スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは1863年1月12日、カルカッタで生まれました。彼の姓はダッタ、両親は彼をナレンドラナートと名づけました。通称はナレンです。
ナレンは15、6歳のときカルカッタの大学に行きはじめました。彼は容貌のすぐれた、強壮な青年で、並外れて聡明でした。また、すぐれた歌い手で、いくつかの楽器を演奏することもできました。すでに、同年輩の少年たちのなかで、非常にすぐれた指導力を示していました。教師たちは、彼が後年、世に知られる人となることを確信していました。
1881年11月、彼はラーマクリシュナが客として来ていた家で、歌うよう招待されました。二人は短い会話を交わし、ラーマクリシュナは、彼が住んでいるカルカッタ郊外数キロ、ガンガーのほとりのドクシネーシュワル寺院を訪れるよう、彼を招待しました。
ナレンは最初からラーマクリシュナの人となりに好奇心と当惑を感じていました。彼はいまだかつて、このような、45、6歳の、やせて、髭を生やした、しかも子供のように無邪気で率直な人を、見たことがありませんでした。彼の周囲には強い喜びの雰囲気がただよい、その喜びを、神に、彼にとっては明らかに生きた存在である母なる神カーリーへの喜びを表わして、絶えず大声で叫んだり、思わずうたい出したりしていました。ラーマクリシュナの会話には精妙な哲学と、身近なたとえとが混ざりあっていました。彼は生地ベンガルの農村の方言で軽くどもり、ときには素朴な百姓の荒っぽい田舎言葉も使いました。
想像することもできないほどの高い霊的意識の中で、ラーマクリシュナにとって、サマーディは日常の経験で、神の顕在意識は彼から離れることはありませんでした。ヴィヴェーカーナンダは回想しています、「私はそっと彼に近づき、それまでずっと他の人びとにしてきた質問をしました、『あなたは神を信じますか』、『信じる』、彼は答えました。『あなたはそれを証明することができますか』、『できる』。『どのようにしてですか』、『ちょうどお前をここで見ているように、私は「彼」を見るのだ。ただし、もっとずっとはっきりとだ』。これは私に直ちに感銘を与えました。初めて、神を見た、宗教は事実だ――われわれが世界を感じ得るよりさらに無限にはっきりしたかたちで感じられ、知覚されるものとして――とあえて言う人を見いだしたのです」
その後、ナレンはドクシネーシュワルをしばしば訪れるようになりました。彼は徐々に、若い弟子たちのサークルに引き込まれて行きました。大部分が同年輩の、ラーマクリシュナが出家の道をたどるよう訓練していた者たちでした。
1885年、ラーマクリシュナの咽頭ガンの病状が進みました。師は長くは彼らとともにいることはできない、ということが徐々にはっきりとするにつれて、若い弟子たちはいっそう固く団結するようになりました。ナレンは彼らのリーダーでした。
1886年8月15日、ラーマクリシュナは、はっきりとした声でカーリーの御名をとなえて、最後のサマーディに入ったのでした。
少年たちはまとまらなければならないと感じました。信者の一人がカルカッタとドクシネーシュワルの間のバラナゴールに、彼らが僧院として使うことのできる、一軒の家をみつけました。
しかし、少年たちは次第に、遊行の生活を求めて落ち着かなくなりました。杖と乞食(こつじき)の鉢を持って、説教し、食を乞い、寺院や巡礼地を訪れ、またはひとりで小屋に住んで何ヵ月も瞑想しつつ、全インドを遍歴しました。彼らは藩王や金持ちの信者にもてなされることもありましたが、大方は、非常に貧しい人びとから食物を分けてもらいました。
このような経験は、ナレンにとって特に貴重なものでした。1890年から93年にかけて、彼はインドについての直接の知識を得たのです。
1893年5月末に、彼はボンベイから船で、香港と日本を経由して、ヴァンクーヴァーに行きました。そこから汽車で、シカゴまで旅をつづけました。1893年9月11日に開催される宗教会議に参加するためです。
あらゆる主要な宗教の代表が自由に彼らの信仰を述べるために一ヵ所に集まったのは、歴史上初めてのことでした。だが、スワミジーは代表者として会議に参加するための、正式の紹介状を持っていませんでした。しかし、ハーヴァード大学の教授、J・H・ライトは、正式の招待状を持っていなくても彼は間違いなく会議で歓迎される、と保証しました。教授は、「スワミ、あなたに信任状を要求するのは、太陽に向かって、『お前は輝く許可を得ているのか』と聴くようなものですよ」と言いました。
9月11日の朝、会議が始まるとすぐ、ヴィヴェーカーナンダは、そのすてきなローブと黄色のターバンと、ハンサムなブロンズ色の顔によって、壇上にすわる、最も印象的な人物の一人として注意をひきました。
午後、ヴィヴェーカーナンダは立ち上がりました。例の深い声で、彼は「アメリカの姉妹たち、兄弟たち」と始めました。何百人の全聴衆がまるまる2分間、狂ったように拍手し、歓呼の声を上げました。大きな集団は、それ自体の不思議な無意識の感応力を持っていて、これが、あのすべての生きものの中のもっともまれな生きもの、その言葉が正確に彼が何者であるかを表現している、一個の人間の前に自分はいるのだ、ということに、何ゆえか気づいたのに違いありません。ヴィヴェーカーナンダが、「姉妹たち、兄弟たち」と言ったとき、彼は実際に、目の前のアメリカの男女を自分の姉妹兄弟と見る彼の思いを述べたのでした。使い古された演説の言葉が、混じりけのない真実となったのです。
静まるのを待って、スワミは話を続けました。それは、ひろい寛容性を訴え、すべての宗教に共通の基礎を強調する、ごく短いものでした。それが終わったとき、前以上に大きな雷鳴のような拍手が起きました。
宗教会議が終わったあと、ヴィヴェーカーナンダは、アメリカの東部、中部のさまざまの都市で講演しつつ、満2年近くを過ごしました。
彼はやや真剣なタイプの人びとに会って深い印象を与えました。不可知論者のロバート・インガソルや、発明家のニコラ・テスラ、歌手のマダム・カルヴェ、そしてもっとも重要なのは、興味と熱意が一時的でなく、残りの生涯を彼の教えの実践にささげる用意のできている、数名の教え子を引きつけたことです。
彼は西欧へのメッセージを携えていました。彼は聴衆に、彼らの物質主義を捨て、ヒンドゥ教徒の古代の霊性から学ぶことを求めました。彼が果たしたいと思ったのは、価値の交換でした。西洋人の中に偉大な徳をみとめました。精力と、進取の気象と勇気です。これがインド人に欠けていることを、彼は見たのです。
ヴィヴェーカーナンダは、神がわれわれの一人一人の中におられることを、そしてわれわれの一人一人が自分の神性を再発見するために生まれているのであることを教えました。
8月、彼はフランスとイギリスに渡ってヴェーダーンタを教え、12月、ニューヨークに戻りました。彼の信者たちの熱心な要望に従い、彼はアメリカ最初のヴェーダーンタ協会を創立しました。ニューヨーク・ヴェーダーンタ協会です。
ヴィヴェーカーナンダは1897年1月半ばに、スリランカに上陸しました。それから、カルカッタに向かう彼の旅は、まるで凱旋将軍の行進のようでした。彼の同国人たちは、新聞紙上で、彼のアメリカでの講演の報告を読んでいたのでした。
実際、ヴィヴェーカーナンダの前には誰ひとり、自分をアメリカ人やイギリス人に、卑屈な友としてではなく、あからさまな敵としてでもなく、同等の立場で、教え、学び、助け合う、誠実な友として受け容れさせたインド人はいなかった、と言ってよいでしょう。
1897年5月1日、彼はラーマクリシュナの出家および在家の弟子たちの会合を招集しました。彼らの仕事を組織された基盤にのせるためです。ヴィヴェーカーナンダが提案したのは、教育と慈善行為と宗教活動の統合でした。ラーマクリシュナ・ミッションおよびラーマクリシュナ僧院は、このようにして生まれたのでした。ミッションはただちに活動を始め、飢饉と疫病の救援にたずさわり、最初の病院と学校を創立しました。
僧院はその後まもなく、ドクシネーシュワル寺院から少し下流の、ガンガーの対岸、ベルルに設立されました。このベルル僧院は、今もラーマクリシュナ僧団の主たる僧院で、現在インド各地と日本、ヨーロッパ、およびアメリカを含む世界中に135のセンターを持ち、瞑想の生活、社会奉仕、または両者を結合した生活にささげられています。ラーマクリシュナ・ミッションは、自前の病院、診療所、大学、高等学校、工業および農業学校、図書館、および出版局を持っています。いずれも僧団の僧が経営を管理しています。
1899年6月、ヴィヴェーカーナンダは2回目の西洋訪問に出発しました。
インドに帰るまでに、彼の健康はひどく衰えていました。彼自身、もうそう長くは生きない、と言っていたのです。
1902年7月4日、ヴィヴェーカーナンダはベルル僧院で亡くなりました。
ヴィヴェーカーナンダを知る最善の方法は、彼について、読むことではなく、彼を読むことです。スワミジーの人格、そのすべての魅力と力、その勇気、その霊的な権威、その怒りとその冗談は、彼の書いたものと、記録された言葉の中に非常に力強く現われています。
ヴィヴェーカーナンダは国際的なメッセージを持つ偉大な教師であるだけでなく、また、非常に偉大なインド人であり、愛国者であり、また、現代の人びとをも含む、同国人を奮い立たせる人でした。
あなた方はスワミジーが生きた、インドのベルル僧院の部屋を訪れることができます。それは今も、ヴィヴェーカーナンダがそこを去ったときのまま保存されています。