不滅の言葉 97年5号
愛の宗教(6) 部分
次に考えなければならないのはプラティマー、つまりイメージの効用だ。世界中に何らかの形の偶像があることはご存じだろう。あるものは男性の形で――これは最良の形だ。もしイメージを礼拝したいと思ったら、私は動物や建物その他の形よりも男の姿のものを持ちたい。ある宗派ではある形がイメージの正しい種類だと思い、他の宗派はそれを悪いものだと考える。クリスチャンたちは、神が鳩の姿をしてくるときにはよいと考える。しかし、ヒンドゥたちがいっているように、雌牛の形をしてくるときには非常に悪く、迷信だと思う。ユダヤ人たちは、上に二人の天使がすわり、中に書物が一冊入っている箱の形をした偶像ならよいと思う。しかし、それが女や男の形をしているときには恐ろしいものとされる。イスラーム教徒たちには、祈るときに、中に黒い石がおかれていて西を向いているカーバ神殿のイメージを心に描こうと思うなら、それは非常にけっこうだ。しかし、教会のかたちをしたイメージを描いたら偶像崇拝となる。これがイメージ礼拝の欠点だ。しかし、これらすべては必要な段階のように思える。また、聖典に関していえば、それを盲目的に信じないほどよい。
私たち自身が何を悟ったかが問題だ。イエスやブッダやモーゼが悟ったことは、私たちも自分自身で悟らないかぎり、私たちには何にもならない。部屋に閉じこもって、モーゼが食べたものを考えても、あなたの飢えは満たされない。また、モーゼが考えたことを考えてもその考えはあなたを救わない。私の考えはこの点では非常に根本的で徹底している。私は、あるときには、私がこれらすべての古代の教師たちに同意するとき自分は正しいと思い、別のときには、彼らが私に同意するとき、彼らが正しいと思う。私は独立自存して考えることが正しいと思う。これら神聖な教師たちから完全に自由であれ。彼らを心から尊敬せよ。しかし、宗教は独立した探求として扱いなさい。彼らが彼らの光を見いだしたと同じように、私は自分の光を見いださなければならない。彼らが光を見いだしたからといって、そのことは私たちを全然満足させはしない。あなたは聖典にならなければならない。だからといって、聖典に従うものであってはならない。途上にある一つの光として、道しるべとして、目安として、聖典に敬意を払えばよろしい。これが聖典の持つ価値のすべてだ。しかし、これらのイメージや、他のものも本当に必要だ。心を集中させたり、考えを具体化しようとするとき、当然心にイメージを作る必要があることを知るだろう。そうせざるを得ないのだ。二種類の人は何のイメージも全く必要としない――宗教のことを何も考えない動物のような人と、これらの段階を通りすぎた完全な人だ。この二点の間で、私たちは、内面か外面かに、何らかの理想を必要とする。その理想は、死んだ人か、生きている男女の形をとるだろう。これは人格とからだを礼拝することだが、極めて自然なことだ。私たちには具象化する傾向がある。もし具象化しなかったら、どうしてここにいることができるだろう。私たちは具象化した魂だ。だから、私たちは自分をここ、この地上に見いだすのだ。具象化が私たちをここにもたらし、また、ここから連れ出してくれる。それは「似たものは似たものによって癒される」ということだ。感覚的なものを追い求めることによって私たちは人間になり、どんなに逆のことを言おうと、私たちは人格的なものを礼拝するようにしばられている。「個人的になるな」と言うのは簡単だ。しかし、それを言う人は一般的にはもっとも個人的なのだ。特定の男女に対する彼の執着は非常に強い。彼らが死んでも愛着は去らない。彼は死を超えて彼らに従おうと思う。これは偶像崇拝だ。これが種だ――偶像崇拝のそもそもの原因だ。原因があるのでそれは何かの形をとって現れてくる。普通の男女に個人的な愛着を持つより、キリストやブッダのイメージに愛着をもつ方がいいのではないだろうか。西洋の人々は「キリストの像の前に膝まずくのは非常に悪い」という。しかし、彼らは女の前に膝まずいて、「あなたは私の命だ、私の命の光だ、私の眼の光だ、私の魂だ!」と言っているではないか。これは偶像崇拝より悪い。「私の魂、私の命」についてのこのおしゃべりは一体なにか。五日もするとそれは消え失せてしまう。それは感覚への執着にすぎない。それは、山のような花におおわれた利己愛か、もっと悪いものだ。詩人はそれに美しい名を与え、ラベンダーの水をその上から注ぐが、ただそれだけのものに過ぎない。それよりもブッダや勝利者ジナの像の前に膝まずいて、「あなたは私の命です」といったほうがましではないのか? 私なら百回もそうするだろう。......................