神に向ける者たちにとっての難問である。からだにやどる生きものが絶対者の高みに到達するのは非常にむずかしいのだから」(バガヴァッド・ギーター、一二、五)それゆえ、人格的な面と象徴を通して超人格的存在を礼拝し瞑想することが、ヒンドゥイズムのほとんどすべての修行法において、もっとも人気のあるものとなっている。求道者は神を超人間的な属性をもつ人格的存在とみなすのだ。彼は信者の祈りと礼拝にこたえ、彼が完成に達し、至福を得るのをたすけるのだ。次にあげるように、ウパニシャッドのあるものは実在についてこのような見方をしている。

 私は解脱をねがって、その光がアートマンの知識を   示す、あの光りかがやく御方に避難所をもとめる。彼は最初に宇宙霊(ヒラニヤガルバ)をつくり、彼に至高の知識をお与えになった。彼は部分を持たず、活動せず、静寂で、おちどなく、けがれなく、不死への最高のかけ橋であって、薪をもやす火の炎のように、自ら光りかがやく。(シュウェターシュワタラ・ウパニシャッド、六、一八、一九)

 人格神の概念そのものの中にさえ、神人同形的な面と神人非同形的な面の区別がある。イスラムにおいては、神は人格的であるが、神人同形ではない。すなわち神は形を持っていない。イスラムとユダヤ教の神は、人間的な感情と思いは持っているが、人間の形は持っていない、とある著名な神学者は言っている。ヒンドゥイズムの中には、神人同形的概念、神人非同形的概念の両方が見いだされる。民間のヒンドゥイズムでは、さまざまの神々が礼拝されている。しかし、それだからヒンドゥイズムは多神教であるというわけではない。神学的な教義に関して言えば、ヒンドゥイズムは他の何れの宗教とも同じように一神教的であるが、ただ次の点で他とはちがっている。すなわち他の宗教では(たとえば、ユダヤ教のエホバのように)最高神の地位にのぼれるのは一つの神のみであるのに対し、ヒンドゥイズムではさまざまの神々がその信者たちによって最高神の地位にあげられている。ヴィシュヌの崇拝者は、ナーラーヤナが至高の神であり、そのほかの神々は彼に従属する、と考える。シヴァの礼拝者はシヴァが至高の神であり、その他の神々はそれよりひくいと考えている。そのような考え方をマックス・ミュラーは単一神教 Nenotheism と呼んでいる。この考え方があるので、ヒンドゥイズムはさまざまの思想の流れと宗教上の理想とを、そのかこいの中に統合することができたのである。

 すべての神々の上に立つ唯一の至高神がいる、という考えは、ヒンドゥの宗教思想の中では不変のものである。しかし神々の名に関しては、すでに指摘したように大きな変革があった。ヴェーダの時代にあまり重要でなかったヴィシュヌやシヴァのような名前がのちに重要になる一方、インドラ、ミトラ、ヴァルナのような名は実際には忘れ去られた。そのうえ、ラーマやクリシュナのような化身たちの礼拝がいたるところにひろまった。形なき存在、すなわち超人格神が、非顕現かつ不変の原理のさまざまのあらわれであるすべての神的人格の、背後に存在するのだ、ということが次第にはっきりと認められるようになった。自分たちの信じる特定の神々や化身たちや予言者たちがすぐれている、と主張する宗派心の強い人々がいるが、見神者たちは神の全容のヴィジョンを得ているから、神々であれ、神人であれ、すべての人格を、超人格的な存在のさまざまのあらわれであるとみる。ちょうど大海が無数の波を生みだしても、相変わらず無限かつ不可測でありつづけるように、究極実在はさまざまの神々を生みだしても不変のままでありつづけるのだ。実に、最高の霊的明知を得た人びとは、人がどのような神的人格の礼拝から出発しようと、霊性の生活の目標は、超人格的存在、第二なるものなき一者の経験にあるのだ、ということを知っている。そこでは、礼拝する者と礼拝される者、いな、神と魂たちと宇宙とは融合して、ひとつに、そして不可分になるのである。

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