ラーマクリシュナの例え話
ゾウ神様とゾウ使い神様
ある森の中に、一人の聖者が何人かの弟子たちといっしょに住んでいた。ある日、師は彼らに、『神はすべてのものの中にいらっしゃる。これを知って、われわれはこの世のあらゆるものの前にうやうやしく頭を下げなければいけない』と教えた。たまたま弟子の一人が、犠牲の火のために薪を集めに出かけた。突然彼は叫び声をきいた、『逃げろ! 逃げろ! 狂ったゾウがくるぞ!』これをきいてこの弟子以外の人々は全部逃げた。彼は考えた、『ゾウも神の一つの御姿だ。では何で逃げることがあろう』と。そこで彼はその場所に立ったまま、ゾウを主と崇めてあいさつし、彼の讚歌をとなえはじめた。ゾウ使いは『逃げろ! 逃げろ!』と叫びつづけたが、この弟子は身動きもしなかった。ついにゾウは鼻をのばして彼をつかみ、わきに投げすてた。哀れな少年は気絶し、傷だらけで地面に横たわった。
彼の師はこのことをきいて他の弟子たちといっしょに現場にきた。一同は彼を家にはこび、気つけ薬をあたえた。彼が正気を取り戻すと、なぜ逃げなかったのか、と尋ねた。すると少年は答えた、『いつか師が、人やその他のすべての生きものとして現れていっらしゃるのは神様だ、とおっしゃったから、私はゾウ神様を見て動こうとしなかったのです』と。これをきいて師は言った、『わが息子よ、きたのはゾウ神様であることは本当だ――しかしゾウ使い神様、彼がお前に逃げよと警告をしなかったか。神がいっさいのものの中に現れていらっしゃることは事実だ。しかし、もし彼がゾウとして現れておいでならそれと同様に、いやもっとはっきりと、ゾウ使いの中にも現れていらっしゃるのではないか。ねえ、それならなぜお前は彼の警告の声に耳をかさなかったのだ』
聖典には、水は神ご自身と同じである、と書いてある。しかしある水は祭祀にもちいるのにふさわしく、ある水は皿や汚れた布を洗ったり、食事のあとで顔や手を洗ったりすることにしか使えない。あとの水は、祭壇に上げたり、飲んだりはしないだろう。それと同様に、善い人々と悪い人々、神の愛人たちと、彼を愛さない人々とがいる。本当に、彼らすべてのハートの中に神は宿っていらっしゃるのだ。それでも悪い人々や神を愛さない人々とは交際はできない。そのような人々とは、親密にはできない。ある人々とは会釈ぐらいは交すことができるだろうが、大部分の人々とはそれさえも問題外である。そのような人々からは離れているがよろしい」(抜粋ラーマクリシュナの福音より)