瞑想と霊性の生活
魂とその運命(1)
難問中の難問
魂は死後にも存在する、すなわち魂は不滅である、という信仰は世界の偉大な宗教のほとんどすべてに共通しているが、魂は誕生の前から存在する、という信仰は、ヒンドゥイズムに共通の特徴である。彼の「生まれ変わり(魂の再誕)」についての講義の中で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは次のように言っている。
「あらゆる時代、またすべての国において、人間の知性を混乱させてきた多くの謎の中で、もっとも難解なものは人間自身である。歴史のはじまりいらい、人が解明の努力にエネルギーをつぎ込んできた無数の神秘の中の、最大の神秘は、人間の本性である。それは同時にもっとも解決のむずかしい謎であり、すべての難問中の難問である。私たちが知り、感じ、することすべての出発点として、またそれらの貯蔵庫として、人間自身の本性が、人のもっとも重要な関心事であることがやむような時は、これまでもなかったし、これからもないであろう」と。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ全集第四巻257頁)
あらゆる世代が、魂の性質とその運命というこの難問、生と死という偉大な神秘を、つぎの世代に引きわたす。しかし幸いなことに、この神秘の謎を解くことを試み、真の自己を悟ることによって解決を見いだした、勇敢な、真剣な魂たちが何人かは存在する。それゆえ、私たちも、これらの偉大な魂たちの足跡に従う努力をしようではないか。熱心に、忍耐強く努力するなら私たちも、自分でこの問題を解決するかもしれないのだ。
ハーリエット・ビーチャー・ストゥの「トムおじさんの丸太小屋」という有名な本の中で、少女トプシーは「お嬢ちゃんはお嬢ちゃんを誰が造ったか知っている?」と尋ねられる。「私が知っているかぎりでは、誰でもないわ」とちょっとほほえんで少女は言い、さらに次のようにつけ加えた、「私は自分で大きくなっただけで、誰も私を造ってはいないと思うわ(訳注、この意味不明)」と。私たちもそう考えるか。私たちのこの奇妙な世界には、この問題にまったく関心を持たない大人たちがたくさんいる。しかしまた、次のように問わずにはいられない人たちもいくらかはいる。「私たちはどこから来たのか。私たちは周囲にあるものと同じように創造されたのだろうか。私たちはこの世に生まれる前にも存在しており、死んだ後にも存在し続けるのだろうか」と。このような問いは、時代から時代へと、くり返し問われ続けてきている。ウォルト・ホイットマン Walt Whitman の言葉に――
「この二つの古い、素朴な疑問が、常に深くからみあい見分け難く、しかも厳存し、執拗に、しがみついてきた。いつの世にも、解決されることなく次の世にまわされて、ついに我らのもとにきた――そして我らも同じように、次の世にまわす」
生物学上の説明
西洋の生物学者は個々の多細胞有機体の一生を――それがハエであれ、鳥であれ、けものであれ、人間であれ――次の五つの時期に区分する、すなわち、「受精」とよばれる過程によって個体が形成される時期、発達の時期、成熟し安定した時期、老齢、およびこの周期の最終的な出来事である死の五つに区分する。大部分の生物学者によれば、有機体は、遺伝という伝達の過程によって、その有機体のすべての性格を持って生まれてくる。有機体にとって不滅性は、その子供たちや子孫を通しては可能かもしれないが、個体の、または個人の不滅性には可能性の余地がない。
ヒンドゥの不滅の概念
この観念とはまったく別に、古代のヒンドゥの霊性の教師たちによって私たちに示された、もう一つの理論がある。彼らは、あらゆる生きものの肉体の一生は、次のような六つの変化をもつ同期を経過する、と教えている、すなわち、誕生、存在、成長、変容、衰微、崩壊、である。(シャンカラのバガヴァッド・ギーターの注釈を参照のこと。trans. Mahadeva Sastri Madras: samata books, 1981, p42)ここでいう崩壊とは、肉体の形の死を意味している。死によって、生きものは肉体として存在することをやめるが、存在することはやめない、その生命は、その根源にもっと近い、もっと精妙な世界で存在し続ける、という意味である。間もなく、魂は新しい肉体をまとって生まれ変わる。魂は決して崩壊せず、肉体という媒体だけが、変化の循環を経験するのである。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは次のように述べている。
「人が、彼自身について考えたすべての理論の中で、魂という実体は、肉体とは別で、不滅である、とするものはもっとも広く受け入れられており、そのような魂を信じる中でも、考え深い人びとの大部分は、常にまた魂の生前からの存在を信じていた」と。(全集第四巻、258頁)
個人の直接経験から、ヴェーダーンタの教師たちは私たちに、肉体をかりての誕生をくり返す魂、すなわち霊的実体そのものは不滅である、と教えている。それは、「誕生」と「死」のくり返しを経験するではあろうけれど、それの「誕生」の前にも存在していたし、そしてまた、永遠に生き続けるであろう。現代的な比喩を用いれば――可視光線帯だけでなく、不可視の紫外線と赤外線の領域をも越えているスペクトラム(光線帯)のように――魂は無限の過去と、そして無限の未来を持っているのだ。人の魂は、過去と現在と未来を結びつけ、しかも時間と空間の両者を超越している無限の「存在」の一部分である。霊の過去の存在と未来の存在は、私たちには知られてはいないが、実は、存在は連続しているのである。誰も自分の自己の存在を否定することはできないが、その真の性質は、より高い直感の力を通してのみ理解され得るのである。カタ・ウパニシャッドは次のように言っている。
「この「自己」は肉体の眼によっては見ることはできない。それは眼に見える形は持っていないから。しかしそれは、浄化されたハートの深みにおいて、悟られる。それを知る人は不滅になる」
輪廻転生の教説もカルマの法則も、縛られた魂、すなわち自分はエゴである、心、感覚および肉体である、と思っている人びとだけに適用される。彼らはくり返し生まれ変わる。しかし、新しいより高い意識が芽生えはじめた人たちは、この誤った同一視から解放され、彼らの真の性質が「無限の霊」であることをさとり、生と死の循環から解放される。彼らは不滅になる。
精妙な体(幽体)は、幾たびも新しい粗大な肉体の中に生まれ変わり、新しい経験をする。毎回、肉体の死のあとにも幽体は存続し、生まれ変わりの時が来るまで幽界にとどまる。このすべては霊的世界の未知の法則に従っておこるものである。(バガヴァッド・ギーター、二の二二、八の15)
すべての魂は、その本性である至高、不動のみずから輝く「意識」、アートマンを悟るまでは、誕生と死の反復を経験しなければならない。真の「自己」、すなわちアートマンは、決して生まれもせず、死にもしない。それは、シュリ・クリシュナがギーターの中で言うように、「この自己は不生、永遠、不滅であり、古くて、常に新しい」 ヴェーダーンタによれば、本来常に永遠に自由であるアートマンに束縛の観念をつくり出すのは、アギャーナ、すなわち根源無知である。この自己と自己でないものとの同一視は、無始の過去からそこにある。そして、それがつづく限り、アートマンは有限の、個別の自己すなわちエゴであって、くり返し生まれ変わる。無知という呪縛のもとで、人は彼の神的な本質を忘れているのだ。しかし、あらゆる人の生涯の内に、彼が、最初はかすかで曖昧であろうが、自分の霊的な性質に関して何ごとかを感じはじめるときがくる。人の魂がいわばその永遠のまどろみから目覚め、そのとき、その真の性質をさとろうという努力が始まるのだ。魂がそれの霊的性質と、それの「至高霊」との不可分のつながりを自覚するという、ついに起こった、より高い意識の夜明けとともに、真の霊性のめざめとともに、すべてのカルマは脱落する。誕生と死の循環はとまる。スワミ・ヴィヴェーカーナンダが言ったように、私たちもそのとき、「私の遊戯は終わった」と言うことができるのだ。(全集第六巻、175〜177頁)
インド思想におけるカルマの法則
輪廻転生の教説は、カルマの法則の延長にすぎない。カルマという言葉は、肉体と心の活動だけでなく、反応――外部からの刺激に対する心の反応――をも意味している。良い、または悪い行為によって生じた力は、良い、または悪い結果を生み、それは行為者、すなわち結果を得ようとして自己中心的なあり方で行為する者に影響を与える。このように、カルマの法則は、実は原因結果の法則なのである。それは、個別および集団的両面で、個人および社会の運命を導く、偉大な道徳上のおきてなのである。
すべての行為は二種類の結果を生み出す。一つは、宇宙的な結果であって、私たちの未来の経験――幸福または不幸――を決定する。カルマの第二の結果は、個人のものである。すべての行為は、心にサムスカーラとよばれる一つの印象を残す。幾千というそのようなサムスカーラが私たちの心の中に蓄えられ、後に再び、性向すなわちヴァーサナーとして活動する。そしてこれらの精妙な印象が、私たちの未来の生まれ変わりの経路を決定するのである。これは私たちが考えるほど神秘的なことではない。もし自分の心を分析するなら私たちは、自分の現在の思いの多くは、その子供のころに始まったものだ、ということを見いだす。子供時代に受けたある想念や経験が、私たちの心に深い印象を残しているのだ。成長するにつれ、まるで心というフィルムが現像されるように、自分の心の中に何という大量の画像や想念が蓄えられているかということを見いだして、私たちは驚く。それは、テープレコーダーを鳴らすようなものである。私たちはしばしば、自分の性向のあるものの源を忘れている。しかし、内観によって、自分のごく幼い子供の時代にまでさかのぼり、ときには前生にまでさかのぼることができる。私たちの夢のあるものは、分析されると、私たちの過去についてこまかに教えてくれ、しばしば、過去生の経験までも指摘する。
カルマの法則には二つの面がある――束縛する面と解放する面である。カルマは、自己中心の執着心で行われるときには、ますます魂を束縛する。くり返される感覚的快楽は、前の印象をさらに強化し、その人を生と死の水準に引き下ろす。しかし、カルマが主への奉仕として、または純粋に他の人びとの福祉のために、無執着で行われるときには、それは、魂を解脱へと導く。自分への無執着は、不断の自己分析と用心、または神への不断のおまかせによって実現する。これができると、新しい印象はつくられず、古い印象はより強くならない。次第に、それまでの心の印象はすべて、私たちへの影響力を失う。これが、心の浄化と呼ばれるものである。これはカルマによってなしとげられるのだ。このように、カルマそのものは悪いものではない。それが私たちを束縛するか否かを決定するのは、私たちのやり方である。
有神論的であれ無神論的であれ、インドの哲学すべての学派は、カルマの法則をみとめている。しかし、真の問題は次の点にある――「至高の存在」すなわち神は、この法則のはたらきと何らかの関係を持っているのか? それのはたらきの背後には神のご意志があるのか? 「天体の調和」という学説の創始者である、偉大なフランスの天文学者かつ数学者、ラプラスについて一つの話が伝えられている。彼が彼自身の有名な本「天体の機構」をナポレオンに献呈したとき、皇帝は彼に、彼の学説が神をどう見ているのかを尋ねた。この天文学者は静かに答えた、「陛下、私はその仮説なしにいたしました」と。さて、多くの科学者にとっては、神は、なくてもすませることができる単なる仮説にすぎないのだ。不可知論であれ、無神論であれ、科学、経済、政治など、さまざまの分野にいる浅薄な思想家たちのある人びとにとって、神の存在を無視または否定することが、近頃、何やら流行のようになった。
さて、そのような人びとの心を考察すると、彼らが未成熟で浅はかであることが分かる。彼らはものを深く考える熱意も能力も欠き、またどんな主題であれ、それに心を集中することさえできないのだ。事実、深く考えるのはたやすいことではない。それには訓練された心が必要である。いわゆる現代の唯物論者の多くは、ある他の人たちの思想を復唱し、それを盲目的に信奉しようとしているにすぎない。私はある話を思い出す。ある先生が、子供たちに数学を教えていた。彼女は子供たちに問題を出した。「私は十二匹の羊を持っています。そのうち六匹が柵を乗り越えて逃げてしまった。残っているのは何匹ですか」少年の多くは「六匹」と答えた。しかし一人の農家の子は、静かに、「一匹も残っていないでしょう」と言った。先生が彼にそのわけを尋ねると、少年は、「先生、先生は数学を知っているかもしれないが、僕は、羊の振る舞いを知っています」と答えた。ここに、私たちへの教訓がある。私たちは、この羊たちのように他の人たちの話を盲信してはならない。ある科学者が言うように、「大部分の人びとには、脊髄があれが十分だ、大脳は余分なものである」 それは、大部分の人びとは本能的、衝動的な生活をしている、という意味である。本当にみずから考え、意識的に自分自身の生活をしている人は非常に少ない。
唯物論には、現代的な所はまったくない。古代インドにわれわれは、チャールヴァーカという思想家の一派を持っていた。彼らは、神、魂、および不滅などの存在を否定し、人生の目的は、粗大な感覚の快楽にあると考えていた。彼らが多くの人びとに認められたとは思われない。しかし古代のチャールヴァーカたちは姿を消したのか。彼らは、宗教を信じていると言いながら実際の生活では唯物論的人生観を抱いている、私たちの中の多くの者たちの内に、潜んでいるのだ。
このような浅薄な唯物論的思想家とは別に、古代インドには神――すくなくとも私たちが一般に云々する神――の存在は否定する、深くまじめな哲学的思想家たちがいた。しかし、彼らはすべて、カルマの法則のはたらきを認め、そして、仏教徒の中には例外がいたかもしれないが、魂の実在と不滅は信じていた。アースティカとナースティカという言葉は、それぞれ、有神論者と無神論者という意味ではなく、「正統派の」と「正統派でない」という意味である。ナースティカたちは信じない人びとである。仏教徒とジャイナ教徒は、後者の範疇にはいる。アースティカたちの中でも、サーンキヤ派とミマーンサカ派のある人びとは、神の存在を認めない。彼らによれば、魂は、カルマの法則によって縛られており、そのはたらきは、容赦のないものである。
一方仏教徒は、カルマの法則を受け入れながら、魂の存在は否定した。このことは、彼らの多くを奇妙な立場におとしいれた。彼らによると、人間の人格は、二輪馬車にたとえられる。馬車は車輪その他の部分の集合体であり、これらの部分がなければ、「馬車」は独立した存在ではあり得ない。同様に、人間の身体は、多くの要素の集合体である、それにもかかわらず、その集合体はカルマの法則によって生まれ変わりをつづけるのだ、というのである。よく光る斧を自慢していたある年老いた木こりの話がある。誰かがそれをほめるとその老人は、喜びに顔を輝かせて、こう言うのだった、「よく聞け、私はこれを二十歳の時から使っているのだが、今でも、なんとよく光っていることか。ただ刃は六回取り替え、柄は八回換えたのだけれど」と。その老人は、同じ斧を用いていると信じているのだ! 仏教徒は、一連の輪廻再生を介した自己の連続性は、それと似た錯覚である、と言うのだ。
何年かを西洋で暮らしたので、私は、宗教的風土をもっとよく理解することができる。インドは、すべての生きものの運命を導く神聖な「力」の存在を信じる、ヴェーダーンタの国である。ヴェーダーンタは、意識のない法則が、意識のある生きものたちの運命を決定し得るなどとは、信じない。そこには必ず、一個の意識のある「存在」、すなわち宇宙の究極の「支配者」であり、「案内者」である、知能のある「力」が、存在しなければならない。それだから私たちは、ニヤーヤ・スートラの中に、次のような格言を見いだす。「神が究極の原因である、人の努力(カルマ)は、必ずしも果実を生み出すわけではないから」と。インドのさまざまの哲学体系すべての中で、ヴェーダーンタだけが、神をもっとも重要なものとして、人びとに受け入れられて繁栄するに至った。神の存在を否定した学派のすべては、郷土から姿を消すか、あるいはヴェーダーンタの本流に融合してしまった。
私たちは、巨大な機械とこの上もなく複雑なコンピューターのことを聞き、その能率の高いはたらきを知って深い感銘を受けている。しかし私たちは、これらを発明し、それらを操作している知能ある人びとがいることを、忘れている。同様に、この無限かつ神秘的な宇宙は、一人で動いているように見えるけれど、それは、至高の知性を持ち、あらゆる生きものに内在する宇宙的「存在」によって導かれているのである。あなたは大地に種子をまき、水を注ぐ。種子はおのずと発芽し成長する。どこか遠くのヴァイクンタかカイラーサにいて、種子の成長を導く人格神、ナーラーヤナかシヴァの存在を信ぜよ、というのか。あらゆる生きものの中に、神性がかくれているのだ。あらゆる生命活動を制御しているのは、この内在の、神聖な「原理」なのである。西洋の哲学者のある人たちもやはり、内在の宇宙的「意志」について語る。カルマの法則は、神の「意志」の導きのもとにある。しかし、神自身は、それの支配を超越している。彼は永遠に自由であり、純粋であって、その性質は「至高の意識」であり「至福」である。
さらにヴェーダーンタは、人は必ずしも行為をし続けなければならないものではない、と信じる。行為は、魂が、その内なる「実在」に目覚めるまで、行われなければならないのである。魂は、その本性が神と同じものであることをさとったとき、それもまた、カルマのはたらきを超越する、それは自由になる。ヴェーダーンタによれば、この生と死の循環からついに解放されることが、人生の目的なのである。ムンダカ・ウパニシャッドの中に、この点をたとえで示す、美しい表現が見いだされる。一本の木に、美しい羽を持つ二羽の鳥がとまっている。その一羽はあるものは苦くあるものは甘い、その木の実を食べるが、もう一羽は、その木の頂きにとまっていて、果実にはひかれず、ただ眺めているだけである。しばらくの後、下の鳥は上を見て、自分が上の鳥と一体であることをさとる。そして食べるのを止め、やはり至高の『平安』を得る。低い方の鳥はジーヴァ、カルマに縛られていてくり返し楽と苦を味わっている個別の魂である。しかしそれが、自分が上の鳥によって表されている「至高霊」と一体であることをさとると、あらゆる執着と制限から解放されて、それ自身の栄光の中におちつくのである。
いつまでもカルマの法則に縛られ、その車輪にくだかれている必要はない。苦痛にみちた歯車の間から自分を解放する方法がある。バガヴァド・ギーターの中で、クリシュナはカルマの束縛から自分を解き放つ、直接的な方法を教えている。「あなたのすべてのダルマとアダルマを放棄し、無条件に、あなた自身を『私』に捧げきれ。私はあなたをすべての束縛から救うぞ。嘆くではない」と(バガヴァド・ギーター、一八・六六)。これが人類に与えられた神の約束である。すべての偉大な神の化身たちが、人類にこのような約束を与えている。むずかしいのは、それを信じ、全心をこめて自分を神にささげ切ることである。