スワミ・ヴィヴェーカーナンダとの対話
シャラト・チャンドラ・チャクラヴァルティ
弟子=スワミジー、シュリ・ラーマクリシュナはよく、まずカーマ・カーンチャナ(色欲と富)をすてなけれは宗教的自覚に向かって大きく進むことはできない、とおっしゃいました。もしそうなら、家住者はどうなるのでしょうか。彼らの心はこの二つのものに向けられているのでございます。
スワミジー=その人が家住者であれサンニャーシンであれ、女と金に対する欲望がなくならない限り心は決して神の方には向かない、というのは真実だ。心がこの二つに捕えられている間は真の帰依心、不動心およびシュラッダー(信念)は生まれない、ということは、一つの事実として知っておきたまえ。
弟子=では家住者はどう致しましょう。どういう道を進んだらよいのでしょうか。
スワミジー=小さな欲望は満足させ、そしてそれらから永久に卒業してしまうこと、そして大きい欲望は識別によって放棄すること、これが道だ。放棄をしなければ神は絶対に悟ることはできない。たとえブラマーおんみずからが、他の方法をお示しになったとしても!
弟子=しかし、僧になると直ちに一切のものを放棄することができるものでごさいましょうか。
スワミジー=サンニャーシンは、少くとも、放棄ができるように努力をしつつあるが、家住者はこの点については、舟がいかりを下している間もかいをこいでいる船頭のようなものだ。快楽への欲望を和らげることなど、できるものではない。「それはますます増長するばかりである」(バガヴァト・ギーター九章一九節一四)
弟子=なぜでごさいますか。長い間くり返し感覚の対象を楽しんでいたら、遂には、世に倦むときが来るのではないでしょうか。
スワミジー=何人のひとたちにそういう時がやって来るというのか。たえず感覚の対象に接触していると心は曇って来て、いつまでもそれらからの影響を受けつづけるのだ。放棄が、そして放棄だけが、すべての悟りの真の秘訣(ムラマノトラ)だ。
弟子=しかし経典の中には、次のような、予言者たちの教えがのっております、「自分の妻や子供たちと共に暮らしつつ五つの感覚器官を制御することはタパスである。自分の欲望を制御し得ている人にとって、その家族に囲まれて暮らすことは、タパシャーのために森の中に隠れるのと同じである」
スワミジー=家族と共に家庭の中に暮らしながらカーマ・カーンチャナを放棄することのできる人々こそは、ほんとうに恵まれた人々だ! だが、それのできる人たちが何人いるか。
弟子=しかしそれでは、サンニャーシンたちはどうでこざいますか。彼らのすべてが、色欲と富への執愛をすて切ることができるのでございますか。
スワミジー=いま言ったように、サンニャーシンは放棄の道程にある。少くとも、目標に向かって戦いを開始したのだ。しかし家住者の方は、女と金を通じてやって来る危険をまだ知らないで、「自己」を悟ろうという努力さえもしていない。これらを棄てるように努力しなければならない、という考えは、まだ彼らの心中には生まれていないのだ。
弟子=でも努力している者も大勢おります。
スワミジー=おお、そうとも、そしてそういう人たちは、必ず徐々に放棄するだろう。彼らのカーマ・カーンチャナへの過度の執着は次第に滅るだろう。しかし、「おお、今でなくてもよい! 時が来ればする」などと言いながらぐずぐずしている人々にとっては「自己」自覚は遥かに遠い夢だ。「たった今、真理を悟らせてくれ! 今生において!」――こういうのは英雄の言葉だ。このような英雄たちは、次の瞬間にでも放棄する用意ができている。そして、このような人たちに向かって聖典(ジャーバーラ・ウパニシャッド第三章)はこう言っている。
「世の空しさを感じたその瞬間に、それをすてて僧の生活に入れ」と。
弟子=けれどシュリ・ラーマクリシュナはよく、「これらすべての執着は、神にお祈りをすればあのお方のお慈悲によって消える」とおっしゃったのではございませんか。
スワミジー=そう、たしかにそうだ、「かれ」のお慈悲によって、しかしこのお慈悲を受けることができるためには、人はまず純粋でなければならない――思いにおいて、言葉において、そして行ないにおいて純粋でなければならない。それで始めて、神のお慈悲が下る、というわけなのだ。
弟子=しかし、自分の思い、言葉、および行ないを支配できる人に何でお慈悲の必要がありましょう。それならかれはかれ自身の努力によって、霊性の道を自分で進むことができるでしょうに!
スワミジー=主は、悟りのために心魂かたむけて努力している、とご覧になった者に対しては非常にお慈悲ぶかいのだ。しかし、怠けて何の努力もしない者に対しては、お慈悲は決してやって来ないだろう。
弟子=誰だって善くありたいと望んでおります。それでも心が、何かの不可解な理由によって悪の方に向くのでございます! 誰だって善くありたい、完全でありたい、神を悟りたいと希っているのではございませんか。
スワミジー=そうありたい、と願っている連中はすでに努力しつつある人々なのだ、と知りたまえ。その努力をつづけて行くなら、神はお慈悲をお与えになる。
弟子=神の化身たちの歴史を見ますと、非常に放蕩な生活をしていたのに、それでも大した苦労もせず、別に修行も行なわないで神を悟ることのできた人々をよく見出します。この事はどう考えたらよいのでしようか。
スワミジー=そう、しかし、すでに非常に深い不安感が彼らをおそっていたに違いない。長い間の感覚対象の享楽が、その内部に深い嫌悪感をつくっていたに違いないのだ。平和の欠如が彼らのハートを憔悴させていたことだろう。彼らは心中にこの虚しさを深く感じていて、主のお慈悲につづいてやって来るあの平安がもし得られないならもうこの人生は一瞬間も堪えられない、と思っていたことだろう。それだから神が彼らにご親切だったのだ。この進歩は、彼らの内部で、タマスからサトヴァへと直接に起ったのだ。
弟子=それでは、道はどんな道であれ、彼らはその道によってほんとうに神を悟ったのだ、と言ってよろしいのでございますね。
スワミジー=それはそうだとも。だが、同じ館に入るなら、不名誉な裏口から入るより、正面玄関から入った方がよくはないかね。
弟子=たしかに仰せの通りでございます。しかし、人はお慈悲によってのみ、神を悟ることができるのだ、という点はこれではっきり致しました。
スワミジー=おお、そうだ。それは人にできることだが、それをする人はほんとうにまれなのだ!
弟子=自分の感覚器官を制御し、色欲と富を放棄することによって神を悟ろうとする人は自力および自助の説を奉じているのであり、主のおん名をとなえてあのお方に帰依する人は主によってすべての世俗の執着から解き放っていただき、主に導かれて悟りの最高境地に達するのである、というように私には思われますが。
スワミジー=そうだ。それらは二つの異なった立場だ。前者はジュニャーニたちが奉じ、後者にバクタたちが奉じている。しかし放棄という理想は両者の基調音だ。
弟子=それは間違いないことでごさいますね! しかしシュリ・ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュはあるとき、私に、神の慈悲には条件がついているはずはない。それに法則など、あるはずがない! もしあったとしたら、もはやそれは慈悲と呼ぶことはできない、恩寵、すなわち慈悲の世界はすべての法則を超えたものでなければならない、とおっしゃいました。
スワミジー=しかし、ギリシュ・ゴーシュが指している世界にも、われわれが知ることのできない、ある、もっと高い法則がはたらいているに違いないのだ。かれの言葉は実に、発展の最後の段階を示す言葉だ。そこだけが、時間、空間および因果を超えているのだ。しかし、われわれがそこに達したときには、因果の法則も無い処で、一体だれが誰に向かって慈悲ぶかいと言うのか。そこでは礼拝者と礼拝されるもの、瞑想する人と瞑想の対象、知る者と知られる者、すべては一つになるのだもの、――呼びたければそれを恩寵と呼んでもブラフマンと呼んでもよい。すべてたった一つの、純一の実体なのだ!
弟子=これらの御言葉をあなたから承りまして、スワミジー、私はすべての哲学と宗教(ヴェーダとヴェーダーンタ)のエッセンスを理解することができました。今までは何の意味も分らず、徒らに派手にひびく言葉のまっただ中に生きていたように思われます。(全集五巻)(ma16-01)