不滅の言葉 97年1号
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
愛の宗教(2)
第二章 第一歩
バクティについて述べている哲学者たちは、それを、神への極度の愛、と定義している。なぜ人は神を愛さなければならないのか、という疑問を、先ず解かなければならない。これを解かなければ、主題を理解することは全くできないだろう。人生には二つの全く異なる理想がある。どの国に住もうと、何かの宗教を持っている人は、みな、人は肉体であり、同時に霊である、ということを知っている。しかし、人生の目標についてはそこに大きなちがいがある。
西洋の人びとは一般に、肉体の面に重点を置く傾向がある。インドの、バクティについて述べた哲学者達は、人の霊的な面に重点を置いている。これが西洋と東洋の典型的なちがいであると思われる。通常使われている言葉でもそうだ。イギリスでは死について語るとき、人が霊魂を失ったと言う。インドでは、人が肉体を放棄したという。一つは、人は肉体であって魂を持っている、という考え方であり、後者の観念は、人は魂であり、肉体を持っている、というものである。ここからもっと複雑な問題が生じる。当然のこと、人は肉体であって、魂を持つ、という考えは肉体を非常に重視する。人は何のために生きるかと質問したら、感覚を楽しむため、品物、富、人間関係などなどを楽しむためだという答えが返ってくるであろう。彼はそれ以上のことは、たとえ教えられても、想像することはできないだろう。来世についての彼の観念はこの快楽の継続にすぎない。彼は、現世で常にそれをつづけることができず、それと別れなければならないことを大変残念に思う。そして、何とかして同じ状態が再生されるところ、同じ快楽、同じ感覚をもっと高い、もっと強い形で持つことのできるところに行きたいと思う。彼は神を礼拝したいと思う。神がその目的を達成する手段である。彼の生涯の目的は感覚対象を楽しむことであり、彼はこれらの快楽の、非常に長期間の使用権を与える力を持つ、ある「存在」を知るに至る。それだから彼は、神を礼拝するのだ。
他方、インドの観念は、神が生涯の目的だ、というものである。神以上のものはない。そして、これらの感覚的快楽は、より良いものを得ようとして現在通過しつつある段階であるに過ぎない。そればかりではなく、もし人が感覚的な快楽しか知らないとしたら、悲惨で恐ろしいことであろう。毎日の生活の中で、感覚的快楽が少なくなればなるほど、人生は高いものになるということを、私たちは見いだす。何かを食べるときの犬を見よ。――それと同じ満足感をもって食べる人はいない。食べながら満足してブーブーうなるブタを見よ。――あのように食べることのできる人は生まれたことがない。低級な動物の聴覚能力、視覚能力を見よ。彼らの感覚は非常に発達している。彼らの感覚的な快楽は誠に驚くべきものだ。彼らは喜びと快楽のために気違いのようになる。そして、人も低級であればあるほど、感覚を楽しむ。より向上すれば、理性と愛が彼の人生の目的となる。これらの能力が発達すればしただけ、感覚を楽しむ能力は少なくなる。一つ説明として、もし人には一定量の能力が与えられている、とするならそれは、肉体にも心にも霊にも使うことができるものだとするなら、それらのうちの何れかに使われた分だけ、その力が他に使われる分は減るだろう。無知で野蛮な民族は、文明的な民族よりはるかに優れた感覚能力を持っている。ある民族が文明化するにつれて、その神経組織がより繊細になり、肉体的には弱くなるということは、私たちが歴史から学ぶ教訓の一つである。野蛮な民族を文明化してみよ、あなたは同じことを見いだすだろう。もう一つの野蛮な民族が出て来てその国を征服する。征服するのはほとんどの場合、野蛮な民族だ。それだから、私たちが、常に、優れた感覚的快楽を持つことだけを望むなら、私たちは野蛮な状態に堕落するだろう。人が感覚的な快楽が強められる場所に行きたいと言うなら、彼は自分が何を望んでいるかを知らないのだ。彼は野獣になり下がることによって始めて、それを得ることができるのだ。ブタは自分が不浄なものを食べていることを知らない。これが彼の天国なのだ。もし、偉大な天使が降りてきたとしても、ブタはそれを見ようとはしないだろう。彼の全存在は食べることにあるからだ。
感覚的快楽に満ちた天国を願う人も同じことだ。彼らは感覚の泥沼の中で転がり回り、それ以外のものを知らないブタのようなものである。この感覚的快楽が彼らの求めるものであって、それを失うことが、彼らにとっては天国を失うことなのだ。このような人びとは決して最高の意味のバクタではあり得ない。彼らは決して本当の神の愛人ではあり得ない。同時に、彼らは、しばらくの間は、低い理想に従っても、やがては変わって行く。人はそれぞれ、自分が知らなかった、もっと高いものがあることを知り、彼らの、生への執着、感覚への執着は徐々に弱まって行くのだ。私は、学校の子供だったとき、菓子か何かを争って友達と喧嘩したことがある。友達の方が強かったので、菓子は奪われてしまった。私はその時の気持を今でも思い出すことができる。その少年はこの世で一番悪い少年だ。そして、私が十分強くなったら、罰してやろうと思ったのだ。彼を罰するためにはどんな罰でも足りないと思った。今では二人とも成人し、親友だ。このように、この世界は、飲み喰いや、同じような感覚的快楽が全てであるような赤ん坊に満ちている。それらを僅かでも失うことは、彼らには恐ろしいことなのだ。彼らは菓子のことしか夢見ない。彼らの来世の観念は菓子で一杯の場所だ。アメリカインディアンを見てみよう。彼らは、来世で、良い狩りの出来る場所に生き続けると信じている。私たちはそれぞれ、こうありたいと思う天国を心に描いている。しかし、時が経ち、年を取って、より高いものを知るにつれて、もっと高い世界をかいま見るようになる。しかし、私たちの来世の観念を、現代の普通のやり方で、つまり、何ものも信じないというやり方で、失うようなことがないようにしようではないか。このように全てを破壊する不可知論者たちは間違っている。バクタはもっと高いものを見ている。不可知論者たちは、天国を持っていないので、そこに行きたいと思わない。しかし、神の子は、天国に行くことが子供の遊びに過ぎないと思っているので、そこに行きたいと思わないのだ。彼が求めるのは神だ。神より高い目標があるか。神ご自身が人の最高の目標だ。「彼」を見よ、「彼」を楽しめ。私たちは決して、それより高いものを思うことはできない。神は完全なものだから従って、それ以上のことを思いつくことはできない。神の愛以上に高い喜びを思いつくことはできない。しかし、「愛」という言葉にはさまざまの意味がある。それはこの世で見る、普通の利己的な愛ではない。それを愛と呼ぶことは神を冒涜するものだ。私たちの妻子に対する愛は動物の愛だ。完全に非利己的な愛が唯一の愛である。それは神の愛だ。それに到達することは非常に困難である。私たちは子供への愛、父母への愛など、さまざまの愛を経験して行く。そして、徐々に愛の能力を訓練して行く。しかし、多くの場合、私たちはその経験からは何も学ばない。一つの段階、ひとりの人に縛りつけられてしまう。ある場合には、人びとはこの束縛を脱却する。人びとはこの世で常に妻や、富や、名声を追いかけている。時どき、彼らはひどい打撃を受け、そのとき、この世界は実は何であるのか、ということを知る。この世では誰も、神以外のものを本当に愛することはできないのだ。人は、人間の愛はすべて空しいものである、ということを知るのだ。人びとは愛することはできない。彼らはしゃべりまくる。妻は夫を愛すると言い、彼にキスをする。しかし、夫が死ぬやいなや、彼女が真っ先に思うのは銀行の通帳のこと、明日からどうしようかということである。夫は妻を愛している。しかし、妻が病気になって美しさを失ったり、やつれたりしたとき、また、妻が過ちを犯したとき、彼は妻を愛することを止める。この世の愛は全て偽善であり、空しいものである。
有限なる主体は愛することはできないし、有限なる対象は愛されることはできない。人の愛の対象は時々刻々死んで行き、人の心も彼の成長につれて絶えず変化するのに、この世にどんな永遠の愛を期待することができるのか。神の中以外には、どんな愛もあり得ない。それならなぜ、これらすべての愛があるのか。これらは単なる段階である。背後に、私たちを愛に駆り立てる一つの力がある。私たちは真の対象をどこに求めたらよいのか知らない。しかし、この愛が、それを求めて私たちを前進させるのだ。幾たびも幾たびも、私たちは自分の過ちに気づく。私たちは何かを掴む。しかし、それは指の間をすりぬける。そこで又他の何かを掴む。このようなことが幾たびも続く。それから遂に、光が来る。私たちは神、唯一の「愛する者」、神に到達するのだ。「彼」の愛は変わることがない。そして、常に喜んで私たちを受け入れる。私があなた方を傷つけたとする。あなた方の誰でもよい、いつまで私に我慢できるか。しかし、心に怒りも嫌悪も嫉妬も無い彼、心の平静を失わず、死にも生まれもしない彼――彼になら出来る――そして彼は、神以外の誰であり得るか。しかし、神に至るのは長い、また非常に難しい道である。ごく僅かの人しかそこには到達しない。私たちは皆努力している赤ん坊だ。何百万の人びとが、愛の宗教で商売をする。誰もがそれについて語る。しかし、ごく僅かが、それに到達する。一世紀の間に数名がその神の愛に到達する。すると、日が昇ると暗闇が消えるように、全世界が彼らを通じて祝福され、浄められる。ひとりの神の子が現れると、国全体が祝福され、浄められる。このような人は全世界に、百年の間にも稀にしか生まれない。それでも私たちはみな、その神の愛を求めて苦闘するのだ。また、私かあなたかが、そのような完全な愛を得る次の人になるかどうか、誰が知ろう。それだから、努力しようではないか。
妻は夫を愛すると私たちは言う。彼女は、自分の魂は全部夫に注がれている、と思う。しかし、赤ん坊が生まれると、彼女の愛の半分またはそれ以上は赤ん坊の方に行ってしまう。彼女自身、夫の同じ愛がその時も残っているとは思わないだろう。父親についても同じことだ。もっと強い愛の対象がやって来ると、前の愛が少しずつ消える、ということを、私たちも見出す。あなた方は学校に行っているとき、友達の何人かを、自分の生涯で最も愛しい人だと思ったことだろう。また、両親をそう思ったであろう。それから、あなた方は夫または妻になった。すると、前に持っていた感情は直ちに消え失せ、人生の新しい愛が心ひくものとなった。一つの星が昇る。つぎにもっと大きい星が昇る。つぎにもっと大きい星がやってくる。そして、最後に太陽が昇ると、小さな光は全部消えてしまう。その太陽が神である。星々は小さな愛だ。太陽が人の上に光を注ぐと、彼は狂気する。エマーソンが「神に酔った人」と言った状態だ。ついには人は神に変容するのである。あらゆるものは、その一つの愛の大洋に融合するのである。普通の愛は動物的な牽引力に過ぎない。そうでなければ、性の違いがなぜ必要なのか。神像の前に膝まづくと、それは恐ろしい偶像崇拝だ。しかし、夫や、妻の前に膝まづくと、それは全く理想的なのだ!
しかし、あなたはそれらの小さい愛を経なければならないのだ。先ず、基礎を清めなければならないのである。あなたの人生観の上に、愛の全理論は定着するであろう。この世界が究極であり、目的であると考えるのは動物的であり、堕落であるに過ぎない。人生をこの考えで出発する人は、自分を堕落させる。彼は決して、向上しない。真相を見ることが出来ない。常に感覚の奴隷状態にとどまっている。少しばかりの菓子を与えてくれるドルを得るために、苦闘するだろう。このような人生を送るよりは、死んだ方が良い。この世の奴隷たちよ、感覚の奴隷たちよ、立ち上がれ! これよりもっと高いものがあるのだぞ。あなたはこの人、この「無限霊」が、目や、鼻や、耳の奴隷になるために生まれて来たのだと思うのか。背後に、全てを可能とし、全ての束縛を断ち切ることのできる無限、かつ全知の霊があるのだ。そして私たちはその霊なのだ。そして私たちは愛によってその力を得るのだ。それだから、これが理想なのだ。あなたは記憶していなければならない。しかしそれは、明日得られるという訳のものではない。私たちは得た、と自分は空想するかも知れない、しかし、それは結局空想であろう。まだまだ長い道のりが残っているのだ。私たちは先ず、その人を彼の立っている場所でつかまえ、そしてもしできるならそこで彼の向上を助けなければならない。人は物質主義に立っている。あなたも私もみな、物質主義者である。私たちが神や霊について語るのはよい。しかしそれらは、一般社会の通り言葉に過ぎない。私たちはオウムのようにそれを学び、口にしているのだ。それだから、私たちはまず物質主義者であるこの自分をつかまえなければならないのだ。時には物質の助けを借りてでも。そして、ゆっくり、ゆっくり、真の霊性の人になり、自分を霊であると感じ、霊を理解し、そして私たちが無限と呼んでいるこの世界は、その背後にあるものの粗大な外見に過ぎないのだ、ということを見いだすまで、そろり、そろりと進みつづけよう。
しかしその上に、あるものが必要である。山上の垂訓に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」と言われているのをあなたがたは知っている。問題は誰が捜し、誰が求めるかである。私たちはみな神を知っていると言う。ある人は神の非存在を証明するために、他の人は神の存在を証明するために、厚い本を書いている。ある人は生涯をかけて神を証明するのが自分の義務だと思っている。他の人は神を否定し、神が存在していないことを人びとに教え回っている。神を証明したり、否定したりするために本を書いて何の役に立つか。神がいようが、いまいが、大部分の人びとには何の関係があろう。この都市に住む大部分の人は、朝起きて、朝食をとる。神は彼らが着物を着たり、ものをたべたりするのを助けには来ない。彼は仕事に行き、一日中働いて、金を得る。それを銀行に預けて家に帰り、食事をして、ベッドに入る。ちょうど機械のように、神をも思わなければ「彼」の必要性も感じない。それから、ある日死神がやってきて、「来い」という。男は言う、「ちょっと待ってくれ。もう少し時間が欲しい。息子のジョンがもう少し大きくなるのを見たいのだ」しかし、死神は言う、「すぐに来い」と。そのように事ははこぶ。哀れなジョンの場合も同じだ。この哀れなジョンに何と言おうか。彼は、一度も、神が最高の目的だということを彼に話せるものを見出したことがないのだ。彼は多分過去生ではブタだったのだろう。そして、向上して人に生まれたのだろう。しかし、この世は哀れなジョンたちばかりで成り立っているのではない。少しは目覚めた人びともいる。不幸がやってくる。最愛の者が死ぬ。自分の魂の全てを捧げていたもの、そのためには全世界を欺きもしたであろうものが失われる。ひどい一撃がやってくる。多分、ある声が私たちの魂の中に聞こえて、「このあとは何が来るのか」と問いかける。彼を豊かにするためにジョンが大勢の人をだまし、自分は飢えていた、その息子が多分死ぬ。するとジョンはその打撃で目が覚める。彼女を得るためにジョンが狂った牛のようにたたかった、その妻、彼女に新しい着物と宝石を買ってやるためにジョンが金を集めていたその妻が、ある日、突然死ぬ。そのとき、どうなるのか。時には死がやって来ても打撃を受けないこともある。しかし、このような例は稀だ。自分の目的が指の間から滑り落ちてしまったとき、私たちの大部分は「一体、どうしたら良いのか」と叫ばざるを得ない。何と私たちは感覚にしがみついていることか! 溺れる人が藁をつかむ話を聞かれたことがあるだろう。彼は藁にしがみつく。それに失敗するとかれは誰かが助けてくれるべきだと言う。それでも、人びとはイギリスの諺に言われているように、もっと向上するために、「野生の麦を蒔く」ことをしなければならないのだ。
しかしこの「バクティ」は、一つの「宗教」なのである。宗教は大勢の人のためにあるのではない。それは不可能だ。立ったりすわったりする、ある種の膝の訓練は、大勢の人びとのためにあるだろう。しかし宗教は、ごくわずかの人びとのためのものである。それぞれの国に、宗教的である人、そうなり得る人はほんの数百人しかいない。他の人はだめだ。なぜなら、彼らは目が覚めないだろう。さめたいと思わないのだ。大切なのは、神を「欲する」ことである。私たちは、通常、神以外のものは何でも欲しがる。私たちが普通求める物は外界から供給されるのだから。私たちが内から、神から供給を欲するのは、私たちの要求が外界を超越したときである。私たちの要求がこの物質世界という狭い限界内に限られている間は、私たちは神を求めることは出来ない。私たちが何かを求めて見上げるのは、この世であらゆるものに満足したときだけである。要求があるときにはじめて、供給はやって来るのだ。この世のこの子供の遊びをできるだけ早くやり終えよ。そのときに初めて、あなたは、この世を超えたあるものの必要を感じるであろう。そして宗教への第一歩がふみだされるであろう。
単に一種の流行にすぎないようなタイプの宗教がある。私の友人は居間の家具の間に日本の壷を飾っている。それが多分流行なのであれば、私もそれを持たなければならない、たとえ何千ドルしても、というわけだ。同様に、流行を追って私は宗教的になり、教会に行くだろう。バクティはこのような私たちのためのものではない。バクティは本当の「必要」から生まれるものだ。必要とは、それなしには私たちは生きることができないというものだ。私たちには呼吸が必要だ、食物が必要だ、着る物が必要だ。それなしには生きることが出来ないからである。ある男がこの世で一人の女を愛するとき、それは間違いではあるけれど、彼か彼女なしには生きていられない、と感じるときがある。夫が死んだとき、妻は彼なしには生きていられない、と思う。しかし、彼女は同じように生きて行く。これが必要というものの秘密だ。それは、それなしには私たちは生きて行けない、というもの、それがやって来るか、私たちが死ぬか、どちらかだ、というものである。私たちが神について同じように感じるようになるとき、言いかえれば、この世を超越したあるもの、全ての物質的な力を超越したあるものを欲するとき、そのとき私たちはバクタになるのだ。いわば、雲が少しと切れて私たちが、一瞬彼方をかいま見たとき、その瞬間のゆえにこれらの低い欲望は大洋の一水滴のように見えるとき、私たちのこの小さな生命など何ものであろう! 魂が成長し、神の必要を感じ、神を持たなければならなくなるのはそのときである。
それだから、第一歩は、私たちが「何」を欲するか、と言うことだ。この問いを毎日自分に問いかけようではないか――自分は神を欲しているのか。あなたがたは世界中の書物を読むかもしれない。しかし、この愛は、会話の力からも、最高の知力からも、様々の科学の研究からも得られるものではない。神を欲する人は「愛」を得るだろう。彼に、神はご自身をお示しになるのだ。愛は常に互いに反映されるものだ。あなたは私を嫌っているかもしれない。そしてもし私があなたを愛し始めるなら、あなたは反発する。しかしもし私が、一ヶ月、更に、一年、愛し続けるなら、あなたは私を愛するにちがいない。これはよく知られた心理学現象だ。夫を愛する妻が、亡くなった夫を想うように、私たちも同じ愛で神を欲しなければならない。そうすれば私たちは神を見いだすだろう。書物も、様々の学問も、私たちに何も教えてはくれないだろう。書物を読むことによって、私たちはオウムになる。書物を読むことによって、誰も博学にはならない。もし人が愛のたった一語を読むなら、彼はほんとうに博学になる。それだから私たちは、まず第一にその願いを持つことを欲するのだ。毎日、自分にたずねようではないか――私たちは神を欲するか――と。宗教を語り始めるとき、特に、高い地位に立って人を教え始めるとき、私たちは同じ問いを自分に問いかけようではないか。私は、たびたび、自分は、神を求めているのではない、もっとパンを欲しがっているのだ、と気づくことがある。一切れのパンを得ることができなかったら、私は気が狂うだろう。多くの婦人達が、もしダイヤモンドのピンが得られなかったら、気が狂うだろう。しかし彼女らは、神を同じようには欲しない。彼女らは、この世の唯一の「実在」を知らないのだ。私たちの国には次のような格言がある、「猟師になりたければ、サイを狩ろう。泥棒になりたいなら、王様の宝を取ろう」乞食から取ったり、アリを狩ったりして何になろう。それだから、もし愛したいと思うなら、神を愛せよ。誰がこの世のこれらのものなどを気にかけよう。私は率直にものを言う人間だ。しかし、善意の人間だ、あなた方に真理を知っていただきたいのだ。あなた方をおだてたいとは思わない。それは私の仕事ではない。あなたがたは私の子供のようなものである。私はあなた方に真理を語りたいのだ。この世は全くのうそである。全ての偉大な教師たちはそれを見出した。神による以外、それの出口はない。神が私たちの人生の目標である。この世を人生の目標とする考えはみな有害だ。この世界とこの肉体はそれなりの価値を、目的に至る手段としての二義的な価値を持っている。しかし、この世が目的であってはならない。不幸なことに私たちは余りにもしばしばこの世を目的と、そして神を手段とする。私たちは、人びとが教会に行って、「おお、神よ、これこれのものをお与え下さい、おお、神よ、私の病気をお直し下さい」と祈っているのを見る。彼らは健康な肉体を欲している。そして、誰かがどこかにすわっていて、彼らのためにそれをしてくれると聞いたので、行って、祈るのだ。こんな宗教の観念を持つくらいなら、無神論でいたほうがましだ。すでに申し上げたように、バクティは最高の理想である。将来、何百万年かかっても、そこに到達できるものかどうか、知らない。しかし、私たちはそれを最高の理想としなければならないし、感覚を最高のものに向けなければならないのだ。たとえ、目標に到達できなくても、少なくとも、それに近づくことはできるだろう。私たちはこの世界と感覚を通して神に近づくべく、ゆっくりとはたらき続けなければならないのである。