不滅の言葉 96年6号

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

愛の宗教(1)

第一章 予備訓練

 バクティ・ヨーガの最善の定義は多分プララーダによって与えられた次のものだろう。即ち、「識別力のない者が、はかない感覚の対象に対して常に抱いているあの愛、それと同じ種類の愛を、「あなた」(神)に対して持つことができますように、「「あなた」を想うときに感じる喜びが私の胸から消え失せませんように」(ヴィシュヌ・プラーナ、一―二〇―一九)というものだ。より良いものを知らない者たちが、感覚の対象、金銭、衣服、妻子、友人、所有物などに対してどんなに強い愛を持っているか、どんなに強く執着しているかを、我々は知っている。だから、この定義の中で賢者は言っているのだ、「この執着、この強い執着を、「あなた」(神)に対してだけ持とう」と言っているのだ。この愛が神に向けられたとき、それをバクティと呼ぶ。バクティはこわれない。それは、私達に与えられた能力に、一つとして無駄なものはない、それらの中に、解脱に至る自然な道が見出されるのだ、と説く。バクティは何ものをも抑制しない。それは自然に反することはしない。ただ、それに、より高い、より力に満ちた方向を与えるだけである。なんと自然に、私たちは感覚対象を愛することか、また、私たちはそうせざるを得ないのだ。それらが私たちにとって非常にリアルであるからだ。私たちは、通常は、より高いものには現実感を持たない。しかし、人がこれらの感覚の彼方に、感覚世界の彼方に、リアルな何ものかを見たときには、彼は、同じ執着を持ち続けるが、しかし、それをこの感覚を超えた対象、つまり、神に向けるようになる、という意味である。そして、かつては感覚対象に向けられていた同じ愛が神に向けられたとき、それがバクティと呼ばれるのだ。賢者ラーマーヌジャによると、この強い愛を得るための準備段階は次のようなものである。

 第一はヴィヴェーカ。そしてそれは、特に西洋の人びとには、非常に奇妙なものである。ラーマーヌジャによると、これは「食物についての識別」なのである。食物は、その中に私たちの心身の力を作り上げる全エネルギーを含んでいる。私の現在あるすべては、私が食べた食物のかたまりの中にあった。それは私の中に取り入れられ、蓄えられ、私の中で新しい方向が与えられたのだが、しかし本質的には、私の心身は、私が食べた物と異なるものではない。物質世界には力と物質があり、この力と物質が、私たちの中で心と身体になっているのだから、心身と食物とのちがいは本質的には現れ方のちがいに過ぎないのだ。食物という物質の粒子から私達は思いの道具をつくり、これらの粒子の中にやどる精妙な力から思いそのものをつくる、というのであれば当然、この思いとその道具は、私たちが摂る食物から影響を受けることになる。心にある種の変化をもたらす食物がある。私たちはそれを毎日はっきりと見ている。また、まず身体に変化をもたらし長い間には心に大きな影響を与える、というものもある。それは、学ぶべき大切なことである。私たちが被る悲惨の多くは、単に、私たちが摂る食物によって引き起こされているのだ。重い消化され難い食事の後では、心を統御することが非常に難しいということはご存じだろう。心は絶えず走り、走っているのだ。また、ある種の興奮させる食物がある。このような食物を摂ると、心が統御できなくなることに気づかれるはずだ。。多量のワインや、その他のアルコール性の飲物を飲んだ後には、人が自分の心を統御することができなくなるのは当り前のことだ。おさえても逃げてしまうのだ。

 ラーマーヌジャによると、避けなければならない三種類の食物がある。まず、ジャティ、即ち、食物の性質、または、種類。すべての興奮性の食物はさけるべきだ。例えば、肉、。これはもともと不浄なものだから避けなければならない。他者の生命を奪ってしか得られないからだ。私たちはそれを食べて瞬間的に快楽を感じる。しかし、その快楽を得るためには他の生きものが生命を失わなければならない。そればかりでなく、私たちは同時に他の人々を堕落させることになる。肉を食べる人が自分で動物を殺すなら、むしろましだろう。しかし、そうする代わりに、社会はそれを職業とする階級をつくり、それを理由に彼らを嫌っている。私はこの国の法律は知らない。しかし、イギリスでは屠殺人は陪審員になれない。生まれつき残忍だというのが理由だ。誰が彼らを残忍にしたのか。社会だ。もし我々が牛肉やマトンを食べなかったら、彼らは屠殺人にはならなかったであろう。肉食は、非常にはげしい仕事をする人、バクタになろうとはしない人々だけに許される。しかし、もしあなたがバクタになろうとするなら、肉類や、玉葱やにんにくのような刺激の強いもの、「ザウエルクラウト」(ドイツの漬物の名前)のように悪臭のするものは避けなければならない。日が経って腐りかけたもの、もともとあったジュースが乾きかけたもの、悪臭のするものも避けなければならない。

 食物について、次の項目は西洋人には、ますます複雑に思われることだろう。それはアーシュラヤ、つまり、それを用意した人、と呼ばれるものだ。これは、ヒンドゥの神秘的理論と言ってよかろう。その考え方は、人はみな、その周囲にある種の雰囲気(オーラ)を漂わせていて、彼が触れる物は何であれ、彼の性格の一部、いわば、彼の影響をその物の上に残す、というものだ。それぞれの人から体臭が出るように、性格も彼から発散されていて、彼が触れる物はそれを受けるのだ。従って、私たちは、食物が調理されるとき誰がそれに触れるか、に気を配らなければならない。邪悪な、不道徳な人はそれに触れてはならないのだ。バクタになりたいと願う人は邪悪だということを知っている人とともに食事をしてはならない。彼らの影響が食物を通じてもたらされるからである。

 次はニミッタである。これは非常に理解しやすい。汚れやほこりなどは食物の中に入ってはならない。食物を、外界の汚れや、塵などをつけたまま、市場から持って来て、洗わないまま食卓の上に置いてはならない。又、唾やその他の、口から出る分泌物のついた物に触れてはならない。唇を触れる習慣や、唾の付いた物に触れる習慣は、私が経験したうちで最も恐ろしいものだ。神は洗うための水を十分に与えていて下さるのに――。粘膜は身体の中で最も繊細な部分だ。あらゆる影響は唾を通じて非常に容易に運ばれる。従って、粘膜の接触は、不快であるばかりでなく、危険でもある。従って、ほかの人が食べかけた食物、つまり、誰かがりんごを半分かじって、残りを他人に与えたような場合、それを食べてはならない。今述べたようなことを避けた場合、その食物は淨い。「淨い食物は淨い心をもたらし、淨い心は絶えず神を覚えている。」(チャンドーギヤ・ウパニシャッド、七―二六)

 さて、同じことを他の注釈者シャンカラーチャーリヤが説明しているが、それを話そう。彼は全く別の見解を持っている。。食物に該当するサンスクリット、アーハーラは「集めること」を意味する語幹から出ており、従って、それは、集められたものを意味する。彼の説明はどうか。彼は「食物が淨ければ、心は淨くなる」と言っている。つまり、感覚に執着しないためには、ある種のことを避けなければならないということだ。先ず、執着についてだが、神を除いて、何ものにも極度に執着してはならない。何ものを見ても良い、何をしても良い、何に触れても良い。しかし、それに執着してはならない。極端な執着が生じると、人は自分自身を見失ってしまう。彼はもう自分の主人ではない。奴隷だ。女が一人の男に極端に執着したとする。彼女はもうその男の奴隷だ。男の場合も同じである。奴隷になることに益はない。この世にはひとりの人間の奴隷になるより優れたことがある。すべての人を愛せよ、すべての人に尽くせ。しかし、奴隷にはなるな。それは、まず、私たちをそれぞれに堕落させる。つぎに、私たちを極端に利己的にする。その結果、私たちは自分が愛する人に善を行なうために他者を傷つけようとする。この世界でなされる悪の大部分は、実は、特定の人びとに対する執着からなされるのだ。良い仕事に対する執着を除いて、この種の執着は避けなければならない。そして、愛はすべての人に与えられなければならない。次は、嫉妬についてだ。感覚の対象に対して、嫉妬を持ってはならない。嫉妬は全ての悪の根源であり、しかも、最も克服しがたいものだ。次は妄想だ。私たちはいつも、あるものを別のものと取り違え、それに対して働きかけている。そして、その結果、自分で自分を惨めなものににしている。私たちは悪を善と取り違えている。神経をちょっとくすぐるものを最高の善だと思い込み、じきにその中にとびこんでしまうが、それは私たちに手痛い打撃を与える。だが、もうおそすぎる。私たちは毎日この過ちを繰り返している。しばしば、一生繰り返している。感覚が、極端な執着なしに、嫉妬なしに、妄想なしに、この世界の中で働くとき、シャンカラーチャーリヤによると、このような働きは「淨い食物」と呼ばれる。食物が淨いと、心は、対象を取り入れて、それについて、執着も嫉妬も妄想もなく、考えることができる。そのとき、心は浄まり、常に神を考えているようになるのだ。

 人がシャンカラーチャーリヤの考えが結局は最善だ、と言うのは極めて自然だ。しかし、私は最初の、ラーマーヌジャの考えも無視してはならないということを、つけ加えたい。物質の食物について実際に気を配って初めて他のものはやってくるのだ。心が主人だと言うことは全く真実だ。しかし、感覚に縛られない人は非常に稀である。私たちはみな物質に支配されている。物質に支配されている間は、物質の助けをかりなければならない。十分に強くなったときに初めて、私たちは何を食べてもよくなるのだ。それだから、私たちは、飲食について氣を配るときはラーマーヌジャに従わなければならない。また同時に、心の食物についても注意しなければならないのだ。物質の食物に配慮することはたやすい。しかし、心の働きがそれについて行かなければならない。そのとき、霊的自己は徐々に強くなって行き、物質的自己は徐々にひかえ目になる。そして最後には、どんな食物も、自分を害うことはない、と知る時がやってくる。非常に危険なことは、みなが一度に最高の理想にまで飛び上がりたがることだ。それは正しいやり方ではない。落ちて脚を折るだけのことだ。私たちはこの低い場所に縛り付けられている。その鎖をゆっくり壊して行かなければならないのだ。これがヴィヴェーカ、「食物の識別」と呼ばれているものだ。

 次は自由、ヴィモカと呼ばれるものだ。神を愛したいと思う人は極端な欲望を避けなければならない。神以外のものを求めるな。この世界は、人がもっと高い世界に行くのを助ける限り善なのだ。感覚の対象は、人がもっと高い対象を得るのを助ける限り良いのだ。私たちは、この世界が目的に達する手段であって、目的そのものではない、ということをいつも忘れている。もしこの世界が目的であるなら、私たちはここで、この肉体のままで不死であるはずだ。決して死なないはずだ。しかし、私たちは、周りの人びとが常にに死んで行くのを見ていながら、愚かにも、自分達だけは死ぬことはないと思っている。そして、その確信からこの人生が目的地だと思うようになっている。私たちの九十九パーセントはそうだ。このような考え方は今ここで改めなければならない。この世は私たちを完成させてくれる手段である限り善だ。そうであることを止めたとき、それは悪、悪以外の何ものでもない。従って、妻子、夫、お金、知識は、それらが私たちを前進させるのに役立つかぎりは良い。しかし、そうでなくなったとき、それらは悪以外の何ものでもない。妻は、私たちを神に向けて進むのを助けてくれるかぎり、良い妻だ。夫や子供についても同じだ。お金は他人に良いことをするのに役立つかぎり、少しは価値がある。しかし、そうでなければ、悪の塊に過ぎない。一刻も早く捨てたほうが良い。

 次はアビヤーサ、つまり実践だ。心は常に神に向けられていなければならない。それ以外のものは私たちの心に入り込む権利を持っていない。心は常に神を思っていなければならないのだ、非常に難しい課題ではあるが。それでもこれはたゆみない実践によって始めて可能である。私たちの現在は過去の実践の結果であり、実践が私達の将来をつくるのだ。他のやりかたを実践してみよ。ある方向をとったことが私たちの現在をもたらした。他の道をとり、できるだけ速やかにそれを脱却せよ。感覚を思った結果、私たちは、一瞬間生き、一瞬間泣き、次の瞬間喜び、風のまにまに動かされて、ひと言葉の、更には、一片のパンさえも奴隷となったのだ。恥じるべきことだ。それなのに、自分たちを霊と呼んでいる、私たちには何の意味もないことだ。私たちはこの世の奴隷なのだ。感覚に走った結果、自分で自分をそうしたのである。他の道を行け。神を思え。心に肉体の、または心の快楽を思わせず、神だけを思わせよ。他のことを考え始めたら、向きを変えて神を思うよう、それに手痛い一撃を食らわせよ。「油が一つの容器から別の容器に途切れのない一線となって落ちるように、鐘の音が遠くから響き、それが一連の流れとなって耳に流れ入るように、この心は途切れない一つの流れとなって神に向けられなければならない」私たちはこの修行を心だけにさせることなく、感覚にもさせなければならない。馬鹿げた話に耳を傾けることなく、神の話に耳を傾けよ。馬鹿げたことを話すことなく、神について語れ。馬鹿げた本を読むことなく、神について語る良い本を読め。

 神を記憶しつづけるこの修行に最も役立つのは、多分、音楽だろう。バクティの偉大な教師であるナーラダに主はおっしゃった、「『私』は天に住んではいない、ヨギたちの心にも住んではいない、ただ『私』の信者達が『私』の賛歌を歌うとき、そこに『私』はいる」と。音楽は心を瞬時に集中させるほど、心に圧倒的な影響を与える。鈍い、無知な、粗野な人で、心を一瞬も落ち着かせることのできない人も、魅力的な音楽を聞くと、たちまちそれに魅惑される。ライオンや、犬や、猫や、蛇などの動物の心も音楽に魅力を感じる。

 次はクリヤー、仕事、他者に善を行なうことだ。利己的な人に神の思いはやってこない。私たちが外に出て、他者に善を行えば行うほど、私たちの心は浄められ、その中に神が住むようになるのだ。私たちの聖典によると、五つの礼拝と呼ばれている、五種類の仕事がある。先ず、勉学だ。人は毎日神聖な良いことを学ばなければならない。第二は、神、天使、聖者達の礼拝だ。第三は祖先に対する義務だ。第四は人類に対する義務だ。人は貧者、またはそれを必要とする人びとのために家を建てるまでは、自分の家に住む権利を持っていない。家住者の家は貧者や苦しむ者すべてに開かれていなければならない。こうして彼は本当の家住者となるのだ。自分と妻しかこの世にいないと思って、二人が楽しむだけの目的で家を建てるなら、彼は神を愛する人ではない。それは最も利己的な行為だ。人は自分だけのために料理を作る権利を持っていない。彼は他者に与えた後に食べなければならないのだ。インドでは、マンゴーや莓などの季節の食べ物が始めて市場に出回ったとき、それをたくさん買い込んで貧しい人々に与えるのが習慣となっている。人はそれが済んでから自分で食べるのだ。インドではそのようにするのが良いとされている。この習慣は人を非利己的にするばかりでなく、同時に、妻子に対する訓練にもなっている。古代には、ユダヤ人は初なりの果物を神に捧げた。初物はすべて貧者に与えなければならない。私たちにはその残り物にしか権利がないのだ。貧者は神の代表だ。苦しむ者はすべて神の代表だ。与えずに食べて楽しむ者は罪を犯しているのだ。第五は動物達に対する義務である。動物は人に殺され、すきなように使われるために創造されたのだ、などと言うのは残忍なことである。それは悪魔の福音であって、神の福音ではない。動物たちを捕らえて、その神経が体のどこを動かすかを調べるために切り刻むのは、なんと残酷なことだろう。私たちの国で、支配している国からどんなに勧められても、ヒンドゥたちがそのようなことをしないのを、私は嬉しく思う。私たちが食べる食物も、一部分は動物達にも属しているのだ。彼らには毎日食物を与えなければならない。この国のすべての町には貧者、盲人、足なえ、馬、犬、猫、牛達のための病院がなければならない。そして彼らはそこで食物を与えられ、世話されなければならない。

 次ぎに「カリヤーナ」、精進潔斉がある。その中には幾つかの項目がある。第一がサティヤム、誠実だ。誠実な人には真実そのものである神が訪れる。思い、言葉、行為は完全に誠実でなければならない。次はアールジャヴァム、正直であることだ。その意味は、単純であること、心が曲がっていないこと、裏表がないことだ。例え少々辛くともまっすぐ進め。曲がってはならない。ダーヤー、憐れみ、同情。アヒムサー、思いにおいても、言葉、行為においても、あらゆる生きものを害しないことだ。ダーナム、慈善。慈善以上に高い徳はない。最低の人間はその手が自分の方に向いていて、自分のために物を取り込む。最高の人は、手が他者の方に差し出されていて、他者に与える。手はそのために、常に与えるために作られているのだ。たとえ自分が飢えていても、持っているパンの最後の一切れを与えよ。他者に与えたために自分が飢死にしようと、その瞬間にあなたは自由になるだろう。直ちにあなたは完全なものとなり、神となるだろう。すがりつく子供たちを持っている人は既に束縛されている。彼らは放棄することはできない。彼らは子供たちを喜ばせたいと思うし、そのために代価を支払わなければならないのだ。この世に子供達はもう十分いるではないか。「私は自分のために子供をもつ」と言うのは利己心にすぎない。(ラーマーヌジャはカリヤーナという項目で述べられている性質の中に、アナヴィドゥヤ、即ち、他人の物を欲しがらないこと、空しいことを思わないこと、他者から受けた侮辱をくよくよ思わないことも加えている。これはスワミ・ヴィヴェーカーナンダが別のところで述べていることである)

 次はアナヴァサーダ(字義はすわらないこと、気落ちしないことを意味する)、つまり、快活さだ。意気消沈している状態は、それが何であろうと、宗教ではない。快活で、微笑することによって、あなたは祈りによるよりも神に近づくだろう。陰欝で暗い心がどうして愛することができるようか。彼らが愛について語ったとしたら、それは嘘だ。彼らは他者を害しようとしているのだ。狂信者たちを考えてみよ。彼らは一番暗い顔をしている。彼らの宗教は、他者を攻撃することだ。過去の歴史を振り返って、今日、彼らに行動の自由を与えたとしたら、彼らは何をするだろうか。もし彼らが力を得たら、明日には全世界を血の海にすることだろう。このような陰欝さが彼らの神だからだ。恐ろしいものを礼拝し、暗い顔をすることによって、彼らはハートから愛を根こそぎ失い、あらゆる人に無慈悲になる。従って、いつも惨めに感じている人は、絶対、神のもとに来ることはない。それは宗教ではない。「私はこんなに惨めだ」と言うのは悪魔崇拝だ。人は皆重荷を持っている。もし惨めだったら、幸福になろうと努力せよ、惨めさを克服するよう努力せよ。

 弱い者は神に到達できない。決して弱くあるな。あなたは強くなければならない。あなたは内に無限の力を持っている。そうでなくて、どうしてすべてを征服できるか。同時に、過度の快活さ、いわゆる、ウッダルシャを避けなければならない。そのような状態にある心は平静になることができない。移り気になるからだ。過度の快活は常に悲しみをもたらすからだ。涙と笑いは近い親戚だ。人は過度から過度へと走りがちだ。心を快活に、同時に平静に保て。決して過度になるな。過度は必ず反作用をもたらすからだ。

 ラーマーヌジャによると、これらがバクティの準備段階である。


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