不滅の言葉 96年5号
(その一)世間の義務と霊性の生活(3)
スワミ・ヤティシュワラーナンダ講演集
「瞑想と霊性の生活」から
仕事は、もっと高い目標を持たなければならない
大部分の人びとの生活の中に、何の理想も、より高い目標も、何かのはっきりとした考えもない、無目的の活動が見られる。それは、もうろうとした想念と欲望の海の中を漂流しているにすぎない。一般にそのような人びとが、義務と呼んでいるのは、実は執着以外の何ものでもない。大部分の人びとは、感覚の楽しみへの執着と渇望で忙しがっている。執着の方向に沿い、間違ったことにしがみついている時はいつも、やすやすと活動的になる。私たちは非常にしばしば執着のゆえに、渇望のゆえに、ある仕事を自分の義務と呼んでいる。それはまったく義務ではない。私たちはそれに聞こえのよい高尚な名をつけて満足しているが、それはまったく感覚の楽しみへの執着と渇望である。義務自体は、個人の場合にせよ、集団の場合にせよ、決して、その中に執着やエゴイズムの要素を含んではならない。私たちは決して私的な目的のためではなく、「当然なすべきことである」という感覚で、完全に自己をささげた気持で働かなければならない。
通常人びとは、粗大または精妙な、彼らの感覚と私的願望の奴隷として働く。しかし、「偉大な人たち」は、一般に理解されている義務感からでも執着からでもなく、彼らのはかりしれない自由の精神をもって働いている。彼らは、自分は主の御手のうちの道具であると完全に悟っていて、すべての行為を、あらゆるものの内にやどる神への愛の奉仕という形で、行なうのである。
私たちの活動は、自分たちの小さな欲望の領域を越えた目標を持つべきであり、そしてこの目標が、理解されなければならない。私たちの活動は決して、無目的なもの、活動のための活動であってはならないのだ。自分は「活動的」であると誇っている人がたくさんいる。しかしそれはただ、彼らが静かにすわっていることができない、というだけのことなのだ。彼らのは、目的のないサルの活動である。たしかに目まぐるしく動いてはいるが、何のためなのか、誰も知らない。少しも自慢できることではない。そのような人びとは、物質的な面で常に何かをして、何かを見て、または何かを聞いており、もしそれを妨げられると、不幸に感じるのである。彼らはもはや、思いの世界では生きることができないのだ。大部分の人びとは執着と肉体へのしがみつきのみによって、シュリ・ラーマクリシュナが「カーマ・カーンチャナ(女と金)」と呼んでおられたもののために働いているのである。もし、ある人の内に真の義務の感覚が生まれるなら、それはそれでよかろう。しかしそれさえなお、ある種の束縛だ。それよりもっと高い、よいものがある。すなわち、完全な帰依による、すべてのものの内なる神への愛の奉仕である。
もちろん、理想が高くなればなるほど、それに応じて常に、ある程度の制限も生まれる。より高い理想を抱いた瞬間、私はもはや自由に、無考えにあらゆる種類のいわゆる義務、あらゆる種類の活動に入り込むことはできない。私は盗むことはできない、嘘をつくことはできない。不道徳な行為をすることはできない。性的に不純な生活をすることはできない。下品な、俗悪な振舞をすることはできない。少なくとも、真にまじめで良心的な人びとには、それはできない。破廉恥な人たちは、それらすべてを、いやそれ以上のこともやってのけるだろう。そのように、この点においてもまた、良心的な人は破廉恥な人よりきびしい制限を受ける。しかしこの種の制限は、より高い秩序に属するものである。もし私たちが、真剣にもっと高い理想を持ちこむなら、ある活動と、ある種のいわゆる義務は、その理想と一致しないことを見いだすであろう。そのときには、それらすべては投げ捨てられなければならない。他に方法はないのだ。
ある妥協をする場合には、私たちは自分が弱いことを語り、そして知るべきである。決して、自分の弱さを正当化したり、ましてそれを義務と名付けるようなことまでもしては、ならない。そして、かりに妥協をするとしても、それは、いつかはすべての妥協を克服するのだ、という思いとともにはじめて、なされるべきである。決して、それを正当化する試みなどをしてはならない。理想は決して、おとしてはならない。
義務の問題は非常にむずかしい問題である。それゆえ、バガヴァッド・ギーターの中に、賢者でさえ、何が義務で、何が義務でないかについては混乱する、と言われている。前に述べた定義のように、義務とは、私たちを進歩する方向に助けるものであり、義務でないものとは、私たちの進歩を妨げたり遅らせたりするものである――ちょうど、善とは私たちの進化を助けるものであり、悪とは私たちの進化を遅らせたり妨げたりするものである、と言うことができるように。しかし、これらはすべて、非常に緩やかな一般的な定義にすぎない。おのおののケースが、それ自体の、価値に応じて判断されるべきである。そして、常に、より小さなものは、より大きなもののために犠牲に供されなければならない。より低い自己は、より高い「自己」のために犠牲に供せられるべきである。そうすることによって、私たちは、一歩一歩より高い義務へと昇ってゆき、ついには、すべての義務は脱落し、残ったのはただ、完全な帰依と無私の精神による、すべてのものの内なる神への愛の奉仕、という目標に、到達するのである。これが、すべての「偉大な人たち」が支持している理想である。
他の人びとを霊的に助けること
霊的な生活において進歩したら、あなたは他の人たちを霊的に援助するよう努めるべきである。しかしそれは、あなたがすでに得た力の範囲内でせよ。それ以外は、自分が助けたいと思う人びとのために主に祈れ。もしあなたが真剣に誠実に祈るなら、主は彼らにとって最善のことをして下さるだろう。あなたが他者を助けることができるのは、彼らが主、すなわちあなた自身のイシュタデーヴァターと波長があっているかぎりにおいてである。
自分を助けることができなければ、あなたは、他人を十分に助けることはできない。あなたが乗っている船が転覆しても、もし非常に泳ぎがうまければ、あなたは仲間の一人ぐらいを救うことはできるかもしれない。しかし、彼ら全員を救うことはできない、もしそれをしようとしたら、あなたを含めて全員がおぼれ死ぬだろう。それだからまずはじめに、識別力を用いて冷静に自分の力量をはかり、その限度を知れ。その上で、機会があったら、他者を助けることに努めよ。
シヴァは、全世界を救うために恐ろしい毒を飲み干した。彼は毒に害されることなしにそれを同化する力を持っていたのだ。もしこの世の毒を除こうとするならあなたはまず、シヴァの驚くべき浄らかさを得なければならない。少量からはじめるがよい。より純粋に、そして霊的に強くなるにつれて、あなたは自分をまったく危険にさらすことなく、より大量の毒を吸収できるようになるであろう。他者のために深く感じて彼らを助けたいと思えば思うほど、あなたは無執着になり、あなたのイシュタデーヴァター、主にもっと近づくようになるであろう。あなた自身と他の人びとのために祈れ。
何が起こっても、主の真の子供であることを学び、「彼」とあなた自身への不動の信仰を与えてくださるよう、「彼」に祈れ。主をあなたのすべてのすべてとせよ。そのとき、何ものもあなたに影響を及ぼさないであろう。あなたの内なる神「意識」と交流しつづけてさえいれば、いつ、どこにいても、あなたは安全であろう。純粋で、ひたむきで堅固であれ。あなたは必ず目標に達するであろう。
(その2) 霊的生活の条件(1)
理想への信仰
最高の悟りに近づく前でも、私たちは神への非常にはっきりとした、強い信仰を持つことはできる。この思いは、私たちの存在の深層にすでにあるのだから。霊的生活の第一の条件は、私たちの内にあるこの信仰の目覚めである。私たちの魂は神の反映であり、この反映が、たとえ私たちが直接「光」を見なくても、その「光」の存在を証明するのである。私たちが永遠に生きたいと思うのは、私たちの本性が永遠だからである。身体、心または感覚は常に変化しているので、決して永遠ではあり得ない。これらとは別に、私たちの中には変化することのない「私―意識」がある。私たちが、自分の思いおよび肉体意識に何としてもまじりあって存在する魂または霊的意識について考えようとするときには、実は私たちは、究極「実在」の性質を探求しているのだ。
完全な悟りに達するまで私たちは、究極「実在」の、何らかの概念を持ちつづけなければならない。しかしあらゆる場合に、自分の信仰、信念はその正しさが証明されなければならない。実在に基づいているなら、それは活気を持つだろう。実在に基づいていなければ、それはしばらくの間はつづいても、やがては消滅するだろう。
人生の目標は自由――恐れからの解放、苦しみからの、くり返される誕生と死という労働と苦闘からの解放であり、至高の「平安」に到達することである。そして、これらに到達する手段は「自己」知識である。それはインドの何千という聖者たちがあらゆる時代にわたって宣言してきたことである。霊的生活の第一の条件は、シュラッダー、霊的理想への信仰、つまり「自己」自覚と言う理想への信仰である。この瞑想がサーダナーを始める前に確立され明瞭になっていなければならない。私たちは、歩むべき道の、また到達すべき目標すなわち人生の目標の、非常に明確な概念を持っていなければならない。自分の思いや行ないにあいまいな、夢のような不確かな態度を許しているかぎり、私たちの内部には葛藤が絶えず、多くの場合、私たちはそれに妨げられて、目標に向かっては一歩も前進することができないであろう。強い求道心、はっきりとした目的、または深い自覚を欠いた、表面的な思考、浅い感情、または意志のはっきりしない行動が多すぎる。
禅宗の文献の中にある教訓的な逸話がのっている。
ある僧が禅の師にたずねた、「獅子は獲物を捕えるとき、ウサギであれゾウであれ、それに全力を集中するときいております。この力の性質は何ですか」と。師は答えた、「完全に誠実な精神、いつわりのない力」と。(謎めいたこの答えが、次のように説明されている)「いつわりがない、というのは、人の全存在を出しきる、という意味である。これは何ひとつ隠さず、つくり飾らず、何ひとつ浪費せず、そこに全存在がはたらいている、という意味である。人がこのように生きるとき、彼は、雄々しさ、誠実、一意専心の象徴とされる、金色のたてがみを持つ獅子である、といわれている」
言い換えれば、霊的生活に必要なのはシュラッダー、すなわち自分の、真の「自己」を悟る力への信仰である。この堅い信仰が、閉じこめられているエネルギーのすべてを、正しい方向に向けて解放するのである。
疑いは、非常に大きな危険であって、霊的生活の中のあらゆる進歩を妨げる。それはすべての初心者に、いつかは必ずやって来る。懐疑は、自分自身と、そして神聖な「存在」への信仰の欠如であって、神を悟るまでは、決して完全に消え去ることはない。しかし私たちは決して、自分が懐疑に圧倒されることを許してはならないし、霊的生活において前進しようという決意をゆるがせてもならない。
私たちは、世俗の快楽も天国の快楽も自分の目標ではない、自分の唯一の目標は「自己」自覚である、という理想を心に銘記しておかなければならない。天国の楽しみは地上の楽しみにまさるわけではなく、また、心中に天国への楽しみへの願望があるかぎり、私たちは決して、目標に到達することはできない。天国は結局、まことに安っぽいものなのである。
天国に行く、ということについて一つの話がある。非常にゴルフが好きだった人が死んで天国に行った。ついたときの彼の最初の質問は、「ここにはゴルフ・コースがありますか」であった。「天国にゴルフ・コースだって!」と返事が返ってきた。「そんなものはあるはずがない」「それでは、私は天国にいたくありません。私はむしろ別の所に行きたい」と。それで彼は他の所に案内された。そこに行くと、案内人はすばらしいゴルフ・リンクをさし示した。彼はそこで尋ねた、「しかし、君、ゴルフのクラブはどこにあるのですか」と。案内人は答えた、「私たちはゴルフ・コースしか持っていません。ゴルフのクラブはありません。それ(棍棒)は地獄のものです」と。
私たちは、徹底的に世俗的な生活をすると同時にもっと高い生活もする、などということはできない。世俗の愛や情緒を追い求めつつ、同時に高い神の愛を追求することは、許されない。神と世俗の愛情、神と世俗の欲情と快楽は、ともに住むことはできないのである。偉大な聖者トゥルシダースが言ったように、「カーマのあるところにはラーマはおられない、ラーマがおられるところには、カーマはあり得ない」イエス・キリストが言ったように、「あなたがたは、神と富に仕えることはできない」のである。(聖書、マタイによる福音書、六―一四)
私たちは自分を詳しくしらべ、自分がほんとうに神を求めているのかどうかを知る必要がある。もし私が他の人びとの愛や好意、または世間の事物を欲しているのであれば、私たちは神などなくてもやってゆけるだろう。そしてもしこれらを手に入れたときに非常に幸福に感じ、それで満足するならそれは、私たちが神を欲していないことの確実なしるしである。そのような場合に私たちが神を得られないのは当然のことである。それゆえ、すべての求道者はときどき、自分が望んでいるのはほんとうに神なのかどうか、自分に問うてみなければならない。そして、欲しているのは真に神であるなら、その人は、神が必ず来てくださると確信してよい、なぜなら神は常に、神のみを真に求めている信者のもとにだけ、来られるのだから。シュリ・ラーマクリシュナは次のように言っている、「もし信者が神の方に一歩進むなら、神は彼の方に十歩近づいてくださる」と。(スワミ・アベーダーナンダ著「ヨーガ、ウパニシャッド、ギーターについての考察」に引用されている)
私たちの問題はすべて、私たちが、この現象の世界とそこに見るすべての人びとを確固たる実在と見、しかも自分の内に二つの実在を容れることはできない、というとろにある。それゆえ、まず第一に、すべての求道者のハートのうちに空虚がつくられなければならない。いったんそれがつくられたら、彼はその空虚を神で満たすことができる。
私たちが実在であると思うもの、真理であり、永遠であると思うものが、私たちの全存在を引き寄せ、全心を吸いこみ、全感情を魅了するのである。これは、霊性の生活における重要な法則である。そして、ヴェーダーンタによれば、あらゆる状況のもとにあって変化しないもの以外に何ひとつ、究極的実在はないのだ。いかなる変化もこうむることなく、過去にあった、今もある、未来にもあるだろう、というものだけが、実在的なのである。変化したり朽ち果てたり、進化したり退化したりするものはことごとく、非実在の範疇に属する。小さな子供がお母さんから、「夢とどんなものなの?」と尋ねられた。少年は、「それは目を閉じて映画を見ているようなものです」と答えた。この少年のような純粋さと心の素朴さを持っていたら、私たちは覚醒状態をやはり同じ形で経験することができるだろう。自分自身を分析すると、私たちは、意識だけが変化しないものであることを知る。「純粋意識」は、この世界のつかの間の影を写すスクリーンのようなものである。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは言った、「神のみが生きている。魂のみが生きている。霊性のみが生きている。それにしがみついていよ」と。(ヴィヴェーカーナンダ全集、第三巻、一四九頁)私たちはこの言葉の真実性を固く信じなければならない。
私たちは決して、高い理想を低めようとしてはならない。自分がそれに近づく努力だけに専念すべきである。もし、その理想が高すぎるなら、人生の目標であると見ているその高い理想に到達するための一つの踏み石として実践可能な理念を持つべきである。最高の理想、すなわち「無限」を悟るまで、私たちは妥協してはあらない。もしこの高い理想に到達する試みに失敗したなら、自分は単に失敗したにすぎないのだと思おう。そこでいっそうの努力と決意をもって、理想に達する努力を続けるべきである。
宗教の本質的な部分を付加物から切り放すこと
求道者にとって絶対に必要な第二の条件は、宗教の本質的な部分を非本質的な部分から切り放す能力である。宗教の付加物を真の霊的な生活であると誤解し、その無意味な形式の中に道を見失っている人びとは、決して霊的に進歩することはない。これが、宗教的な規則をきびしく守っているにもかかわらず、そこから一歩も進歩しないいわゆる正統派の人びとの運命である。彼らはまさに的を逸しているのだ。
宗教は、書物の知識とは異なる、それ以上のものである。今日、書物はどこででも手に入る。さまざまの形で様々の宗教の教えを説く、あらゆる種類の宗教書がある。しかし、単なる学識と知的な研究では、決して「真理」を知ることはできない。知的生活をあまりに重視し、過大に評価するなら私たちは決して、「『彼』はひとり、賢者たちは『彼』をはをさまざまの名で呼ぶ」(リグ・ヴェーダ、一―一六四―四六)、という宗教の本質的な真理を悟ることはできないであろう。
求道者は最善を尽くして学び、課目をマスターせよ、しかし偉大な学者になった後は、欲望をすて、知識から生まれる力の上に立って生きるよう努めよ。(ブリハダーラニヤカ・ウパニシャッド。三―五―一とシャンカラのその注釈)
単純にならなければ私たちは決して、霊的な生活をすることはできない。少しでも進歩したいと思うなら、狡猾さ、欺瞞、隠し事、不正、邪心、から完全に解放されていなければならない。霊性の求道者は、正直であり、完全に誠実であり、率直であり、瞑想の人でなければならない。彼はうぬぼれ、学識への誇りがあってはならない。霊的生活の本質を知り、神の明瞭な概念を得たなら、修行の実践に努めるべきである。無意味な書物を読みすぎてはならない。それは混乱と困難を招くだけである。
もろもろの聖典の中の大量の言葉は、心を混乱させようとする深い密林のようである。それゆえ、賢い者は「自己」の本質を知ろうと努めるべきである。
学識、弁舌、聖典講釈の巧みさ、および博学は、学者には満足を与えるかもしれないが、解脱は与えない。(ヴィヴェーカチューダマニ、詩節六〇―五八)
さて、これは、あなたは勉強にはげんではいけない、と言っているのではない。「真理」の悟りを目標として、勉強せよ、と言っているのだ。あなたは、故郷の家からある品々を送ってくれという依頼の手紙を受け取ったある男についてのシュリ・ラーマクリシュナの話を知っているだろう。彼は、内容を知ると彼はその手紙を投げてすてて、その品物を買いに出かけた。ヴェーダーンタでは常に研究が奨励されているが、その研究と並んで、何らかの真の霊的修行が行われなければならない。あなたは常に、規則正しい研究と、人生の問題および「実在」に関する深い思索とによって、自分の知性を訓練しなければならない。系統だった方法で読書をし、はっきりと深く考えることを習慣とし、一日でも深い読書をしなければ、不愉快に感じるほどになれ。この毎日の研究を、あなたの修行の重要な項目とせよ。
儀式や儀礼をあまり重視せず、純潔さ、瞑想、霊性の修行、および心の制御の生活をることによって、宗教を自分の生活の中に生きよ、と人びとにすすめることが、仏陀の生涯の使命であった。道徳的であること、清らかな生活をすることなしに、私たちは霊的になったり、進歩したりすることは決して望めない。そんなことは、虫のいい夢以外の何ものでもない。
仏陀は神について何と言ったか。彼は、神についてはまったく何も語らなかった。神について多くを語ることが本質ではない。神の道を歩み、霊的な生活を送ることが、はるかにもっと大切である。非常にしばしば人びとは、次のように言う、「主よ、あなたのなんと美しいこと!あなたの空、あなたの星々、そしてこの被造物のなんと美しいこと!」と。しかし彼らは、「創造主」は常に被造物より偉大であり、神はそのような小さなことで得意にはなられない、ということを忘れているのだ。私たち人間の観点からは、医大であることも、神にとっては結局、非常につまらないことなのである。それゆえ、神をその外面の栄光で賛美するより、神の道を実際に歩むことの方がはるかに重要である。この賛美はしばしば、口先だけの奉仕になる。
かつて仏陀は、「神を存在しますか」と聞かれて、「神が存在すると私は言ったか」と答えた。質問者は、「それでは神はいないのだ」と結論づけた。しかし仏陀は、「私は神は存在しないと言ったか」と言ってそれを否認した。仏陀は人びとに、あらゆる空虚な小事にこだわる思弁をやめ、自分を悲しみと苦しみから解放することをせよ、とすすめたのである。だから彼は言った、「家が燃えているとき、あなたは火の原因を検べようするか、それとも火を消そうとするか」と。しかし、愚かなことに、多くの場合私たちは、まず火の原因を解明しようとつとめ、その間に家が焼け落ちて、あとには灰の山しか残らないのである。私たちは宗教の本質を付加物から切り放すことを学ばなければならない。
自分が努力すること
これは、自分が長年にわたってつくり上げた思いの世界を超越しようとする努力、苦闘のことである。人びとの多くは、それを捨てたがらない。彼らは、あまりにも無気力となっており、彼ら自身の心に反抗して働くことができないのである。シュリ・ラーマクリシュナは、あるとき、母なる神に、「私は料理を作って人びとの前に出してやるのですが、人びとはそれをちょっと食べて見ようとさえしません」と不平を言った。私たちは常に、誰か他の人が自分のために、すべてをしてくれることを期待している。求道者の側が何の努力もしないような、身代わり救済などというものはあり得ない。いわゆる宗教人の多くは、宗教の世界と霊的な生活への寄生者にすぎない。彼らにとっては、他のことをする方がはるかにふさわしいであろうに。
実際に霊的生活を真剣に始める前には、そのための犠牲を払うことをいとわぬという、十分な覚悟ができていなければならない。一般的に、私たちの内部には二つの傾向、世俗的な傾向と霊的な傾向がある。その両者が、初期の段階に多かれ少なかれ、同じほど強いものであるなら、霊的な傾向の方を強化しなければならない。そうでなければ、進歩することはなく、自分の内部の主導権争いは克服されないであろう。それゆえ私たちは、ここで断固として理想を定め、それからは、何が起ころうとも、それにしがみついていることが絶対に必要である。多くの落とし穴と危険に満ちた困難な道をほんとうに歩みたいと思っているなら私たちはまた、いかなる困難をも克服しようとする覚悟をしていなければならない。非実在のものをすべて超越したいと思うなら、私たちの内に常に、ある程度の無恐怖と英雄的な大胆さがなければならない。求道者の道は非常に危険な道である。危険な落とし穴が、四方八方いたるところに潜んでおり、ひとたびそれに落ち込んだら、多くの人の場合、そこを抜け出す機会は訪れない。自分の世俗的欲望や「私」という感覚を犠牲にすることができなければ、あなたは決してより高い理想を自覚することはできないであろう。
私たちは、非常に長い縄で杭につながれている牝牛のようなものである。その牛たちは、草を食むことができ、ある程度、自由に動き回ることもできる。しかし、愚かな動物はぐるぐると動き回るので、ついに縄の全部が杭にまきつき、それは動きがとれず、足下の牧草にさえ触れることができなくなるのだ。神は人びとには非常に長い縄を与えられたが、その縄を適切に利用する人はまれである。多くの場合、絶望的にそれに巻き込まれて、どうにもならなくなっている。しかしそれは神の落ち度ではない。全責任を自分が負うことを学べ。あなたに起こったことを神の責任とするのは大きな誤りである。あなたは一瞬の快楽のために、他のすべてを忘れ、幾世紀にもわたって神が人に語りかけて来られたことに耳を傾けなかったのである。霊性の生活は、もしそれが私たちの感情の昇華と浄化を意味するなら、同時にそれは、私たちの意志力を発達させ、心により高い道を歩ませるものである。私たちはこの世に巨大な意志力と集中力を見いだすが、どちらも誤った方向に向けられ、その結果、人がますます深い暗黒と無知の中にまき込まれている。この世にあなたが見いだすすべての意志の力が正しい方向にそって導かれるなら、私たちのこの世界はただちに天国となるであろうに。
ある子守が、赤子の母親に、「この子はとても守をするのが難しい」と不平を言った。すると母親は、その子守に、「もっと高い意志の力をはたかせてごらん」と命じた。彼女は、「私はそう努めているのですが、この子の『言うことを聞くまい』という意志の力の方がはるかに強いのです」と答えた。これはまた、霊性の赤ん坊の問題でもある。彼は多くのことをしたいと考えている。彼は、常に瞑想したいと思っている、霊的な思いに没頭したいと思っている。しかし、彼の心が反抗するのだ。キリスト教徒の信仰によれば、人間の意志は本来片意地である。ヒンドゥの信仰によれば、心が思いどうりにならないのは、サムスカーラすなわち潜在する過去の印象のせいである。これが、意志の正しい実現を妨げているのである。しかし、サムスカーラは変えることができ、さらには消滅させることさえできる。良い行ないによって、善良な人びととの交わりによって、私たちはよいサムスカーラを獲得する。さらに絶えず意志の力をはたらせることによって、たとえ初めは非常にわずかであっても、それを強化することができる。そうすれば、霊的な生活はもっとらくになる。
神の恩寵は、みずからの努力、という形で到来する。自分の意志の力をただしい方向に向ける修行をしようという強い衝動、途上に横たわるあらゆる障害を乗り越えようという決意――それらを感じることが、自分が神の恩寵に浴しているしるしなのである。シュリ・ラーマクリシュナは次のように言われた。
「人は神を悟っていない間は、自分は自由であると思う。このような誤りを人の内におかれたのは神ご自身である。そうでなかったら、罪は倍増したである。人は、罪を恐れず、それに対する罰も存在しなかったであろう。神を悟った人たちは、自由意志は単なる外見だ、ということを悟っている。実際には、人は機械であり、神が操縦者である。人は車であり、神が運転者である」と。(協会訳、「シュリ・ラーマクリシュナの福音」)
ある日弟子がシュリ・サラダ・デヴィに、「神がほんとうに私たちの身内であられるなら、どうして神はご自身の姿を現わされないのですか」と尋ねた。ホーリー・マザーは、そのような深い理解力を持つ人がほとんどいないからである、大方の人は、宗教は一つの形式である、と思っている」と答えた。(「ホーリー・マザーのみ足のもとに」、八三頁)自分の存在が神と一体であることを意識するようになるためには、みずからの努力が必要なのである。心を浄めて、自分の意志を、神の「意志」の波長に合わせたとき、私たちは、あらゆることは神の「意志」によって起こる、ということに気づくのである。そのとき、自力と神の恩寵との間の摩擦はやむであろう。 (つづく)