不滅の言葉 96年5号
ヴィヴェーカーナンダの見たヨーガ
八月四日、祝賀会会場にて
スワミ・バスカラーナンダ
仏教の年代記、マッジマ・ニカーヤという書物の中に面白い話がのっています。
マルンキャプッタと呼ばれる一人の僧が、ゴウタマ・ブッダのもとにきて二つのことを尋ねるのです。
最初の問いは、「世界は永遠ですか」
第二の問いは、「完成したブッダは、死後も存在しつづけますか」です。
彼は同時に、むしろ侮辱的な態度で、ブッダがこれらに答えることができるかどうか、を尋ね、もしできなければ、そのことを公表せよ、と迫ります。
それに答えて、ブッダは言います、「ある人が毒矢で射られたとする。医師が来てその矢を抜こうとする。そのときその男が言う、『次のことを知るまで、私はこの矢を抜くことを許さない』」と――
「この矢は誰が射たのか、知りたい。彼の名と、そして階級も知りたい。背は高いか、低いか、中背か。肌の色は白いか、黒いか、青白いか。私はまた、彼が住む町か村の名も知りたい。これらすべてのことを知るまでは、この矢を抜くことは許さない」
ブッダは、このような無益な、無価値な質問への答えを要求することの愚かさを指摘しているのです。いまの彼にとって一番大切な急務は、自分の身体から毒矢を抜くことを医師に許して自分の生命を救うことです。彼はそれをすべきなのです。
この話の教訓はこれです。マルンキヤプッタはブッダに向かって、実益のない哲学上の問題について尋ねるより、ブッダの助けを求めてまず第一に人生の苦しみの問題の解決をはかるべきなのです。
この物語は、ブッダの非凡な常識と、彼の極端なリアリズムの一例です。ひところ私は、常識は人びとの間にごく一般的なものだ、と思ったものでした。しかし年を重ねたいま、常識はかなりまれなものだ、ということが分かってきました。この世のごく少数の人びとだけが、ほんとうの常識を持っています。しかしながら、世界のすべての霊性の師たちや聖者たちは、ゆたかな常識を具えており、彼のすべてがリアリストです。その上に、他の事柄とともに彼らは真実に対して非常に忠実でもあり、百パーセント正直です。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、これらの性質のすべてを持っていました。彼は真実に対してこの上もなく忠実でした。彼は百パーセント正直でした。彼は徹底的なリアリストでした。そして彼は、非凡な常識を持っていました。
この世界を分析し、人間がここで苦しむ理由を見いだそうと努めるなら、私たちは、すべての苦痛と不幸は限定感から来る、ということを知るでしょう。金の、力の、健康の、名声の、愛の限定が、苦痛と不幸をもたらすのです。貧しい人は幸福ではありません。彼は金が足りないと感じるのですから。力不足の人はそのために不幸を感じる、以下同様です。苦痛と不幸という問題を解決する唯一の道は、何とかしてこれらの限界を超えることです。
人の内部の奥深いところに、まさに人の存在の核心を形成する、何かがあります。彼の存在の核心にある、それが魂です。魂は神聖です。それは常に永遠に浄らかで、完全で、そして無限です。魂は無限ですから、すべての限定を超えています。にもかかわらず、魂はどうかして人の肉体、心および感覚と一時的にかかわりあって、彼らの苦痛にみちた限定を共有しはじめたのです。ヨーガは魂を、このかかわり合いから解放することができます。この、魂の自由の獲得が、神の悟りと呼ばれるものです。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる人がいつの日にかは――今生またはのちの生において――彼または彼女の内在の神性を自覚する、ということを知っていました。あらゆる人が、魂の自由を得るでしょう。誰ひとり、例外ではあり得ません。自分はそれではない、というものからは逃げ出すことができます。しかし、私たちの存在のまさに核心をなすものからは、私たちは決して逃れることはできません。私たちの魂に内在する神性は、いつかは、栄光にみちたそれみずからを現わさずにはいないのです。幸いにもここに、ヨーガ(複数)というような、それを速やかになしとげるよう私たちを助ける、霊的テクニックがあります。
魂の自由を得るために、四つに大別できる霊性の修行法があります。それらのおのおのが、ヨーガと呼ばれています。ヒンドゥイズムによると、すべての人は四つの大きな範疇に入れることができます。(1)感情的な人びと、(2)理性的な人びと、(3)瞑想的な人びと、および(4)活動的な傾向の人びと、です。これらはたがいに相異なる気質ですから、同一のヨーガ、すなわち修行法がすべてに合う、とは行かないでしょう。感情的な人びとに合うヨーガは、信仰のヨーガ、すなわち礼拝の道です。それは、サンスクリットでバクティ・ヨーガと呼ばれています。理性的な人びとにふさわしい道は、理性的な探求、すなわち哲学の道です。この道はサンスクリットでギャーナ・ヨーガと呼ばれています。瞑想的な人びとのためには、ふさわしい道は心の集中の道、サイキック・コントロールの道です。それはサンスクリットでラージャ・ヨーガと呼ばれています。活動的な習慣の人びとには、正しい活動のヨーガがふさわしい道です。これはサンスクリットでカルマ・ヨーガと呼ばれています。
これらすべてのヨーガのほかに、健康を保つためにある肉体の姿勢を教える、ハタ・ヨーガもあります。肉体が病気であれば、心もしばしばその影響を受け、神の悟りのために努力することができません。ハタ・ヨーガは神の悟りをめざすのですが、肉体を完全にすることをあまりに重要視し、それが深刻な問題をつくっています。人が霊的目標の追求より、肉体健康の保持に心を奪われてしまうのです。彼はハタ・ヨーガの究極目標を忘れ、肉体崇拝者となり果てます。
他のヨーガにもやはり、それらに伴う危険があります。バクティ・ヨーガは、理性的な配慮が欠けるとじきに、頑迷と独断が生まれます。強い宗教感情は理性的な思考によってよく制御されていないとたちまち、宗派主義、教条主義を生みます。歴史は、宗教上の偏見がこの世界に大量の血を流したことを教えています。
ラージャ・ヨーガもやはり、それなりの危険を持っています。ラージャ・ヨーガの修行によってある程度自分の心が制御できるようになると、その人はいくらかの超能力を獲得するでしょう。水面を歩くとか、堅い壁を通りぬけると言うような力です。これらは霊的進歩の道程の一里塚であって、ラージャ・ヨーガの目標ではありません。もし人が霊性の目標に達する前にこれらの力を行使するなら、彼は自分に大きな害を与えることになるでしょう。得た超能力を全部失うだけでなく、霊的にも、かならず墜落するでしょう。このような人びとはしばしばホラ吹きとなり、見せかけ、または手先のわざで、自分を聖者に仕立てます。ですから、主クリシュナ、主ブッダ、シュリ・ラーマクリシュナ、およびその他多くの純粋な予言者、聖者たちがその信者たちに、超能力のわなにかかるな、と求めているのです。
多くの人の霊的生活が、彼らの神秘や奇跡への愛から出発します。このような人びとは、mystery mongers(奇跡屋)と呼ばれます。純粋な霊的進歩をとげるためには、求道者はこの奇跡商売の段階はできるだけ速やかに脱却するがよろしい。そうでないと、安っぽいマジックとうその宣伝によりあやしげな奇跡を披露して生計を立てる、にせ聖者の犠牲になるおそれがあります。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダのこれらのヨーガに対する態度は、彼のつよい常識にうながされた判断にもとづいていました。彼は、奇跡を追求しないよう人びとに注意しました。宗教を神秘化せぬよう戒めました。神秘というのは私たちが知らない何かです。しかしこれはほんとうではありません。宗教には、永久の秘密または神秘はありません。宗教の真理はすべて、真摯な求道者の堅固な修行によって経験することができるものです。
カルマ・ヨーガも、それなりの難問を持っています。カルマ・ヨーガの秘訣は、いかなる結果も期待しないで働く、というものです。しかし多くの人にとって、結果への期待をすてるということは困難です。彼らの利己心がそうすることを許さないのです。ですから、カルマ・ヨーガの目標に達する人はまれです。
それからまた、非常に自分の肉体に執着している人は、ギャーナ・ヨーガの実践には成功しません。
さまざまのヨーガにつきまとうこれらすべての危険や困難にもかかわらず、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、もしヨーガが有能な師の導きのもとに正しく実践されるなら、その助けによって魂の自由が得られる、ということを知っていました。
彼は言いました、
「それぞれの魂が、内に神性を秘めている。目標は、内外の自然を克服してこの内なる神性を現わすことである」
「これを働きにより、または礼拝により、または心の制御により、または哲学によって――これらの一つにより、もっとにより、またはすべてによって――なせ、そして自由になれ」
「これが宗教の全部である。教義、教条、儀式、書物、寺院または形式は二義的な些末事にすぎない」
彼はしかし、すべての人にこれらのヨーガにつきものの危険と問題に用心するよう、求めました。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダによると、これらのヨーガは、互いに水ももらさぬ仕切りのあるものではありません。ある求道者は、同時に複数のヨーガを行ずることが可能です。
四つのヨーガ全部の共通点は、非利己主義の実践です。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは言いました、「……自由は、完全な非利己性によってはじめて得られる。非利己的なあらゆる思い、言葉または行為はわれわれを目標に向けてつれて行く……」とも言いました。
バクティ・ヨーガは信仰者に、神のみを愛し、すべての活動を自分の楽しみのためではなく、神を喜ばせるために行なえ、と教えます。これは、神の愛による非利己性の実践です。
ギャーナ・ヨーガはその信奉者に、自分を心身結合体と見る心をすてよ、と教えます。内なる魂を表に現わすためです。別の表現で、ギャーナ・ヨーガもまた、非利己性の実践を教えているのです。
ラージャ・ヨーガの目標は、アサンプラグニヤータ・サマーディです。このサマーディに達するためには、求道者はいくつかの障害をのりこえなければならず、それらの一つは、アスミターすなわちエゴイズムです。アスミターは、自分を心と感覚だと思うこと以外の何ものでもありません。アスミターは利己性の根元です。ラージャ・ヨーガの目標に達するためには、これがすてられなければなりません。
前に申し上げたように、カルマ・ヨギは、自分の活動の結果への執着をすてなければなりません。執着は、利己心のはたらき以外の何ものでもありません。ですから、カルマ・ヨーガの実践は非利己性の修行でもあるのです。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダによれば、非利己性の実践を通じてのヨーガが、人が魂の自由を得ることを助けるのです。