不滅の言葉 97年6号
霊 的 な 会 話(3)
スワミ・チェタナーナンダ
部分
霊的な不満足
一九一五年七月三〇日
スワミ「師はある日、喉の病気のことでこうおっしゃった。ある者から、喉の病気をお感じになるか、と尋ねられたのだ。師は、『何とバカなことを訊くのだ! 肉体が聖者になるとでもいうのかね? 聖者になるのは心だよ』とおっしゃった。心が外界の影響を受けないようにならないかぎり、たんなるスパルタ式の不屈の精神はあまり役に立たない――ただそれを外に表さないというだけで、痛みは感じるのだ。もしわれわれが、すべての痛みと苦しみは肉体のものであって自分自身のものではない、自分は肉体ではない、と感じるなら、そのときはじめて大丈夫だといえる。
「年をとって衰弱がはじまるずっとまえに霊性の修行は完了しなくてはならない。『家が燃えだしてから井戸を掘って何になるか?』
「単なる情欲の抑圧はあまりためにならない。自制とともに高い理想がなければならないのだ。高い理想がなければ情欲は他にはけ口をもとめるだろう。それに新しい方向を与えなければならないのだ。そうすれば君たちは自然に情欲を克服することができる。『我に避難し、そして感覚を制御せよ』 例えば性欲だ。自分は神の子供であると考えるのだ。そうすればどうして低俗で性欲に満ちたものでいれらよう。もしくは自身を永遠に純粋な存在であると思え!
「自分自身の足で立つとは、宇宙なる『自己』を包含する『自己』に頼るということである。ああだこうだと考えたり、たくさんの試験に合格してきた『自己』に頼ることではない……それは何の役にも立たない。
「仕事はヤジナ、犠牲供養と見なされなければならない。あらゆる仕事が、犠牲供養をとりおこなうように、完璧になされなければならない。仕事はすべて霊性の修行、神を悟る手段であると考えられるべきである。そうしてはじめて人格が形成されるのだ。
スワミ・S「寝る前に瞑想し、瞑想しつつ眠りにはいることはたいそうよい。Vはよく非常に深い瞑想に没入した。しかし師が彼にお触れになった瞬間に瞑想から覚めて、師を見つめていたものだった。ニティヤーゴパールはたびたびたいそう深い恍惚境にはいった。眼球が上瞼の奥に転じ、胸は真っ赤になった。瞑想すると血液が顔に集中して赤く見えた。師はよく『やり過ぎるな、やり過ぎるな。普通の人の道からも離れてはならないのだよ』と彼におっしゃった。
スワミ「私はほんとうに心の底から言うのだが、たったいま、後に残されることがどうなるかなどの心配も捨て去って、このまま、私はここを出てゆくことができるよ。私はいまでも行乞して暮らすことができる。このような覚悟がなければ、私はだめになってしまうだろう。
「人は常に利益を求める。この生涯で求めているばかりでなく、過去の幾多の生涯においても求めつづけてきた。ムクティ(解放)とはこの利益の追求をやめることに他ならない。人は苦しみから逃れようとする。常に身を惜しむ。スワミジはよく、人はただ喋りたいだけなのだ、と言っておられた。
「サニヤーシン(*出家)の生活は遊びごとではない。人はきわめて慎重に生きなければならない。厳しく目覚めて、用心深くなければならない。決して報復をしてはならず、常に忍耐強くなければならない。もし報復するなら、それは自分に跳ね返るのだ。子供の遊びではない。サニヤーシンの生き方は人生のすべてを超えて前進しようとする挑戦である。善良な思いをもちつづけるものだけが救われるだろう」.....................