瞑想と霊性の生活

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霊性の探求(2)

実在の力

 はじめのうちはしばしば、神への渇仰心を持つことは非常にむずかしい。それは、私たちには神の実在が信じられないからである。私たちの多くはこのからだが自分であると思っており、私たちがもっともほしがっているのは――かならずしも非常に低級な楽しみではないにせよ――物質界にいるこのからだの楽しみである。私たちの多くは、宗教は高度に道楽めいたもの、他の多くのファッションと同様、ファッションの一つであると思っている。しかしいつか、霊的努力によって神が実在であるということが知られるなら、私たちは、自分の全存在がその実在にこたえ、それだけを求めていることを感じるであろう。もし、この世界が私たちにとって実在であるなら、それが私たちの全関心をひきつける。もし別の何ものかが実在であると感じられるなら、それがまた、同じことをするだろう。私たちがしばらくでもこれが実在であると思うものは、その間は私たちに作用し、私たちの感情をうごかし、意志を引き出す。それが私たちの知性全部を占有する。実際に、私たちの全存在がこの実在に反応するのである。

 私たちが自分の生活と聖者たちのそれとを注意ぶかくくらべるなら、そこに大きなちがいがあることに気づくどちらの心に影響を及ぼすのも「実在」なのであるが、聖者にとっての実在は、普通の人の実在とはちがうのである。私たちにとっては、この世界が実在である。聖者にとっては、霊性の世界だけが実在である。彼らの全生涯は、神をさとるにはどうしたらよいか、神を、知的な不たかしかな概念ではなく一個の実在とするにはどうしたらよいかという、このただ一つの思いでみたされている。もし、聖者たちが実在と呼んでいるものが何であるかを理解することができるなら、私たちは、彼らが神の悟りのためには生命をすてることもいとわない理由をも、理解することができるだろう。

 しかしながら、私たちは盲目的に聖者たちのまねをしてはならない。彼らはその言動においてむしろ慣習に沿わなかったり、奇妙であるかもしれない。しかし、前に述べたように、彼らの神への渇望はすべて、実在をはっきりと知っているから生まれるものである。この感覚にむすびついた世界だけを実在と感じている私たちは、霊性の修行において注意ぶかくなければならない。

 私たちにとって、成功は大きく日々の修行の規則正しさと熱意とにかかっている。私たちはしばしば、このことに気づいていない。霊性の修行では、規則正しい実践なしには、なにごとも成就し得ないのである。霊性の生活は、最高者への献身の生活、神に生涯をささげる生活であり、自己犠牲と一意専心の生活でなければならない。それゆえ私たちは、もっと注意ぶかくなり、自分の福祉のために、また他の人びとの福祉のために、自分の思いに関してはもっと注意ぶかくなければならない。私たちの情欲や食欲や暴力は、相手に毒ガスよりも悪い影響を与えるのだ。ほんとうに、私たちの不純な思いによって引きおこされる大破壊は、毒ガスの害よりもはるかに大きい。自分の不純な思いによって、私たちは不純の何たるかを知らない人びとにまで影響を及ぼしているのだ。しかしきよらかな思いによっては、きよらかさを求めて努力している人びとを助けている。

神にあえぬなげき

 私たちは強烈な、神にあえぬなげき、あらゆる時代の神秘家たちが語っているなげきを感じるようにならなければならない。世俗的なものへのあらゆる執着や欲望をうちこわすことができるこの神聖ななげきを心の中にめざめさせることができなければ、私たちは霊性のさとりを真に熱望することはできないであろう。私たちは世の中で最善をつくして自分の役目を果たさなければならないが、そこには決して、真の平安はあり得ない。私たちは決して、努力をおこたったり、束縛された状態に満足したりしてはならない。そのような満足感は、求道者には非常に危険である。私たちは意識的に、もっと高い生活への渇望の火をもやしつづけなければならない。自分のエネルギーを低級な事柄のために浪費してはならない。決して、霊的成功を求めて心の安まらぬ状態をすて、怠け心による安楽の状態を求めるようなことをしてはならない。

 私たちはすでに、究極の目標に向かって大きく進んでいるのでなければ、安全ではない。自己自覚に達するまでは、誰でも、いつ失敗するか、いとわしい堕落をするか、わからないのだ。私たちは相当に進歩するまでは、自分の力を過信してはならない。

 修行の実践と祈りは強化されなければならない。朝夕の定期的な祈り、定期的な瞑想、つねに高い思いを思うことは、非常にためになるだろう。初心者の心は、それが習慣になるほど、神のことを思いつづけなければならない。正しい習慣が身につけば、道はもっとらくになり求道生活の緊張もやわらぐ。

 私たちは自分の心のごく一部ではなく、そのすべてを神にささげなければならない。シュリ・ラーマクリシュナはよくこう語られた、「一ルビーの値段の布を買おうとするなら、一パイサ足りなくてもだめ、一ルビーを支払わなければならない。そうでないと、それを買うことはできないだろう」と。霊性の生活においても同じこともしあなたが全心の注意をはらわなければ、何も得られはしないであろう。数カ月あるいは数年間、おざなりの瞑想の修行をつづけて霊的に何も得られなかったとしても、あなたは誰をせめることもできない。

 私たちに必要なのは忍耐力である。着実な、規則正しい修行がなければならない。それをやめるよりは、自分のからだと心をきよらかに保ちつづける努力の中で、死ぬ方がましであろう。私たちが死んだとて、それがどうしたと言うのだ。大切なのは真理を悟ることであり、完全に成長すること、真の存在に到達することである。もし自分の最善の努力をつくすなら、私たちは自分の義務を果たした、というものであろう。そうしたら、あとはすべて神にゆだねられるべきである。ここで、主への真の帰依と献身がはじまるのだ。

 「彼の御者の役をつとめる知性と、手綱の役をするよく制御された心とをもつ人は、旅の目的地、すなわち神の至高の住まいに到達する」とカタ・ウパニシャッドにかかれている。(カタ・ウパニシャッド、一〜二〜九)私たちは決して、自分に甘んじ満足して、自分は最善をつくしたなどと考えてはならない。そのときはそれが自分の最善だったかもしれない。しかし私たちは、もっと多くのことができるように、もっともっと強い力を求めて神に祈るべきである。いま、私は十ポンドしか持ち上げられないかもしれない。しかし私は百ポンドを持ち上げる力をお願いすることができるのだ。たとえ自分はすでに最善をつくし、いまも最善をつくしていると思っても、私の能力はさらに増強することができる。この「最善」は固定した量ではないのだから。

聖者たちの模範

 私たちは、神への熱烈な思慕の念、すなわち聖者たちや賢者たちの生涯に見られる、あの休むことのない徹底した神への探求心を養いそだてなければならない。青年時代のシュリ・チャイタニヤは、偉大な学者であった。しかしその若さの盛りに彼は突然回心し、熱烈な神の信者になった。彼の神への愛は実に熱烈で、彼は一秒も神を忘れることはできなかった。彼の全生涯は、霊的な陶酔状態ですごされた。彼の忘我の信仰は彼自身が書いた、つぎの短い詩によくあらわれている。

 ああ、私はどんなにその日を待ちこがれることか、あなたのおん名をとなえるうちに涙はほほを流れおち、法悦にのどはつまって、言葉はどもり、お祈りの言葉も言えなくなる日。よろこびにからだ中の毛がさかだつ日。ああ、私はどんなにその日を待ちこがれることか。あなたとの一瞬の別れが、おおゴヴィンダよ、千年の別れのように思われて、私のハートは願望の火にもえつき、あなたのおわさぬ世界はいのちのない虚空のように思われるとき。

 あなたの御腕に抱かれることもねがわず、たとえわが魂が千々にひきちぎられても、あなたの御姿が消えたこともなげかず、ただゆるがぬ信仰をもって、御足のもとにひれ伏させて下さい。

 おお、あなた、信者のハートをおぬすみになるお方、私をおすきなようになさって下さい。あなたが、あなたおひとりが、私の最愛の御方なのですから。

 プララーダは、プゥラーナの中でたたえられている聖者の一人である。彼は少年時代から、主ヴィシュヌヘの熱烈な信仰を持っていた。彼の悪魔のような父親は、あらんかぎりの手段で息子を世俗の道に引きもどそうとした。しかしこの若者はすべての残酷な試練に勇敢に立ち向かい、忘我の境地で主をたたえつづけた。主が彼の前にあらわれ、何がほしいかとたずねられたとき、彼はつぎのように言った、「無知な人びとが世間のものに対して抱く愛と同じほど強い愛をもって、あなたを思うことができますように、またその愛が決して、私のハートから去りませんように」と。

 「わが主よ、たとえ私が幾千回生まれかわらなければならないとしましても、つねにあなたへのひるむことのない不動の信仰をもちつづげることができますように」

 現代ではシュリ・ラーマクリシュナが、神への熱烈な信仰の比類のない模範として、立っておられる。神のあらゆる面におけるヴィジョンを得ることを熱望し、そのために彼は六年間ねむられなかった。彼は昼も夜も、非常に強いさまざまの霊的ムードですごされたので、人びとは彼は気がくるったのだと思った。彼のムードは事実神聖な狂気の状態であった。彼の教えと会話を正確に記録した書物である「ラーマクリシュナの福音」に私たちは、神への渇仰心の重要さが非常に強調されているのを見る。実にそれは、シュリ・ラーマクリシュナがすべての求道者に与えられたもっとも重要な修行法であると言ってよいであろう。つぎの一節はその典型的な例である。

 師(バンキムに向かって)「人は神に対しては、子供のようなあこがれを持たなければならない。子供は母親が見えないとただろばいするだけだ。たとえお菓子をもたせてなだめようとしても、彼はだまされない。『いや、お母さんのところに行く』と言うだけだ。人はこのように神を慕わなければいけない。おお、なんというあこがれだ! 子供は母親を求めてどんなにあせることか。何ものも、母親を忘れさせることはできないのだ。世間の楽しみが味気なく感じられる人、金、名声、快適な生活、感覚の楽しみなど、この世のいっさいのものによろこびを感じない人は、母のお姿を求めて心底から悲しみに打ちひしがれる。そしてそのような人のもとにだけ、母は他のすべての仕事をすてて、走ってきて下さるのだ。「ああ、この焦燥がすべてだ。あなたがヒンドゥであろうと、回教徒であろうと、クリスチャンであろうと、シャクティ派であろうと、ヴィシュヌ派であろうと、さてまたブラフモであろうと、どの道を進んでいようとそんなことはかまわない、大切なのは焦燥感だ。神は私たちの内なる案内者だ。たとえあなたがまちがった道を歩いているとしても、そんなことはかまわない。ただ、『彼』を慕い求めてあせらなければならないのだ。『彼』がご自分で、あなたを正しい道に置いてくださるだろう。

 「また、どんな道にもあやまりはある。すべての人が自分の時計が正しいと思っている。だがほんとうは、完全に正しい時計などというものはありはしないのだ。しかし、それは人がすることをさまたげるわけではない。もし人が、神を慕い求めてこがれていれば、彼はサードゥたちとまじわるようになり、サードゥの助けをかりてできるかぎり自分の時計をなおすのだ」

 バンキム(師に)「師よ、どうしたら神への愛をそだてることができるのでしょうか」

 師「慕いこがれる気持ち、母を慕いこがれる子供の気持ちによってだ。子供は母親から引き離されると当惑し彼女を慕って泣く。もし人が、神を慕ってそのように泣くことができるなら、神を見ることさえできるのだ。

 「朝が近づくと東の地平線は赤くなる。そのとき人は日の出が近いことを知る。同じように、もしある人が神を恋いこがれているのを見たら、彼は遠からず神をみると思ってまちがいはない」(協会訳「ラーマクリシュナの福音」七〇一ページ)

 シュリ・ラーマクリシュナの親密な弟子たちはみな、このような渇仰心を持っていた。バララームはそのような弟子の一人であった。彼のラーマクリシュナとの出合いは次のように啓発的である。

 「彼はカルカッタに到着した翌日、ドッキネッショルに向かった。ケシャブ・チャンドラ・センと彼のひきいるブラフモの信奉者たちが来ていたために、寺院の庭は人でいっぱいだった。バララームは師の部屋の一隅にすわっており、一行が食事のために部屋を出たとき、シュリ・ラーマクリシュナは彼を呼び寄せて、何か尋ねたいことがあるのかと問われた。『師よ。神はほんとうにいらっしゃるのでしょうか』と彼はきいた。『いらっしゃるとも』と師は答えられた。『誰でも神を悟ることができるのでしょうか』『できるとも』と、師は答えられた。『「彼」は「彼」をもっとも身近で、もっともしたしいものと思っている信者の前にお姿をお見せになる。あなたが一度ぐらい神に祈って反応が得られなかったからといって、神はいらっしゃらないなどと結論してはいけない』『それでも私はずいぶん一生懸命にお祈りをしていますのに、どうして彼を見ることができないのでしょうか』とバララームはかさねて尋ねた。シュリ・ラーマクリシュナは笑みを浮かべてつぎのように尋ねられた、『あなたはほんとうに「彼」を、自分の子供たちのように愛しい者と思っていますか』バララームは少し考えてから、『確かに師よ、私は神のことを、それほど強く感じてはおりませんでした』と答えた。師はいきいきとした調子で、つぎのように語られた、『神をあなた自身よりも親しいものと考えて彼に祈りなさい。ほんとうに、彼は、彼の信者たちをもっとも深く愛しておられるのだ。彼らに向かって、ご自分を現さずにはいらっしゃれないのだよ。彼は探し求められる前に、人のところに来ておられるのだ。神より親しい、情愛の深いお方はほかにはおられない』バララームはこのみじかい会話から新しい光を得た。『彼が話されることはみなほんとうだ。神のことをこんなに力づよく私に話した人はいない』と彼は心の中で思った」(カルカッタ・アドヴァイタ・アシュラマ版「シュリ・ラーマクリシュナの生涯」、一九六四、371ページより)

人生の早期にはじめよ

 まず人生のあらゆる果実をたのしみ、宗教は老後の仕事に残しておくことができる、と考えている人が多い。しかしそういうときは来ないかもしれない、というのは、肉体的な享楽にエネルギーの大部分を浪費した後、霊性のきびしい修行のためのエネルギーはほとんど残されていないであろうから。多くの人は霊的生活をはじめるのがおそすぎるので、それからあまり大きな恩恵が得られないのだ。多くの人は、自分の人生がむだであったことに気づくのがおそすぎる。それでも彼らは、年老いてなお、自分はロマンチックな若者であるなどと無益な空想をしつつ、肉体の快楽を追い求めている愚かな老人よりはましである。西洋ではそのような気の毒な人びとにたくさん出会う。

 人はできるだけはやく、霊的な生活をはじめなければならない。若いうちに霊性の種子を蒔いておかなければ、年をとってから霊的な生活態度をとることは不可能であろう。シュリ・ラーマクリシュナはある日、彼の最愛の若い弟子ナレンドラに、ベンガルの有名な俳優で劇作家であるギリシュとの交際についてつぎのように警告された。

 師「おまえはギリシュをたびたび訪れるのかね。ニンニクの汁がはいっていた茶碗は、どんなによく洗ってもわずかの臭いはかならず残っているものだ。ここに来る若者たちは、『金と女』に汚されていない清浄な魂だ。『金と女』に関係してきた人びとは、いわば、ニンニクの臭いがする。彼らは、カラスについばまれたマンゴーのようなものだ。そのような果物は神前にそなえることもできないし、おまえ自身も食べることをためらうだろう。また、新しいかめと、その中で凝乳をつくったことのあるかめとの場合を考えてごらん。誰も、あとの方のに牛乳を貯めはしない。じきにすっばくなるからだ」(協会訳「ラーマクリシュナの福音」、七四五ページ)

 ギリシュは後にこの話をきいて、シュリ・ラーマクリシュナに「ニンニクの臭い」は消えることはないのだろうかと尋ねた。「その茶碗がもえ上がる火の中で熱せられれば、その臭いは消えるであろう」と師は答えられた。人は、一度自分の本能の奴隷になると、その支配から抜け出すことは非常にむずかしい。老年期は、それをはたすためには短すぎる。あなたの理想が、超意識的な経験を得ることによって束縛と悲しみから解放されることであるなら、あなたはいまただちに始めたほうがよい。

 また人がその目標に到達する前に死んだら、どうなるだろう。ギーターのつぎの言葉を思い出しなさい。「この修行をほんの少しでも行えば、人はこの大きな恐怖から救われる」(パガヴアッド・ギーター、二―四〇)

 霊性の生活で真剣に努力をした人びと、自分のすべてを神にささげた人びとは、すこしも恐れる必要はない。彼らが存命中、熱心に霊的な生活をしていたのであれば、その探求をつづけることができる別の世界がある。彼は途中でやめたのと同じコースを歩むことになろう。死はただ環境に変化をもたらすだけ、私たちの意識の焦点、すなわち神は、つねに私たちとともにおられる。私たちのいるところにはかならず、無限者がともにおられるのだ。このことを理解したら、私たちは死をまったくおそれなくなる。私たちは生きたいとも死にたいとも思う必要はない。運命は運命にまかせ、ただつねに永遠に、ハートを神に固定しよう。恐れることなく、断固として前進しよう。

 「眠りにつくまで、死ぬまで、あなたの心をヴェーダーンタの思想に占めさせよ」(Appaiah Diksita 著Siddhanta Lesa Samgraha「ヴェーダーンタの要点集」から)

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