瞑想と霊性の生活
霊性の探求(1)
若い王子シッダールタは、王宮の庭の一本の木の下にひとりすわって、深い思いにひたっていた。時は、真夜中、全世界はやみの中に静まりかえっていた。彼はいましがた、舞姫たちのうかれさわぎをきらって宴席をぬけてきたのである。彼のうちには、満たされない思いと空虚感がますます強く、深くなっていた。その時突然、不思議な声が聞こえてきた。耳をすますと、天上の人たちが次のようにうたっているのが聞こえた。
私たちは安息をもとめてうめく、だが安息はどこにも見出せない。私たちは、自分がどこからきたのか知らない。どこにただよって行くのかも知らない。むなしくも、わが道はどこに行くのか、またなぜこのむなしい遊びをしなければならないのか、知りたいと恋いこがれつつ。夢みる人よ、夢からさめよ、そして二度とふたたび、まどろむな。
脚注=エドウィン・アーノルドの「アジアの光」の中から有名な一節をギリシュ・チャンドラ・ゴーシュが翻案した。「シュリ・ラーマクリシュナの福音」にも出てくる。
シッダールタは座をたち、眠っている妻と子に最後の一べつを与えて、ついには彼をブッダ、すなわち覚者とする、あの歴史的な旅に出発した。ブッダ一人だけが霊性の道を歩んだわけではない。カタ・ウパニシャッドは次のように言っている、「立ち上がれ! 目をさませ! そして、偉大な師たちについて、真理を悟れ」と。(カタ・ウパニシャッド一−三−一四)ほんとうに、有史以前から、聖典を通して、神は人に向かって、十字架をおうて彼に従え、と呼びかけてこられたのである。そしてこの呼びかけに応じて東洋でも西洋でも、何千という人びとがあらゆるものを放棄して、超意識の領域をめざすこの旅に出発した。普通の人びとにとっては、この世とそこでの楽しみが非常に重要である。しかし、永遠なるもの、無限なるものに飢え渇いている人びとがいる。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの、真理へ不断の探求と努力を思ってごらんなさい。彼は並はずれて純粋で、力強く、美しく、聡明で、しかも才能に恵まれており、彼が望みさえすれば、この世の生活でいかなる高い地位にも到達しえたであろうと思われる。家族が貧しく困っていたことも、彼を世俗の生活に引き入れようとする、もう一つの大きな力であった。しかし、これらすべての誘惑にもかかわらず、彼は放棄と奉仕の道をえらんだのである。
いつかは、誰の生涯にも、彼が霊的理想の呼びかけを感じる時がくるにちがいない。そのような呼びかけがきた時には、彼はそれに耳をかたむけずにはいられない。そうなれば、この世の何ものも、彼に満足は与えない。彼はその崇高な呼びかけの命令に従うまで、平安を見いだすことはできないのである。この内なるめざめと、もっと高い理想に従おうとするやむにやまれぬ衝動が、霊的の生活の始まりのしるしである。それからは生涯を通じて、霊性の理想が彼を魅惑し、絶えず彼のこころに去来する。世俗の理想の追求から霊性の理想の追求に変わることが、「回心」と呼ばれるものである。霊性の生活はそこから始まる。この回心はある人の場合には突然に起こり、またある人の場合には緩やかに展開する。いつでも、どこの国でも、そのような真の回心を経験する人びとの数はあまり多くはない。あなたが好む好まないにかかわらず、真の霊性の生活は選ばれたごく小数のためのものである。大衆が霊的になる、というような理想はどんなにりっぱなことと思えても、そんなものはありえないのだ。「何千人の中のごく小数が霊性の生活につき、その中のさらに僅かの人びとがほんとうに最高の超意識の悟りに到達する」とバガバッド・ギーターはいっている。しかし私たちはみな、「自分たちはその選ばれた小数である」と考えて、その最高の理想を実現するにふさわしい人になるよう、努力しなければならない。
求道心は、まれなる神の恵みである
宗教の領域にもある種の貴族階級が存在する。偉大な聖者たちと賢人たち、すなわちあらゆる宗教の悟れる魂たちは、おのずとひとつの階級を形づくる。しかし世俗の貴族とはちがって、これらの霊性の貴族たちは、常に喜んで彼らの富を他のものと分かちあおうとしている。彼らにとっては、自らが享受している楽しみを他の人に与えるのが最高の喜びなのである。しかし残念なことに、霊性の生活という宝物をほしがる人は実に少ない。大部分の人びとは霊性の邸宅の気持ちのよい暖かさを楽しむより、世間という残飯の中でころげまわりたいのである。あなたは馬を水場につれて行くことはできる、しかし馬が水を飲みたいと思わなければ、それに飲ませることはできない。それだからあなたは、何人が、霊性の道をあゆんでいるかと見まわす必要などはない。あなたが高い理想の呼びかけを感じたら、あなたがそれに従い、それの条件をみたすための努力をしなさい。ほかの人がその呼びかけに注意を払わなくても、あなたはたいして、彼らを助けることはできない。霊的生活では、分かれみちをさけることはできないのだ。
シャンカラチャーリヤは次のように言っている。「人間として生れること、解脱の願望、および聖者にあうこと、この三つは、非常にまれであり、主の恩寵によってはじめて得られるものである」と。しかしこれら三つの恩寵だけでもまだ不十分である。私たちはそれらのおかげを得ようという熱意を持ち、霊的生活のためには喜んであらゆるものを犠牲しなければならない。人生の至高の目標に達するためには、どんな試練にも耐え、どんな代償でも払おう、という覚悟がなければならない。私たちは、何かの理由で自分の心が高く永遠なものに引かれるようになったことを非常な幸運であるなどおもい、目標に達するまでは決して気をゆるめず、その高い道に沿って着実に、ゆっくりと前進するよう、注意すべきである。霊的情熱は途切れることなく維持されなければならないのだが、私たちはともすれば、なまけるという危険をおかす。多くの人は、ある期間、霊的な生活をした後、その努力をやめてしまうのだ。彼らの心は、この霊的な情熱と厳しさを長く維持し、修行、読書、研究を着実に根気よくつづけて行くには落ちつきが足らず外向的にすぎるのだ。それだから、私たちは十分に用心しなければならない。頑固な根気よさだけが、霊性の生活に必須なものである。すべての進歩は、決して気をゆるめたりなまぬるくなったりすることを自分にゆるさない、着実さと頑固さがあってはじめて、得られるのである。ワーズワースは、彼の有名な詩の一つ(「不死をほのめかすものへの頌歌」)のなかで、「我らの誕生は、ひとときの眠りであり、ひとときの忘却であるにすぎない」と言っている。ほかの詩(「この陸は私たちには多すぎる」)では、彼は「この世は私たちには多すぎる。おそく、そして早く、得て、そして、使いはたし、わが力を消費している」といっている。私たちはこのような形で自分の時間を消費すべきではない。
この世には永遠に続く満足はない
私たちはしばしば、何かを手にいれたときに、自分はほんとうは、これを欲していたわけではない、と気づく。私たちはあるものを求めていたかも知れない。しかしそれが手にはいった時、その願望は消えていて、それに代わる別の願望が生まれていることを知るのだ。多くの人が自分のあこがれの真の性質をとり違えて、それらを世俗的な方向にむけている。しかし実は、いかなる人間のあこがれも、永続的ではないもの、不変的でないものによっては決して満たされることはないのだ。この点では、人びとがどんなに、自分をあざむこうとこころみても無駄である。相変わらずの虚無感が繰り返し繰り返し、しかも多くの場合、前よりもっと恐ろしく無慈悲な形でつきまとう。人びとは幸福を、外部の対象の中に、男女の身体の姿の中にさがしもとめる。しかし真の幸福は私たち自身の内にあるのだ。それは私たち生得の、奪われることのない財産なのである。外界の事物は決して私たちに真の幸福はもたさず、少しばかり得たと思っても、それはすぐに消えて行く。私たちは、自分の全生涯を見ないである一時期を見る、という誤りをおかす。たしかに、世俗の関係、すなわち人間的愛情、人間的情熱の中にも、一時的な幸福はある。しかし一時的な幸福は決して真の幸福ではなく、むしろそれはその反対である。真の幸福は、内なる自己に固有の性質である。私たちは自分の本性を知ろうという、自分の真の自己を知ろうという願望を持とうではないか。自己自覚の中にのみ真の至福はあるのだ。
人の高い自己は神の一部であり、実際にはそれと不可分のものなのであるが、それでも、信仰者は自分の魂より神を重視する。彼にとっては、神のみが、すべての平安と至福の貯蔵庫である。私たちは自分の内を見つめ、神が自分のハートのなかに座っておられることを知るように努めをければならない。私たちのこの体は、神の生きた神殿である。これが、すべての聖典のなかで繰り返し強調されている概念である。しかし、神の最上の神殿は、偉大な預言者たちとリシたちである。それだから、彼ら最も偉大な影響力をもっているのである。自分の魂の中で真理を悟った人だけが、他のものに悟りへのみちを教えることができるのだ。主は常に私たちの心の背後に、私たちの人格の背後におられる、そして私たちが熱烈なハートで祈ることができさえすれば、その祈りは聞き届けられるのだが、そうでないと、だめなのである。私たちは祈っている間は決して、世俗の幸福について考えてはならない。普通に理解されている幸福は、霊性の生活の真の目もりではないし、決して進歩や悟りの証拠ではない。霊性の幸福は、通常の幸福とは別種のものであり、それは「あらゆる理解を越えた神の平安」(新約聖書、ピリピ人への手段四一七)である。 私たちは世俗の事物を神に求めるべきではない。かりに神がそれらを下さるとする。物質的な物はまた災いをもたらすだろう。恩恵を与えてくださるこの偉大な存在に近づくとき私たちは決して、個人の願望と結びついた世俗の事柄を求めてはならない。世俗の海に溺れて物質的な事物に夢中になるようなことのないよう、魂をお救い下さい、とだけねがって、主に近づくがよかろう。私たちは通常、不幸だと感じると、自分のあり方を変えて真の真理と至福に至ろうとするよりむしろ、自分をその不幸に順応させて、自分の欲望や妄想に一層執着する。私たちは他の何物よりも身体の快楽に重きを置くほどに身体に束縛されており、それを放棄する覚悟はできていない。繰り返し繰り返しけられたり打たれたりするだけなのに、死にもの狂いで別の形にしがみつく。マーヤーすなわち無知の驚くべき力は、そのようなものなのである。
父なる神または母なる神は、子供たちの遊びを見ておられる。子供がそのおもちゃや子供じみたしぐさにあきなければ、主はほんとうに子供のところにきて、彼を妄想の遊び場からつれ出しては下さらない。子供達は、キャンディ、人形、おもちゃの兵隊、おもちゃの家、おもちゃの自動車などで遊んでいる。彼らがそれらにあきていやりなり、それらに背を向けるまでは、主は何もおできにならないのだ。神はそれを大層面白がっておられる。そしてやがて、ある日、その子がすこしおとなになって、「私はいったい何をしていたのだろう」と叫ぶ、すると主は次のように言われる、「わが子よ、その通りだ、一体おまえはいままで何をしていたのだ、そのようなことをせよと誰がおまえにたのんだのだ。そのようなバカげた仕方でいつまでも遊び続けるよう、誰がおまえに頼んだのか。自分のおもちゃで傷つき、おもちゃに夢中になるよう、誰がたのんだのか。誰がそういうことをしたのか」と。けれどもしばしば、時はすでにおそく、その子はめちゃめちゃになった人生の廃虚に座って、泣くのだ。
最高なるものをもとめての奮闘努力
私たちはみな、もっと健全でもっとよい生き方をする機会を与えられているのだが、めいめいのおもちゃに執着して、それから手をはなそうとしない。それで私たちは苦しまなければならず、さまざまの方法で人生が繰り返し繰り返し教える大きな教訓を学んで賢明に行動できるようになるまで、苦しむのだ。多くの人が世俗の大望と理想を実現しようと熱心に努力するのと同じように、私たちは霊的生活と悟りのために努力しなければならないのだが、多くの人はそれをしない。私たちが世俗的な生活をするか、霊性の生活をするか、あるいは奴隷の不安な生活をするか、安心な自由人の生活をするかは、ただ私たちの選択次第である。
私たちは、変化したり朽ち果てたりしない。もっと高いあるものを得るように努力しなければならない。しかししばしば、わざわざ、アヴィデャ(無知)の道をえらぶのである。それは、遅かれ早かれ結局はすてなければならない肉体および感情の楽しみという幻にしがみついているからである。私たちはいつかは、一人の例外もなくおもちゃは手放さなければならない、自分でそれをしなければおもちゃはむしりとられるであろう。これは私たちを深く悲しませ、絶望させるのだ。多くの人にとって、これがその教訓を学びとる唯一の方法なのであるが、それは非常な苦痛をともない、通常いくたびもの生まれ変わりを必要とする。私たちは意識して、ひたむきな精神でひとつの目標をめざし、霊的な生活をしなければならない。私たちのこの意志は、私たちの好みに応じて、高い方向にもむけられるし、低い方向にもむけられるのだ。目標に到達しようとする非常に強い情熱を自分の内にめざめさせることができたときにはじめて、最前の努力に必要なエネルギーは生まれて来る。あなたは霊性の世界においても頭脳の混乱している人をたくさんみかけるであろう。彼らは系統だった修行に関心をもたず、自分の感情と衝動という、はてしない海の上をただようことを好んでいる。それだから、まったく外向的で世俗的な人びとと同じように、実際には何も得ることはできない。頭脳の混乱している人は決して、世間で成功することはできない。霊性の世界においてはなおさらである。あなたが本当にのぞんでいるのは何であるのか、それをはっきりと決めなさい。私たちは、本当は平安を得たいと思っているのに、結局不安と災難とに終わる道をあゆんでいることが多い。ベンガルには次のようなことわざがある。東に行きたいと思って、西に向かって歩き始める人たちがいる。彼らはなぜそうするのかと聞けば、「わたしは北の方に行きたいのだ」と答える。
真理の試金石
恋人が、愛する人を夢見るときには、全く現実性がないことを想像する。気の狂った人もまた、現実には全く存在しないことを想像する。霊性の生活では、あらゆる幻覚、妄想は避けなれればならない。私たちは系統だった霊性の修行に従うことによって、真理の片鱗をかいま見るよう、努力すべてきである。もしこのような真理の瞥見(べっけん)が無自覚な状態の中に起こり長い規則正しい訓練による、それにふさわしい準備ができていないと、その反動は恐るべきものであって、一生涯、私たちをわずらわせるかもしれない。私たちはまず第一にそのような経験を永久にわがものとすることができるよう、それをうけられるにふさわしい状態となることを学ばなければならない。霊性の開発は、最初は、求道者に幸福ではなく、苦痛をもたらす、中途の段階では、彼の生活は極めてむずかしくなる。その時、彼はもはや、世間の持物には真の興味を持つことはできず、さりとて自己自覚もまで得てはおらず、それはまだ彼の到達できる距離を越えたところにある。上がることも下がることもできず、まるでちゅうぶらりんの状態にあるようだ。
真理の試金石は次のようなものである。あなたは世俗の事柄と世俗の関係の中では決して最終的な満足を得ることはできないが、霊性と霊的生活の場合には、外部のものに依存しない、完全な満足を得ることができる。それゆえ偉大な聖者ナーラダは次のように言う。「かのもの(神の愛)を悟ることによって、人は完全、不死、および空極の満足を得る」
本当にのどが渇いた人は常に水をほしがる。しかし渇いていない人は、水がなくても長いことやってゆける。本当の真剣な求道者は、教えられたことをすべて実行するであろう、しかしあまり熱意のない人やあまり真剣でない人は急いで与えられた教えに従おうとはしない。
また私たちが欲しているのは不純な水すなわち非常に汚れている水ではなく、最も純粋な水である。私たちは本当にのどが渇かなければならないのだが、決して、善くないもの、不純なものを求めてはならない。
真理は努力なしには悟れない。たしかに、人生すべてが努力である。誰もが何かを求めて努力している。しかし霊的努力は、より高い努力である。それはさとりを求めての努力である。努めよ、努めよ、努力せよ! それ以外に方法はないのだ。努力を恐れないようにしようではないか。