不滅の言葉 96年6号

     

ヨーロッパ旅行寸描

十月十三日、月例会「マーヤーについて」の講話あと

スワミ・メダサーナンダ

   

 ……さて、マーヤーの話はここで終わり、残りの時間ヨーロッパ旅行の話をしましょう。まず、九月十九日出発、大韓航空でソウル経由ロンドンに来ました。運賃がいちばん安かったからです。何しろお金を持っていませんから、まず協会から出してもらい、それに信者から受けたお金を足し、旅先でも助けて貰いました。殊に宿は全部、かの地のミッションのセンターに泊めて貰いました。そうでなければ、これだけの旅行には莫大な費用がかかったでしょう。往きは太陽を追いかける形で飛ぶから十八時間、長い一日でした。

 ロンドンの空港にはセンターのスワミとブラマチャーリ一人ずつと、たびたび日本に来てなじみ深い、かの地在住のタヤカラン氏とが出迎えてくれました。降り立ってまず目についたのは、空港の職員に実にインド人が多いことでした。空港だけではありません。ロンドンの街頭には、実に多くのアジア人アフリカ人を見かけます。ある町かどでは、見えたのはインド人ばかりでした。ロンドンはイギリス人だけの都市ではない、と知りました。これには歴史的理由がある、かの国が世界各地に植民地を持っていたころ、そこから多くの人びとが移住してきたのでしょう。ミッションのセンターはロンドンから車で約一時間、バッキンガムシャーという所にあります。センターについては、もう皆さんに話したからここでは省きます。ロンドンの中心を流れているのはテムズ河、ロンドンの生命と言ってもよいのでしょうか。インドの標準からすれば実に小さなこの流れに、多様なセンティメンタル・エモーションがまつわり着いています。それはガンガーがインドの文化から切り離せないのと同じです。実は私も、この小さな河を好み、愛しました。私はもちろん、シェイクスピアの生地、ストラットフォード・オン・エイヴォンを訪れました。彼の生家もよく保存されていました。訪問者の統計が示されていましたが、日本人が多いのにびっくりしました。どこへでも、行けば私は日本人とインド人の訪問者に注目するのですが、インド人も相当来ているけれど、日本人は多い。大英博物館に行きました。私は特に知りたいことがあって行ったので他をよく見るひまはなかったけれど、あそこに日本人小学生のグループが来ていたのには、こんなところまでつれて来るには莫大な費用がかかったであろうに、と驚きました。私が日本語で声をかけたら皆びっくり、よろこんでいました。旅先で多くの外国人を見かけるが、わたしはいつもまず日本人に声をかけたものです。それから、ウィンザー宮殿に行きました。世界各地から集めた見事な品々、殊にインドからの貴重な宝物の数々が陳列されていました。全部、植民地時代に略奪したものです。ほかにも、公正な方法で運ばれてきたのではないものがありましたが、インドはイギリスにとってもっとも豊かな植民地でしたから多くのものが略奪され、その結果イギリスが金持ちになり、インドが貧しくなったのです。それはとにかくとして、私はバッキンガム宮殿を訪れました。ここで衛兵の交代を実に興味深く見ました。この交代は今も一定の形式で軍楽の演奏を伴って行なわれており、驚いたことに、その隊員は今も植民地時代そのまま、ヒマラヤ地方(ネパールの近く)からつれて来られた、グルカ兵でした。

 それからオックスフォードへ、案内のついたバスで町を見物しましたが、ちょうど暑中休暇中、一つだけあいているカレッジをおとずれました。それからマダム・タッソーの博物館、世界中の有名な人物の、実物大の蝋人形が陳列してあります。イギリスの有名な犯罪者の像までありましたが。実に活き活きとした姿にできていて、眺めているうちに、その人形が生きていて、それを眺めている人が人形であるような錯覚を起こすのです。まさに、先ほど話したマーヤーそのものでした。私が一つの人形をしばらくじっと見つめていたら、他の見物人が私を蝋人形だと思って見つめていたのです。動き出したのを見てびっくりした様子でした。あちらこちらに休憩用のベンチがおいてありますが、そのベンチに腰かけて別の人形を見つめている人形もあります。皮膚の色と言い、姿と言い、実に完全にできているので、どれが人でどれが人形か分からなくなるときがあるのです。マーヤーの生きたデモンストレーションを見たかったら、あそこに行かれるとよいと思います。(笑い)プラネタリウムにも行きました。ロンドンの地下鉄は非常に古くて汚いけれど、時間は正確です。

 もう一つ興味深かったのは、ロンドン郊外に巨大なヒンドゥ寺院があり、それが全部、白大理石でできていたことです。グジラートの商人たちが建立し、その建築には六千万ポンドが費やされたということです。中に展示場あり講演会場ありショッピングセンターあり、ヴェーダの学校もあります。聖堂にはヒンドゥの神々の像とともに、この団体の創始者の像も祀ってあります。インド人、殊にグジラーティはもちろんのこと、王室の人びとをも含めたイギリス人がたくさん訪れています。また近くのキリスト教会が不振で閉鎖され売りに出たのでインド人が買い取り、改装してヒンドゥ寺院にしようとしているそうです。インドがイギリスの植民地であったころ、キリスト教の宣教師たちは、インドでもやがては偶像崇拝のヒンドゥ教は滅び、ここはキリスト教国になる、と予言したのでした。

 それからパリに行きました。ユーロメイルという、ドーヴァー海峡を横切る海底トンネルを通る線です。列車は新幹線より速い時速三百キロ、四時間でパリに着きました。センターはそこから電車で四十五分という所にあります。ヨーロッパで一番大きいセンターで、境内に果樹園あり、森あり、牧場もあります。ヨーロッパ中から大勢の信者が訪れていました。

 滞在中ノートルダム寺院、ソルボンヌ大学、エッフェル塔などを訪れました。エッフェル塔は東京タワーより魅力があります。塔の上にそこから世界の大都市への距離と方向を示す説明があったのをおもしろく思いました。塔から眺めた市街は実に美しく、建物の高さと外壁の色が統一されています。クリーム色が太陽の光を受けると輝くのです。この伝統の美を保存するために、建物の新築改築は大きく規制されています。改築の場合にも町に面した前側は変えることを許されないので、前側だけを保存する、という技術が開発されているそうです。バルコニーについている金属製の手すり、欄干は日本に、その製造を引き受ける会社があって、そこでは、あらゆるタイプの古いデザインを用意しているのだ、ともききました。こうして彼らは、伝統を守るのに莫大な費用を負担しているのですが、これによって世界中から観光客を惹きつけてもいるわけです。パリではこのほかにルーブル美術館とヴェルサイユ宮殿を訪れました。私もいくつかの宮殿を見ましたがあんなに豪華なのははじめてでした。建築には莫大な財宝が費やされたとのこと、そしてそれがフランス革命の原因の一つでもあったとのこと、歴史の両面です。セーヌ河はテムズ河と並んでそれぞれの都市を代表し、どちらもそれなりの趣がありますが、セーヌの方が少し河幅がひろく、船を楽しみました。地下鉄は東京もパリのどちらも清潔ですが、パリのはもっと装飾的でした。パリの町全体に建築美と見事な彫刻があふれており、これが、世界一美しい都市と言われる所以だと思いました。

 しかし、私はベナレスを特に研究していますので、ロンドン、パリをベナレスと比べ、違いは何だろうと考えました。どちらも古い都なのですが、ロンドン、パリは八百年からせいぜい一千年、ベナレスはその四倍の古さです。しかしもっと重要なのは、どちらも伝統を維持しているけれど、前二者のが物質的な伝統であるのに比べ、後者のは文化的宗教的な伝統が四千年も維持されている、ということです。前二者と異なり、ベナレスには物質的文化遺産を見ることもできますが、同時に四千年来の宗教的霊的文化が生きた姿で保存されているのです。市民の生活の中に生きているのです。どうぞ皆さんベナレスも訪れて下さい。パリではマーヤーの美しさに魅せられるでしょうが、ベナレスではそれを超えることができます。


 


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