スワミ・ヴィヴェーカーナンダの思い出(4)
私がみたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ
シスター・クリスティン
サウザンドアイランド・バークでの教え
私たちは全員クラスの講義に出席した。ヒンズーにとっては教えそのものは別にめずらしいものではなかっただろうが、それは情熱と権威と自覚との裏づけをもって説かれたので、全く新しい教えであるかのような印象を与えた。彼もまた「権威あるもののごとくに語った」のである。すべてが全く耳新しい私たち西洋人にとって、それはまさに、ある輝かしい天体から一個の存在が希望と歓喜と生命の福音をもって降臨したかのように感ぜられた。宗教は信じることではなく、経験するものである。ある国について本を読んでも、その国を実際に見るまでは本当のことが分からない。一切は内にある。天国や教会や寺院に求める「神」は、実は私たちの内にあるのだ。私たちが「神」を外に見るとすれば、それは「神」を内に見たからである。私たちがこのことを悟る方法、私たちが神を見る方法は何であろうか。精神統一は暗闇を照らす照明である。
異なる進化の状態に応じて異なる方法がある。すべての道は神に通じる。ダルはあなたの発展に最も適した道をあなたのために選んでくれる。理性に従ってよいばかりか、理性に従わなければならないのだ、ということをきいて、私たちはどれ程の解放感を味わったことであろう。それまでは、理性と直感は一般に相互に対立するものである、というふうに思われていた。ところが今、より高いあるものに達するまでは理性を固守しなければならない、ということを教えられた。そしてこのより高いあるものは、決して理性と対立するものではないのである。
最初の朝、私たちは、サマーディと呼ばれる、表面意識よりも一層高い意識の状態がある、ということを学んだ。私たちがふつう行なっている意識と無意識の二つの区分の代りに、潜在意識と意識と超意識との三つに区分するほうがもっと正確であろう。意識を、潜在意識または無意識と現在意識とに区分する西洋的なものの考え方に混乱が生ずるのはここである。彼らは、通常の精神状態のみを認めて、意識をこえた一つの状態――超意識の状態、霊感、があるということを忘れている。これが一層高い状態であるということは、どうして分るか。スワミの言葉を文字通り引用すれば、「前者の場合、ひとは愚者として入り、愚者として出てきますが、後者の場合、ひとは人間として入り、神として出てきます」彼はいつもこう言った。「超意識は理性と矛盾しない、ということを忘れないで下さい。超意識は理性を超越したものであって、決してこれと矛盾することはありません。信仰は信念ではなく、『究極者』の把握であり、明知であります」
真理は、あらゆるもののために、あらゆるものの幸福のためにある。秘密( secret )なものではなく、神聖(sacred )なものである。真理に至る道順は、まずそれについて聴くこと、それから考えることである。「まず理性の洪水をその上に注ぎかけ、次にそれについて瞑想せよ。心をそれに集中し、みずからそれと一体になれ」沈黙のうちに力を蓄積して、霊性の発電機となれ、乞食は何を与えることができよう。王のみが与えることができる。しかも彼が自分のために何ものも求めようとしな一時にのみ、与えることができるのだ。
「あなたの金銭を神の所有物の管理人として保管せよ。それに執着するな。名と名誉と金銭を放棄せよ。これらは恐るべき束縛である。自由の素晴らしい雰囲気を味わえ。あなた方は自由である、自由である、自由である!おお、私は祝福されている!私は自由だ!私は無限者である!私は自分の魂の中に始めを見ない、終りも見ない。すべては私の『自我』である。これを絶えず言いつづけよ」
彼は私たちに、神は真実であり、それは他のどのような実体とも何じように確実に経験し得るところの一つの実在であると語り、またこれらの経験を護得する方法、研究所の実験方法と同じような正確な方法がある、ということを語った。心はその道具である。賢者、ヨーギおよび聖者たちは、有史以前から、この「自我」の科学の中で多くの発見をした。彼らは、その知識を貴重な遺産として、その直接の弟子たちのみならず、後代の真理探求者たちにも残した。この知識は、まず最初に師から弟子に伝えられるが、普通の教師が用いるのとは非常に違った方法で伝えられるのである。私たち西洋人が受けてきた宗教の教育方法は、実験の結果だけを教えるやり方、まるで幼児に算術の問題を与えて答えはきかせるが問題の解き方は教えない、とでもいうようなやり方である。私たちは、人類がかつて知った偉大な霊的天才――仏陀、キリスト、ゾロアスターおよび老子が成就した結果を教えられてきた。彼らの偉大な実験の結果を受け入れ、それを信ずるように教えられてきた。もし私たちが充分に敬虔であり献身的であるならば、また、もし私たちが理性を超越したある実在があるに違いないとわかる程度の進化の段階に達しているならば、私たちはそれを盲目的に受け入れ、信ずることもできるであろう。それにしても、そのような信念は私たちを変えるような力はもたない。人間から神を造ることなどはできない。ところがいま私たちは、その結果を護得する一つの方法があるということを、その方法はインドではグルから弟子にと伝えられて決して滅びなかったということを教えられたのである。
私たちは生れて初めて一切の宗教がなぜ道徳で始まるのかその理由がわかった。誠実、不殺生、不窃盗、克己、清潔、厳格がなければ霊性はあり得ない。西洋では多くの人々にとって、道徳と宗教は殆んど同じである。それは私たちが実行することを要請されている唯一の具外的な事柄であって、通常それ以外には何もないのである。私たちはイエスのもとへ出掛けて「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねた青年のようなものであった。イエスは答えた。「いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな』」青年は答えた。「主よ、それらの事はみな、小さい時から守っております」いま私たちは、ヨガや、サマーディや、他の神秘的な事柄について間きたいと思っていた。めずらしくもない事柄をこのように強調されるのはやや音心外であった。しかし私たちは間もなく、それが同じものではないことを知った。それはいままで考えられたことのない程の徹底性を意味していたのである。理想は、思いにも言葉にも行ないにも実現されなければならない。もしこのことが十二年間実行されるならば、その時、その人によって語られる言葉はすべて実現するであろう。このようにして完成の域に達した者が「汝、いやさるべし」と言えば、たちまちいやされる。「恵みあれ」と言えば、祝福され、「自由になれ」と言えば、解き放たれる。このような力を持っ人たちや、一度話した言葉を取り消すことのできない人たちのことなどが話された。スリ・ラーマクリシュナの父はすでにこのカを得ていた。彼にあのような息子が生れた理由もそれでうなずけるであろうか。その次にはスリ・ラーマクリシュナ自身の生涯である。「月曜日にまたきなさい」と彼は青年に言った。「月曜日にはこられません。仕事があるのです。火曜日でよろしいでしようか」「いけません」と師は答えた。「この后が月曜日と言ったのです。いま他のことは何も言えません」「真理を修行して心が完全にならなければどうして真理がやってくることができましよう。真理は真実な人のところへやってきます。真理が真理を惹きつけるのです。言葉や思いや行為はことごとくはねかえります。真理は真理にあらざるものによってくることはできません」現代では、一部の人々から世界で最も偉大な人として尊敬されているマハトマ・ガンディを例に挙げることができよう。真理と不殺生の修行がひとを何処まで連れていくかというよい例である。ガーンディは今日の世界にあって最も偉大な人間ではないにしても、最も偉大な人格者の一人であるということは確かである。
言葉や思いや行為で他人を傷つけないこと。インドにはこれを主に「不殺生」に適用している宗派がある。彼らは菜食主義者であるばかりか、生命のより低い形態をも傷つけまいとしている。自分たちの目を布で覆って微生物が近づくのをさけ、また足下にあるどのような生命であろうとも、それを傷つけまいとしてゆくてをはき清めるのである。しかし、それはまだ不充分である。たとえそのようにしても、殺すことの避けられないような極微の生命がそこには残るのである。それでは充分とはいえない。ひとは、不殺生で完成の域に達した時には殺害するカを失なっているのである。「生きとし生けるものに、われよりは危害及ばされ」という言葉は、彼にとって事実となり、生ける真理となり、実在となっているのである。そのような者の前に、ライオンと羊は共に伏す。あわれみと同情とがおきてを全うしてさらにそれを超越したのである。
克己――純潔。この主題は彼をいっも深くゆり動かした。部屋の中を行きつ戻りつしながら、そして次第次第に興奮しながら部屋の中には他に誰もいないかのように、ある一人の前に立ちどまって「分りませんか」と熱意をこめて言うのだった。「あらゆる僧団において純潔が強調されているのには理由があるということが。霊性の巨人は純潔の誓いが守られているところにのみ生れるのです。これには理由があるということが分りませんか。ローマン・カトリック教会は、アッシジの聖フランシス、イグナチウス・ロヨラ、聖テレサ、二人のカサリンなど多くの偉大な聖者たちを生み出してきました。プロテスタント教会は彼らに匹敵するような霊性の巨人を出していません。偉大な霊性と純潔との間にはつながりがあるのです。これらの男女は、祈祷や瞑想を通して肉体の持つ最も強力な力を霊性のエネルギーに昇華させたのです。インドではこのことがよく理解されています。ヨーギはこのことを意識的に行ないます。このようにして昇華した力はオディヤスと呼ばれ、頭脳に蓄積されます。それはクンダリニの最も低い中心(ムラーダーラ)から最も高い中心へ引き揚げられたのです」これらの言葉をききながら、私たちは「われ高きに揚げられなければ、すべての人々をわがもとにひき揚げん」というイエスの言葉を思い出していた。
彼は同じように熱心に、およそ力または天才のひらめきが現われるのはことごとく、この力のいくらかがスシュムナーを通して洩れたのである、と説明しつづけた。これは彼の言葉であったか、それとも、私たちがおのずから思い到ったことであったか、はっきりしないが、それだからこそ、アヴァターラ(化身)たちは勿論のこと、それより下位の聖者でさえも、ガリラヤの漁夫たちをして網をすてて若い大工に従わせるほどの偉大な愛、釈氏の王子たちに財宝領地を捨てさせるほどの偉大な愛を鼓舞することができたのではなかろうか。とにかくそれは、神の引力、神からの誘いだったのである。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダがこの主題を持ちだす時には、どんなに涙ぐましいほど熱烈だったことであろう。彼は、この教えを最も貴重なものとして順奉することを私たちに乞うかのように嘆願した。それどころかもし私たちが、この点でしっかりしなければ、彼の求める弟子たる資格を失うかのようであった。彼は意識的な昇華を要求した。「忍耐のないものには何も統御できない」と彼は言った。「私は若さの絶頂にある五、六人の青年がほしい」
苦行!あらゆる宗教の聖者たちはなぜ断食と自己否定、肉体の苦行に憂き身をやつしてきたのか。確かに、おろかにも肉体を征服すべき一つの敵であるかのように考え、所期の目的を達成するためにこの方法を用いた人々もある。しかし書付の本当の目的は意志をきたえることである。普通の意志の力では眼前にある大きな仕事をやりとげることはできない。私たちは、はがねのような神経と、意識的に訓練され、鍛えられた鉄の如き意志を持たなければならないのだ。抑制の一つ一つの行為が音曲志を強固にする。インドではこれをタパスと呼び、字義的には、熱すること、つまりより内面的でより高次な性質を熱することを意味する。これはどのようにして行なわれるのだろうか。任意に行われる種々の修行法がある。たとえば沈黙の行を数ケ月間するとか、一定期間断食するとか、一日に一度しか食事しな∵こかである。子供の場合にはしばしば好物をたべな∵という形で行われるこの誓いは一定期間自主的にたてられなければならない。もしこの誓いが守られないと、益よりも害の方が大きい。守られれば、もっと高い修行にふさわしい性格をきづきあげるのに大きな助けとなろう。
瞑想についての二、ご一の心得以外にはきまった指図というものは殆んど与えられなかった。しかもこの僅か数日の間に、私たちの考えは変革し、視野はとてつもなく拡大し、価値観は変貌した。それは言わば一つの再教育であった。私たちは、明確に、そして恐れることなく、思考することを学んだ。霊性の概念は明確になったばかりでなく、通常の解釈の枠を越えて拡大した。霊性は、生命、カ、歓喜、炎、輝き等―一切の美しく建設的なものをもたらし、決して無気力、鈍感、弱さをもたらすことはない。ではひとはこの並はずれた力を持っ神の人を見出してなぜそんなに驚いたのか。西洋ではなぜいつも憔悴や貧血症を霊性と結びつけてきたのか。いまふり返ってみると、私たちはどうしてそれほど非論理的であり得たのか、不思議でならない。霊性は生命、シャクティ、聖なるエネルギーである。
彼の正式な教えを、その偉大な中心思想を繰返して述べることは不必要であろう。それらは各人が自分で読むことができる。しかしそこには他の何ものかがあった。影響力、束縛を脱したいという願いにみちた一種の雰囲気、それを何と呼んでもよろしいが決して言葉では現わせない。しかしながらそれでいて如何なる言葉よりも力づよい何ものかがあった。私たちが言葉につくせないほど恵まれていると感じたのはこのことであった。彼が「この生命に対する見苦しい執着」と言うのをきくと、私たちの前には生命を越えた領域への幕が開かれ、かの輝かしい自由に対する願望が私たちのハートの神に植えつけられた。私たちは、マーヤーの網の目から逃れようと格闘する魂をみた。彼にとって、肉体は耐えがたい束縛であり、限定であるばかりでなく、品位にかかわる屈辱だったのである。「アザド、アザド、自由」と叫んで、彼は檻に入れられた一匹のライオンのように行ったりきたりした。そう、格子が鉄ではなくて竹でできていることを発見した様の中のライオンのように。「こんどは捕まらないようにしましよう」と言うのがある日のがれの「折り返し」であった。「何度となくマーヤーは私たちをとらえ、何度となく私たちは自分の自由を、水にぬれるととけてしまう砂糖人形と交換しました。こんどはとらえられないようにしましよう」こうして私たちの胸裡に自由へのつよい願望が植えつけられた。三つの必須条件の中の二つを私たちは持っていた―人体とグルである。いま彼は私たちに二番目のもの、自由になろうと欲する願望を与えつつあった。
「だまされてはいけません。マーヤーは偉大な詐偽師です。お逃げなさい。こんどは緩まってはいけません」等々。「あなたの貴重な世襲財産をそのようなごまかしの為に売ってはなりません。起きて目をおさましなさい。目標に到達するまで停まってはなりません」それから彼は燃えるようなまなざしで、指さしながら私たちの一人に向って突進して叫ぶのだった。「忘れてはなりません。神が唯一の実在です」狂人のように、気が狂うほどに神を求めたのである。彼が「サニヤーシンの歌」を書いたのはこの頃であった。私たちは自分の神性を失ったばかりでなく、自分がかつて神性を持っていたということすら忘れてしまったのである。「立て、目ざめよ、汝、不滅の浄福の子らよ」行きつ戻りつ、くり返しくり返し「人形にだまされてはいけない。それは砂糖の、塩の人形です。とけて空になります。王者であれ。そして世界があなたのものであることを知れ。このことは、あなたが世界を放棄し、世界があなたを束縛しなくなるまでは実現しないのだ。放棄せよ。放棄せよ」
生存のための闘争、富と力を獲得するための努力、または快楽の追求は、人間の思考、エネルギー、時間を消耗する。私たちは、まるで別世界にいるような気がした。達成すべき目標は、自由――私たちをとらえ、全人類をがんじがらめにしてしまったマーヤーの束縛からの自由であった。これを脱する機会は誰にでも、遅かれ早かれやってくるであろう。私たちの機会はすでにきていた。当時私たちの一切の希望、問いはこの一つの目的に向けられていたのであった―師によっては意識的に、私たちによっては師の影響に従いつつ無意識的に。
彼にとってそれは一つの情熱だった。彼自身ばかりでなく一切のあらゆる人々のための自由――もっとも彼といえども、マーヤーの鎖からの脱出を助ける燈火を受けいれた人々だけしか助けることはできなかったのであるが。
「絶て、汝の足かせを!汝をしばるいましめを、
輝かしき金色の、または色くらく品ひくき金属の
いましめを。
『オーム タット サット、オーム』と唱えよ」