不滅の言葉 96年5号

     

 ギャーナ・ヨーガについての講話(3)
東京新橋の月例会で

スワミ・メダサーナンダ
   

   

 ギャーナ・ヨーガの講義をききに、皆さんよく来て下さいました。ここでちょっと、前回の話の要点をくり返させて下さい。ギャーナ・ヨーガの本格的な実践とまでは行かない、単なる知識について話しました。このヨーガの単なる知的理解だけでも、私たちを大きく助けるのです。

 私たちは通常、自己について非常に混乱した概念を持っています。あるときは自分は肉体であると、あるときは本能であると、あるときは心だと、そしてまたあるときはインテリジェンス、知能である、と考えます。しかしときにはまた無意識のうちに、「私の心」、「私のからだ」などと言うことによって、自分はそれらとは別の何ものかである、ということを表白しています。ほんとうに、私たちは body-mind complex 身心複合体とは別のものなのであって、ギャーナ・ヨーガの分析によると、霊、「自己」、魂以外の何者でもありません。しかも私の自己はすなわち、至高の自己そのものなのです。こうして私たちがただ知的にでも、自分は永遠の、無限の存在である、ということを知るなら、それは人生に対する私たちの態度に大きな影響を与えるでしょう。この前の講義の中で、スワミ・シヴァーナンダジー・マハラージの逸話を聞かれたことを、覚えておいででしょう。彼はぜん息の発作で一晩中ほとんどお眠りになれなかったが翌朝医師が、「ご気分はいかがで」とお尋ねすると、「いい気分だよ」とおっしゃる。「でもお休みになれなかったようで」と言ったら、「ああ、からだか、からだの具合はよくなかった」とおっしゃった、というのです。実は一晩ぐらい眠れなかったとて、肉体がそれほどの悪影響をうけるわけでもないのに、私たちはさわいで、ときには医師にまで訴えます。しかしマハープルシャ・マハラージの態度は、自分は肉体の状態からはまったく影響をうけない、というものでした。ベンガルのことわざがあります。「病気は病気に心配させておけ。病気はからだに心配させておけ。だが、おお心よ、お前はつねに喜んでいよ」またスワミ・トゥリヤーナンダジー・マハラージにこのような話があります。マハラージが悪性の腫物に悩まれ、手術が必要となりました。当然、全身麻酔が必要なのでそのことを申し上げると師は、「その必要はない、ただ手術をはじめる前にそのことを知らせてくれ」とおっしゃいました。こうして手術は無事に終わり、そのことが告げられると師はおどけて、おお痛かった、という身ぶりを示されたそうです。彼はみずからの意志で手術の間中本来の自己、霊の意識に没入し、完全に肉体意識を離れておられたのでした。

 私たちは大なり小なり、苦しみに耐える力を持っています。そして私は、日本人とインド人とを比べると日本人の方が辛抱する力がつよいと思って感心します。ただし、同じ忍耐でも、もしそれが忍耐のための忍耐であるなら、それは消極的な態度でしょう。積極的な忍耐は、「自分はアートマンである、という自覚にもとづくものです。苦痛は肉体と心が受けているもの、私は霊である、アートマンである」これが、苦痛への積極的なアプローチです。人生に苦痛はどのみち避けがたいものですが、苦痛はあり、と見てそれに耐えるのと、苦痛は私のものではない、と知るのとは、まったく異なる境地です。後者が積極的な態度である、というのは、後者が、私たちの霊的進歩を助ける態度なのですから。

 つぎに、これは私たちに共通の経験ですが、しばしば、自分がそれを欲しないのに、私たちの快楽の対象を追いかけます。ギャーナ・ヨギの分析によるとそれは私たちの本能のしわざです。こう知ると、制御は私たちにとって、もっとたやすくなります。彼らによると、その対象は何か。結局影のようなものです。私たちが、見、聞き、ふれ、嗅いで知るものはすべて、私たちの心という空を通りすぎる影、雲のようなものなのです。このように考えると、すでに申し上げたように、私たちにとって心の制御はらくになります。どの道を進むにせよ、真剣に霊性の修行にとり組んでいる人にとって心の制御はもっとも重要なことなのですが、ギャーナ・ヨーガの分析は人びとのこの努力を大きく助けます。

 さて、私たちにとって、最大の恐怖は何でしょうか。(誰かの答え)「死の恐怖です」そう、死の恐怖です。自分がいなくなることへの恐れです。しかし、皆さんが着ている衣服が古くなり、すり切れて色もあせたら、皆さんは当然、それを新しいのと取りかえるでしょう。死は古びた肉体を新しいのと取り替えることである、と知れば、それを喜ぶとまでは行かなくても、悲しむことはなくなるはずです。このように、ギャーナ・ヨーガの教えるところの単なる知的理解だけでも、苦痛、感覚の楽しみへの誘惑、および死の恐怖という、私たちの人生の三つの大きな問題に対する私たちの心の態度を変えます。

 ここで、このような心境の変化がどのように私たちの瞑想を助けるか、話させて下さい。真剣に精神集中の努力をした人は誰でも経験することですが、瞑想にすわると、あとからあとから、心を散漫にする、心を乱す、ときには不純な、またショッキングな思いがわいて来て、集中を妨げます。過去に犯したあやまち、不純な思いの記憶も現われるでしょう。これらすべては、心中にたくわえられていた記憶の蓄積から出てくるのです。このような問題に悩む求道者からの訴えを受けた師、霊性の指導者が通常彼らに与える指示は、そのような想念には注意をはらうな、心はいたずらっ子のようなもの、それらは心の気まぐれであるから、来て、また行ってしまう、というものです。

 しかしここにもう一つの考え方もあって、それも修行者を助けるでありましょう。それは、雑念が心にやってくる。しかし私は心ではない、霊である、私は常に浄らかで自由だ、心の影響は受けていない、と思うのです。そして、私が言いたいと思う第三のポイントはこれです。たとえ私たちが少しばかりギャーナ・ヨーガを学んだとしても、なお必要なのは、「無恐怖」の状態を、もっとゆたかにわがものとすることです。スワミジーのギャーナ・ヨーガ、すなわちヴェーダーンタ、すなわちウパニシャッドが教えているオピー Apih 無恐怖の境地です。どのように教えておられるか。「マクロ(大)レベルにあるものは、同時にマイクロ(小)レベルにもある」と言うのです。小さな水の一滴が、その中に無限大の宇宙を映しています。そのように、私たち一人ひとりが、その自己の内に至高の自己、ブラフマンを宿しているのです。サット・チット・アーナンダ、実在・知識・至福はそのまま、私たち一人ひとりの本性なのです。私たちは、body-mind complex (身心複合体)に縛られた存在ではないのです。私たちは自己について劣等感を持つべきではありません。実は私たちは無限の知識、無限の力、無限の歓喜の貯蔵庫なのです。

 スワミジーは彼の講演の中でこう言っています。「いっさいの知識はすでにわれわれの内にある。外界はそれを誘発するだけだ。重力の法則はニュートンが発見するまでどこかに隠れていたのではない。すでにニュートンの内にあったものが、リンゴが落ちる、という外界の現象に触発されて表にあらわれたのである」と。スワミジーは、教育と宗教という言葉に実にすばらしい定義を与えています、「教育は、人にすでに内在する完全性を表に現わすこと、完全性をおおうカバーを除くことである」と。そして宗教を、こう定義しています、「宗教は、人にすでに内在する神性を表わすことである」と。神性と完全性は要するに同じものですが、宗教の場合に霊的な面を強調するので、神性 Divinity と言っています。どちらもすでにわれわれに内在するもの、ただ私たちは、それを意識しなければならないのです。気がつかなければならないのです。それをすることを、ギャーナ・ヨーガは助けてくれるのです。スワミジーがサンスクリットで書いています、「わが友よ、君はなぜ泣いているのか。自分を、どうしようもない、無力だ、失敗した、だめだ、などと感じるのか、君は無限の力の貯蔵庫なのだぞ。おりを破って出るサイのように、この世のおりを破って出てこい」と。

 しかし私たちは、おりを破るどころか、草をたべて大きくなったトラのように生きているのです。トラの話は皆さんご存じでしょう。ヤギの群れをおそったトラが狩人に射殺され、死ぬ前に子トラを産み落としました。親のない子トラは牝ヤギに育てられ、草をたべて成長し、ヤギのようにメエメエと鳴いていました。ある日別のトラがヤギの群れをおそい、ヤギといっしょに逃げるトラを見てびっくりしました。そのトラをつかまえて水辺につれて行き、二匹の顔を並べて見せました。またいやがるのをむりに肉の一片をたべさせ、その味をおぼえさせました。そして、トラのくせにヤギのまねをして草をたべていた愚かさを叱ったので、このトラも目がさめ、新しいトラとともに森に入った、というのです。ギャーナ・ヨーガは私たちに、自己の本性を忘れるな、と教えています。私たちは自己に内在する力を忘れて、自分を小動物のように思っているのです。ギャーナ・ヨーガはこの過ちを指摘して私たちに、自分の本来の性質を思い出させてくれます。このことは私たちに、莫大な力を与えるのです。このように私たちは、たとえ知的にではあってもギャーナ・ヨーガを学ぶことの、効果を知りました。この、個別の自己は至高の自己とひとつものである、という思想はヴェーダの聖典の基調をなすもので、このことはまた後にのべようと思いますが、その前に、これと同じ思想はキリスト教の中にも、またイスラムの教えの中にもあとづけることができるので、次回にはその話をしましょう。
 


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