不滅の言葉 97年6号

 スワミ・アドブターナンダ――その教えと回想(16)

スワミ・チェタナーナンダ


スワミ・アドブターナンダ

部分

    霊的な不満足

 ラトゥ・マハラージ「満足は、霊的な進歩のさまたげだ」

 信者「どういう意味ですか、マハラージ? 人びとは心の平安を見いだすためにサーダナ(修行)を実践するのです、なのに、あなたはそれが祈願者の進歩のさまたげだとおっしゃるのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「それは真実だ、人びとは平安を見いだすためにサーダナを実践する。だが、祈願者がいくばくかの平安を見いだしたのちに神を忘れるならば、どうしてそれ以上進歩することができようか? 不満が全くなければ、神へのあこがれは生まれない」

 信者「平安に到るよりも高い何らかの境地があるのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「なあ、平安がサーダナの目的だろうか? 平安よりも高い境地はたくさんある。だが、それらの境地を体験したければ、何よりもまず平安に到る必要がある。その平安とは何であるか君は知っているのか? 人はそのとき、いわば、彼の人生に満足しており、外面的な艱難辛苦に心をかき乱されないのだ。祈願者が外面的にも内面的にも平安に満たされない限り、霊的な道への扉は開かない。だが、霊の国への扉がいったん開けば、不満がふたたび始まる。ただ、この不満は、私には説明できない神秘的なたぐいの不満なのだ。この境地にあるときには、祈願者は何もしないですわっていることもできなければ、即座に進歩することもできない」

 信者「マハラージ、おっしゃることがわかりません。説明してください」

 ラトゥ・マハラージ「これを理解するには、修行と苦行とが不可欠だ。君はほとんど苦行を実践してきていない。だから、私は君に千回説明してもよいのだが、なおもそれは君には神秘のままだろう」

    苦行について

 一九〇二年、ラトゥ・マハラージは、シヴァ・ラートリーの時節にベルル僧院に滞在していた。シヴァ・ラートリーとは、主シヴァに奉納され、礼拝と断食とによってとりおこなわれる徹夜の勤行である。その夜、彼は、多くの信者たちをともなって近くのカーリヤネーシュワル寺院にシヴァへ礼拝をささげに行った。彼は、信者たちの一人に言った。「思うに、断食は君にはむずかしすぎる。少し食べるがよい」

 その信者は答えた。「いいえ、礼拝をする前には何も食べたくありません」

 ラトゥ・マハラージは言った。「その決意はよい。だが、断食が君の心を神から遠ざけるとしたら、それが何の役に立つ? それよりも、帰依の心をもって礼拝を行う決意をせよ。断食に断食以上の高い価値をおくな。それはただの固執であって、真の価値はない。君の心が神ではなく食べ物にとらわれているとしたら、愛と帰依の心とをもって礼拝を行うことなどどうしてできよう? 心がかき乱されていては、帰依は不可能だ」......................


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