不滅の言葉 98年1号

愛の宗教(8)


スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

部分

第七章 準備と至高のバクティ(上)

(この講演は一八九六年二月九日、ニューヨーク、マジソン・スクエア・コンサート・ホールで行われた。)

 人格神の観念は、若干の例外を除いて、ほとんどすべての宗教で見られる。多分、仏教とジャイナ教を除いて、世界のすべての宗教は人格神の観念を持っていた。人格神に伴って、信仰と礼拝の観念が生じる。仏教徒とジャイナ教徒は礼拝のための人格神を持ってはいないが、彼らは彼らの宗教の開祖を、他の宗教が人格神を礼拝するのとまったく同じように礼拝するに至った。愛されるべき、そして、その愛を人間に返すことのできる、何かの存在に対する信仰と礼拝は普遍的だ。この愛と信仰の観念は、さまざまの程度で、また、異なる段階を経て、さまざまの宗教の中に表現されてきている。最も低いのは祭式を中心とする段階である。この段階では抽象的な観念はほとんど手に負えないので、人々はそのようなものはすべて具体的な形に還元して考える。形式とともにさまざまのシンボル(象徴)が役に立つのはこの段階である。すべての世界史を通じて、人間は思考の形態やシンボルを通して抽象的なものを把握しようとしているのが見られるし、そして、鐸鈴、音楽、儀式、聖典、像などの宗教の外的な付属物は、すべてその項目に含まれるのである。かくして、感覚に訴えるすべてのもの、人間が抽象的なものについて具体的なイメージをもつのに役立つものはすべて礼拝に供される。

 あらゆる宗教において、ときどき、改革者が出現してきた。彼らはあらゆるシンボルや形式に反対したが、その企ては失敗に帰した。なぜなら、人間が人間である限り、その大多数は、すがるべき何か具体的なもの、彼らの観念をいわばその周りに配置するもの、彼らの心の中の思考形態の中心となるものを常に欲するからである。ムスリム(回教徒)とキリスト教の中のプロテスタントは、この目的を達する偉大な試み、つまり、すべての儀式を捨てるという試みをした。しかし、彼らにあっても儀式が忍び込んでいるのが見られるのである。儀式は捨てられることはなかった。長期間の努力の末、大衆は一つのシンボルを別のシンボルに変えたに過ぎなかった。ムスリムは非ムスリムが使っているあらゆる儀礼、あらゆる形式、像、それに儀式は罪悪であると考えるが、自分たちのカアバ神殿(*メッカにあるイスラームの神殿)に行ったときにはそうは考えない。すべての篤信のムスリムは、一日に五回の礼拝のときには、自分はカアバ神殿に立っていると想像しなければならないことになっている。そしてそこに巡礼で行くときは、壁にはめこまれた黒石に接吻しなければならない。そして、何百万人もの巡礼によって刻印されたすべての接吻は、最後の審判の日には、篤信者たちのための証人として立つのだ。それに、ザムザムの泉がある。その泉から少量の水を汲んだ者は、誰であれ罪が赦され、新しいからだを得、復活の日以後永遠に生きる、とムスリムたちは信じている。......................

 


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