スワミ・ヴィヴェーカーナンダの思い出(2)
私がみたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ
シスター・クリスティン

 

サウザンドアイランド・パークの弟子たち(その一)

 そのことは私たちが予期していたよりも早く実現した。一年余りの後には、私たちはサウザンドアイランド・パークで彼と同じ家に暮らしていたのである。私たちが向う見ずにも彼を探し出したのは一八九五年七月六日だったに違いない。私たちは彼が一群の学生たちと起居を共にしているということをきいた。「弟子」という言葉は今日ではむやみには使われない。これには普通の人が躊踏なく認めるような意味以上の意味が含まれている。私たちは自分たちの出席できるような公開講座があるだろうと思った。それ以上のことは考えてもみなかったのである。「スワミ・ヴィヴェーカーナンダのインスパイヤード・トークス」の序文の中でフンケ夫人は私たちの探索について語っている。

 その後につづいた素晴らしい数月間については、筆に尽くすことは難しい。私たちが当時置かれていたあの高い意識の状態にまで自分の心が引き揚げられる人でなければ、あの経験を追体験することはむずかしい。私たちは歓喜にみたされた。私たちは当時、自分が彼の輝きの中で生きているのだということを知らなかった。霊感の翼にのせて、彼にとっては当然の住処である高みへ運んでくれた。彼自身も、後に当時を回想して、「サウザンドアイランド・パーク」時代は最高の状態にあったと語った。その頃彼は、自分の教えをひろめる経路を、自分の使命を果す手段を、見出したと感じていた。グルが自分の弟子たちを見出したからである。彼の第一の圧倒的な願いは、私たちにムクティ(解脱)への道を示して、私たちを自由にすることであった。「ああ」と彼は深い情感をこめて言った。「私がひとふれで貴方がたを自由にすることができたらなあ!」多分、表面には現われてはいなかったが、常に底を流れていた彼の第二の目的は、アメリカで仕事をつづけていくためにこのグループを訓練することだった。「この教えは、インドではインド人によって、アメリカではアメリカ人によって、説かれなければならない」と彼は言った。木々のこずえや美しいセイント・ローレンス河を見はるかす自室の小さなベランダで、彼はしばしば私たちに演説するように求めた。その目的は、彼に従えば、私たちが独力でものを考えることができるようにするためであった。もし私たちが彼の面前で自意識を克服することができたなら、世界の偉大な雄弁家の一人である彼の面前で話をすることができたなら、どこのいかなる聴衆の前でもうろたえることはないだろう、ということを彼は知っていたのだろうか。それはつらい試練であった。一人一人が順番にやってみるよう求められた。のがれるすべはなかった。グループのある人たちがこの親密な夕方の集まりに出てこなくなったのは恐らくこうした理由からであろう。夜が更けるにつれて彼がしばしば最高処に飛翔することをみすみす知りながら。午前二時になったとてそれが何であろう。月が昇りまた落ちるのを見たからといってそれがどうしたというのか。私たちにとって時間と空間はすでに消えていた。

 上のベランダで開かれる夜の会合には規則や形式らしいものは何もなかった、彼はその一隅、扉の近くにある大きな椅子に坐った。時折、彼は深い瞑想に入った。そういう時には私たちもまた瞑想するか深く沈黙して坐っていた。時にはそれは数時間もつづき、一人また一人とその場を立ち去った。このような瞑想のあとでは彼があまり話をしたがらないことを私たちはよく知っていたからである。けれども、瞑想がすぐに終って、彼が私たちに質問をするようにすすめ、しばしばその中の一人に答えを求めることもあった。これらの答えがどんなに間違っていても、彼は私たちが真理に近づくまで、私たちをあがきまわらせた。そのあとで、僅か数語でその問題点を解決するのであった。これが彼の常に変らぬ教育法だった。彼は学ぶ者の心を刺激して自分で考えるようにさせる方法を知っていた。私たちが新しい考えや見解を確認してもらうために彼のもとへいって、「私はそれがこうこうしかじかであると思います」とやり始めると、「そう、それで?」という尻あがりの彼の返事が、いつも私たちをもっと考え直すようにと送り返すのだった。再び私たちがもう少し理解を深めてやってくると、再び例の「そう、それで?」が私たちをさらなる思索にかりたてた。特定の問題についての私たちの思索能力が限界に達すると(それは大方三回目の思索のあとであったが)彼は誤りを指摘してくれるのであった。その誤りは大低私たちの西洋的なものの考え方から来るものであった。

 こうして彼はつよい忍耐と深い温情で私たちを訓練してくれた、それは祝福というべきものであった。後に、インドに帰ってから、彼はヒマラヤに、東西両洋人の弟子たちを一緒にしてさらに訓練するための僧院をたてることを希望した。

 彼があの夏サウザンドアイランド・パークで自分のまわりに集めた人々――それは奇妙なグループだった。私たちが到着した時に道を尋ねたある店の主人が「そうです――あの丘の上にはおかしな人たちが住んでいます。その中には外国人らしい一人の紳士がおいでです」と言ったのは不思議なことではない。そこには、スワミがニューヨークで開いたクラスに一緒に出席した三人の友達、S・E・ワルドー嬢、ルース・エリス嬢およびワイト博士――がいた。三十年間、彼らは自分たちが聞きつけたかぎりの哲学の講演には欠かさず出席してきたが、それらのうちに一つとして、スワミの講演に多少なりとも近づいたものはなかった。そこでワイト博士は、新参の私たちに向かってこのように保証した。ワルドー嬢は多くの講演に出席したこの長い年月の間に一つの講演を数語で要約する能力を獲得していた。「インスパイヤード・トークス」は彼女のおかげでできたものである。その同じ年、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが英国にいった時、彼は彼女に幾つかのクラスをまかせた。そして彼が帰る時、彼女は自分をかけがえのないものにした。彼が「パタンジャリの『ヨーガ格言集』の註釈」を口述したのは彼女に対してである。彼女はまた「カルマ・ヨーガ」「ラージャ・ヨーガ」「ギャーナ・ヨーガ」「バクティ・ヨーガ」等の幾つかの書物の編集をたすけた。彼女の論理的に訓練された頭脳と全面的な献身とが彼女を理想的な助手にした。ルース・エリスはニューヨークのある新聞社の職員だった。彼女はしとやかで遠慮深く、滅多にしゃべらなかったが、彼女の愛と献身には限りがないことを誰もが知っていた。

 彼女は、私たちが「小さな年老いたワイト博士」と呼んでいる博士の娘のようだった。彼は七十歳を遥かに越えていたが、少年のように熱心で好奇心旺盛であった。各クラスの終りにはいつも休憩時間があった。その時、小さな年老いた博士はからだをかがめてはげ頭をなでまわし、それからひどくなまりのある鼻声で、「では、スワミ、それをせんじつめれば、『私は絶対者である!』ということですね」と言うのであった。私たちはいつもそれを待っていた。スワミジーは最も父親らしい笑みを浮かべて同意するのであった。このような時、七十歳の前にいるスワミの三十歳は、かぞえきれぬほどの年上に見えた――さびてはいるが老いてはおらず、あらゆる時代に属する叡知によって、むしろ年齢などを超越した賢さをたたえていた。時々彼は言った。「私は三百歳のような気がするよ」それを、嘆息と共に。

 下の部屋にはステラが住んでいた。私たちが彼女を見かけたのは、到着後数日たってからであった。彼女は滅多にクラスに現われなかったからである。私たちは理解するのに没頭し、彼女は禁欲的な修行に夢中になっていたので、クラスに出てくることができなかったらしい。当然、私たちの好奇心はかきたてられた。後になっていろいろなことがわかった。彼女は昔、女優だったのである。過去のサムスカーラは容易にぬぐい去られるものではない。これは急速におとろえつつある美しさを回復し、失われた若さを取り戻すためのもう一つの演技にすぎなかったのであろうか。なぜなら、奇異にひびくかも知れないが、文化のおくれた今日のアメリカでは、若さと美と健康と繁栄を示すことが霊性の証しとみなされているからである。彼の崇高な教えをそのように解釈する人があるなどということをスワミ・ヴィヴェーカーナンダはどうやって理解し得たであろうか。どの程度彼が理解していたか、私たちは興味をもった。それで、ある日、彼は言った。「私はあの赤ちゃんが好きです。彼女は全く飾らない」これに対して一同おし黙った。とたんに彼は全く態度をあらため、極めて重々しく語をついだ。「私は彼女を赤ちゃんと呼ぶ。赤ちゃんと呼べば彼女を子供のように飾らず、無邪気にすると思うからです」多分これと同じ理由で、彼は彼女のイシュタとして、彼女にゴーパーラすなわち「幼児クリシュナ」を与えたのであった。夏になって私たちが別れた後、彼女はオーチャード湖にある小さな島に移り住んだ。そこに彼女は小さな一部屋の家を建てて独りで暮らした。彼女について奇妙なうわさが流れ始めた。ターバンをつけているとか、ヨーガと呼ばれる薄気味のわるい儀式を行っているとか、いろいろな噂が。誰もヨーガの意味を知らなかった。それはインドとかかわりのある、なじみのうすい外国語、しかも神秘的で、秘教にかかわりがあった。新聞記者たちが彼女に面会を求めてやって来た。ある有名な新聞記者は当時得た彼の最初の成功についてこう語っている。彼は生計のためにエレベーター・ボーイをつとめていたが、ほど遠からぬ島でヨーガを修行しているこの若い女性について記事を書き『デトロイト新聞』に送った。それはすぐに採用されたので、彼は驚いた。地位も安定した後年になって彼はこう言った。「その後、自分の書くものは何でもすぐに採用されるだろうと思った」悲しいかな、名声への道はそれほど容易ではない。それは長い苦闘の昇り坂であった。彼の名がよく知れわたり、その原稿が敬意をもって注目されるようになったのは幾多の年月を経た後であった。それ以来、彼はヨーガの本当の意味を学んだ。そして彼にとってインドは観光者として行くべき所ではなく巡礼者として行くべき「聖地」であった。彼の最初の小説の舞台は主にインドでくりひろげられた。主人公が夕暮になってやっとあらわれるインドの一村落の姿を彼は同情と洞察をもって描いた。聖書を読むホームシックの流れ者は、二、三時間、またもやインドに住むのである。この成功のすくなくとも一部分はスワミ・ヴィヴェーカーナンダの影響に負うているということを誰が否めよう。ことに、この作家はスワミに個人的に接する機会を持ったのである。「ヴィヴェーカーナンダと何らかのつながりを持っている人は輝いている」と言ったのはほかならぬ彼であった。ステラは世間普通の生活に戻った。そして数ケ月前に彼女の死の報らせを受けるまで誰もその後の彼女については何も知らなかった。彼女が私たちとの一切のかかわりを、否、種子をまき水を注いでくれた人との関係をもみずから断って碁らしたその後の三十年のことは誰も知らない。ただ、あのようにしてまかれた種子は、まいたかいのある果実をむすんだ、ということだけは信じることができる。

 フンケ夫人については、スワミジーは「彼女は私を自由にしてくれる」と言った。彼が彼女と一緒にいる時ほどのびのびとした気分をみせることはまれであった。「彼女は天真らんまんです」とある時、彼は言った。これは彼女をおもしろがらせた。というのは、彼女は彼の気分に応じるためには努力をおしまなかったからである。多分私たちの誰よりもよく、彼がどんなに休息とくつろぎを必要としているかを知っていた。肉体と心をあのようにたえず緊張させておくのはよくない。他のものたちがひとことでも聞きもらすのを恐れていた時、彼女は彼をおもしろがらせることに腐心した。彼女はしばしば自己の体面を儀牲にしてこっけいな話をした。そして陽気におもしろおかしくお喋りをした。「彼女は私をくつろがせてくれる」と彼はある者に言った。その同じ者に向かって彼女は言った。「私は彼が私を馬鹿だと思っているのを知っている。けれども、それが彼を楽しませているかぎり私は気にしない」と。多くの与えるものを持っている人から何ものをも取り込もうと欲しなかった彼女の態度のせいであろうか、彼の人柄の印象を他の誰よりも歪めずに彼女が記憶しているのは。彼女の快活な気質、楽観主義、情熱は実に気持ちがよかった。彼女は他の面でも人に愛される素質を持っていた。美しく、優雅で、並はずれた魅力は身体の自由を失った今日でも依然として残っている。スワミについての話ほど彼女の情熱の火を再び激しく燃え上らせるものはない。彼は生きている。ひとは彼が実際に眼の前にいるのを感しる。それは祝福された経験である。彼女が今や全く重荷になったその肉体を捨て去る時、暗闇が輝いてその輝きの中に一個の姿、彼女に偉大な贈物、すなわち自由を与える光り輝く姿を見出すであろうことはうたがいない。

 スワミが選んだ他の二人は、狂信は方向を誤った力であるという、当時彼が抱いていた理論から生れたものだった。もしこの力が変形して高次の経路に導かれるならば、それは善のための大きな力になる。とにかく力はなければならない。力は欠くべからざるものである。マリー・ルイーズとレオン・ランツベルクの二人の中に、彼はかなりの狂信性を見出したが、そこには貴重なものとなりうる一つの材料があると信じていた。マリ・ルイーズはある意味でこの小さな町では目立つ存在であった。五十歳位の背の高い、骨ばった婦人で、その姿があまりにも男性的なので、女であることを確かめるために人はもう一度みなおすくらいであった。彼女は自分の進むべき道は最高の道、すなわち哲学――ギャーナの道である、と宣言した。彼女は急進的なグループのスポークスマンをしていたことがあり、学識があり、かなり雄弁であった。「私は演壇という磁力を持っている」と彼女はよく言った。彼女の虚栄心と個人的野望は彼女に弟子としての資格を失わせ、スワミの運動の働き手としても役に立たない者としてしまった。彼女はサウザンドアイランド・パークを私たちよりも先に去り、間もなくカリフォルニア州に独立のヴェーダーンタ・センターを、後にはワシントン州にもセンターを組織した。

 このグループの中で最も興味をひきそして学識のあった人は、アメリカの国籍を持ったロシヤ系ユダヤ人、レオン・ランツベルクであった。彼はユダヤ民族のあらゆる偉大な資質、つまり情操、想像力、学問に対する情熱および天才を敬う心を持っていた。三年間彼はスワミ・ヴィヴェーカーナンダの離れがたき伴侶であり、友人であり、秘書であり、侍者であった。ヨーロッパとその哲学、言語、文化に関する彼の詳しい知識は、彼の心をまれにみるほど広く深くしていた。彼は情熱的で、趣きのある人であった。自分のなりふりへの無頓着、熱狂、一つの情熱にまで達した貧しい人々に対する隣れみの情などがスワミジーを彼に惹きつけた。彼はしばしばその最後の一銭まで貧乏人に与えた。そしていつも持てるものの豊かさからではなく、受ける側と殆んど同じ位の貧しさの中から与えた。彼はまたニューヨークの一新聞社に職を持っていたが、短時間の勤務しか要求されない代りに収入も少なかった。彼とスワミジーがニューヨークの三十三番街に一緒に暮らしていた時、彼らは持てるものを分ち合った。二人にとって充分なだけあることもあったが、何もないこともあった。夜、クラスが終ったあと、彼らはよく散歩に出かけたが、共同の財布がしばしばからだったので、安価な軽い食事をとって帰宅した。二人ともこのようなことではすこしも悩まなかった。彼らは、金は必要な時には自然に財布に入ってくるものである、ことを知っていた。

 ランツベルクは、ヨーロッパおよびその哲学・文学・芸術の縮図だった。スワミジーは本を読むことよりも人を読むことに大きな楽しみを感じていた。それからまた彼はユダヤ民族の――栄華と悲劇の啓示であったし、この交友の中に、二つの古代民族は相会し、一つの共通の場を見出したのだった。

 ランツベルクはサウザンドアイランド・パークにきて最初に入門式をゆるされた一人であった。彼は当時のならわしに従って、新しい名を与えられた。その深い同情心ゆえに彼はクリパナンダと名づけられた。彼の道はバクティ、すなわち礼拝と帰依の道であった。この中に、彼の炎のような情熱的性質はもっとも容易にその真の表現を見出した。彼は教えを説くために派遣された最初の一人だった。

 デトロイトを去った後、スワミジーはニューヨークに行った。アメリカの文化の首都で、自分が果さなければならぬと感じた仕事を開始するための活路を見出し得るだろうと期待して。彼は間もなく、彼を愛し、尊敬し、その人格に惹きつけられた富裕な人々から成る友人グループにとりかこまれたが、彼らは彼の教えには全く無関心であった。彼は自分が社交界の流行児になる危険にさらされていることを見出した。ぜいたくな衣食住を与えられていたのである。そこで再び自由への雄叫びがあがった。「これではない! これではない! このような状況で私は決して自分の仕事をすることはできない」

 それで彼は、ひとりで住んで一般に公開されたクラスで教えていれば多分道は発見されるだろうと思った。彼はランツベルクに二人が共に住めるような安い部屋を探すように頼んだ。(西六十四丁目三十三番地)に見つけたその部屋は最も好ましくない地域にあり、真面目な人々、特に淑女たちはこんな所にはこないであろう、と言う人もあった。しかし、彼らはきた。あらゆる種類と階級の男女がこのむさくるしい部屋にやってきた。彼らは椅子がいっぱいになると、到るところに、テーブルの上に、洗面台に、階段に、坐った。百万長者たちが喜んで床の上に、文字通り彼の足もとに坐った。講議には料金はとらなかったのでしばしば部屋代が払えないことがあった。そういう時にはスワミジーは聴取料をとることのできる宗教以外の題目の講演をした。その冬の間中、彼はできるかぎり活動した。しばしば最後の一銭まで使われた。それは仕事を継続させるには心もとないやり方だった。そして時にはもう駄目になるだろうと思われることがあった。

 資力のある二、三の人がこの仕事を金銭的に援助しようと申し出たのはこの頃だった。だが、それには条件がつけられた。「ふさわしい場所」が選ばれ、「ふさわしい人々」が集められなければならない。これは彼の自由なサンニャーシン的精神には耐えがたいことであった。彼がこの世を放棄したのは何のためであったか。彼が名と名誉を捨てたのは何のためであったか。すこしばかりの経済的安定はすてても惜しくはなかった。彼は人間の援助には頼りたくないと思った。この仕事が彼のなすべき仕事であるなら、手段や方法はおのずと与えられるであろう。彼は常識的な外見や世俗的な方法と妥協することを拒絶した。この頃書かれた彼の一通の手紙はその間の事情をよく伝えている。

 「……私を「ふさわしい人々」に紹介したいと言う。唯一の「ふさわしい人々」とは主がおつかわしになった人々です――これが私の人生経験を通して理解したところです。彼らのみが私を助けることができるし、また助けるでありましょう。他の人々については、主よ、彼らをまとめて祝福し給え、そして彼らの中から私を救い出し給え……主よ、汝の慈悲を信ずることはなんと難しいことでしょう! シヴァ神よ! シヴァ神よ! どこに正しい人々がいてどこに悪い人々がいるというのか。ことごとくが主であるのに! トラの中に羊の中に、聖書の中に罪人の中に、いますものは皆、主なのです! 『彼』の中に、私は隠れ家を求めてきたのです、身体の、魂の、アートマンの。今日までずっとその腕の中に抱きつづけてきた私をここで見捨てるようなことを主がなさるのでしょうか。大海の中の一滴の水といえども、大森林の中の一本の小枝といえども、また富の神の家の中の一片のパンくずといえども、主の慈悲心がなければ存在し得ないのです。主が望み給うなら、流水が砂漠を横切り、乞食が山ほどのものを持つでありましょう。主は雀の落ちるのをも見給う。これはただの言葉にすぎないでしょうか。それとも文字通りの実際の生活なのでしょうか」

 「この『外見の正しさ』などを言うことをやめよ。我がシヴァ神よ、汝は我が正しきものなり、また我が悪しきものなり。主よ、我れ幼きより汝のうちに隠れ家を求め来たれり。たとえ我れ、常夏の国にありても、南北の極地にありても、山頂にありても、大海の底にありても、汝は我れと共にいまさん。汝は我が支柱――我が導き――我が隠れ家――我が友――我が師――我が神――我が真実の自我――汝、決して我れを見捨て給わざらん、決して……。我が神よ、永遠(とわ)に我れをこの弱きより救い給え。また我れ、汝よりほかに助けを求むることのゆめ無からんことを。人、善良なる友に信をおく時、裏切らるることなし。あらゆる善良なるものの父なる汝、この我れの生涯を通じて汝の、否、汝のみの召使なることを知り給う汝、我れを見捨て給うことのあらんや。我れを他のものにもてあそばれ、悪しきにひきずりおとさるるに任せ給うことのあらんや。我れは信ず、主の我れを見捨て給うことなきを」

 このあと二、三の熱心な生徒たちが仕事の金銭上の責任をもつことになったので、困難な問題はもう起らなかった。再び彼は書いた。「何かの偉大な仕事が金持ちによってなされたという記録が世界の歴史の中にあるでしょうか。仕事をするのはいつも、いつも、ハートと頭脳であって、財布ではありません」
 


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