不滅の言葉 96年4号特別号

     

  日本における宗教の再検討の必要
   
野間 住虎
   

 オウム真理教によって引き起こされた恐ろしい事件(サリン・毒ガスによる大災害等)は、私たちに、宗教、特に日本における宗教の役割について、緊急に、再考察することをせまっている。まず初めに、お断りしておきたいのは、これは宗教に関する論文ではないということである。しかし、宗教の基本的な役割について簡単にのべてみたい。

 人々の心とハートに道徳性を浸透させることが、宗教――すなわちその信者たちと特にその指導者たちの――義務と責任である。それにもまして彼らにとって重要なことは、宗教の教えに一致した生き方を実際にすることである。宗教は道徳を越えたものではあるが、道徳性がないような、真の宗教的な実践者はいない。道徳を守ることは、宗教の必須の前提条件である。

 宗教的な儀式や象徴等も有意義だが、それはあくまでも二次的なものにすぎない。スワミ・ヴィヴェーカナンダは、非常に簡潔にその問題の核心を次のように述べている。

 「寺院あるいは教会、書物あるいは儀式は、子供が次第に霊的に高い段階に進んでゆく時の第一歩目である、宗教の幼稚園にすぎない、しかしひとが宗教の道を歩みたいと思うのであれば、これらの最初の数歩の歩みは絶対に不可欠なものである。……宗教は、教義教説のうちにも、知的な論争のうちにもない。それは常に成長してゆくこと、深まってゆくことであり、それが悟りである」と。

 それが宗教の役割――最も固有の働き――である。もちろん、それは難しいことである、実際に、真の宗教の実践者になることは、この世界の中で最も難しい事である。というのも、私たちの諸感覚は、本来、常に外側に向かっているのだが、それは、それらを内面に向かうように百八十度回転させるという非常に骨の折れる仕事だからである。それには巨大な力を必要とする。

 それ故に、多くの人々は、宗教を信じているというが、真の宗教の実践者はきわめて少ないのである。人が真に宗教的であるということは、その人が宗教を実際に生きて生活しているということである。宗教を説教するだけでは何の役にもたたない。その人の語る言葉はその人の実際の生き方と一致しているか? これが判断基準である。

 宗教の教師、師、グルとはどのような人をいうのか? インドの現代における最大の聖者シュリ・ラーマクリシュナは、非常に適切明瞭に次のように言っている。

 「宗教の教師という仕事は、実に難しいものである。神からの直接の命令がなければ、人は決して教えることができない。……まず初めにひとは霊的な修行などによって神に到達しなければならない。このように神から与えられた権威に裏付けられて、ひとは講義をおこなうことができるようになる。神からの命令を受け取った後であれば、そのひとは、いかなるところにおいても、教師であり、説教することができる。神から権威を授けられたものは、また、神から力をも授けられているのである。その時のみ、彼は教師という難しい仕事を成し遂げることができるのである」と。

 日本では、第二次世界大戦後、我こそは人類の救済者であると言って、多くの新興宗派や「宗教」がキノコのように急速に現れ増え、またひとびとは、全く識別することなく、それらに殺到し、その信者となっている。

 ところで、何故彼らはそれらに殺到するのか? その本当の意味はなんであるのか? それは人々が彼らの生活の中に空虚さ――その中身が失われている――を見出すからである。物質的には、彼らは幸福である――あるいは幸福で満足しているにちがいない――何故なら日本は今日世界の中で最も繁栄している国民であるから。お金が不足しているということもなく、実際、金で買うことができるものは何でも手に入れることができる。しかし、そのハートには空虚感がある。それは病気である。それ故、かれらは、その彼らの渇きを癒そうとして、新しい『宗教』に参加しようとするのである。

 そこで、その病気に気づいた破廉恥なずる賢い輩が、その好機を見逃すわけがない、当然、かれらは、その信者たちに平和、幸福、救いを与えると約束しつつ、この人間の欠陥を利用しようとする、そして人々は、かれらの餌食に屈するほどだまされやすいのである。

 日本だけが例外なのではなく、多かれ少なかれ他の国々でも同様の状況にある。ヴィヴェーカナンダが非常に好んだ言い方でいえば、その差は質的な違いでなく量的な差にすぎない。

 悪いのは詐欺師か人々か? 当然の事ながら両者とも悪いのである。世界には破廉恥な人々が必ず存在する――そして、人間の性質とはそうしたものである、――あり得ると思われるものは、必ず存在するであろう。それが人生というものであり、人はそれを受け入れて生活しなければならないのである。

 しかし、だからといって、人々は、無分別に、新しい『宗教』を受け入れざえるをえないなどといっているのではない。「これこそは真の宗教であり、偽りの宗教ではない」、「その教師、師、グルは正真正銘の師である」――すなわち「彼の言葉と実践は一致している」――と確信できるかどうかを、彼らがほんの少し深く考えさえすれば、彼らは罠に陥ることもないであろうに。

 金井伸治教授は、一九九五年九月一八、一九日のジャパン・タイムズの『オウムの危険なメッセージ』あるいは『オウムは日本の霊的な空虚さを反映している』という表題の興味深い論説で、次のように言っている。「その非難されるべき責任の一部は私たちの社会にある」と。彼はまたなるほどと思わせる非常に適切なことを述べている。

 「日本は、宗教が尊重されていない社会である。私たちの社会は宗教をバカにしているのである」と彼が述べていることもまた――真実である。

 何故日本の社会は宗教に興味をもっていないのか? 日本は何故宗教をバカにするのか? それには理由があると、私は思う。明瞭な理由がある、そしてそれがあまりにも単純なために、却ってよく見えなくなっているのである、すなわち、模範となる人(Examplar)が存在しないことである。

 宗教を信じているといいつつ宗教を「教えている」ひとたちは、実際には、宗教の生活を生きていないのである。教えと生活が全く一致していないのである。つまり、彼らは模範となる人(Examplar)ではないのである。そのような状況にあっては、社会が宗教に関心をもたず、人々が宗教をバカにするのはまことに当然のことである。

 勿論、日本人がそうしたことについて何も語らないということは、また別問題であり、そのことについては、私はこの論説の後半で触れるつもりである。

    1背景

 表面的には全体的に日本人は、宗教にはあまり関心をもっていないように思われるかもしれない。あなたが日本人に「あなたの宗教は何ですか」と聞けば、彼はすぐさま「私は仏教徒です」と答えるであろう。しかし、それはそこでおしまいであり、もしあなたが宗教あるいは霊性についてさらに彼に語りかけるやいなや、彼は「私は全くそれには関心がない」とあけすけにあなたにことわるであろう。勿論、これには非常に説得力のある次のようなさまざまな理由がある。

   日本には真の出家僧侶制度(Monasticism)がない

 原則的に、現在の日本には、真の出家僧侶制度(Monasticism)が存在しない。しかし、司祭者制度(priesthood)は存在し、それは完全に儀式の代理人なのである。その司祭者が、「お坊さん」(僧侶)と呼ばれているが、それは全く誤った名称であり、どれほど想像力をたくましくしても、日本の僧侶は、言葉の真の意味での出家僧侶(monk)とはいえない。日本語のその言葉が意味しているのは、単なる司祭者ということである。彼らは宗教的な儀式を挙行し(すなわち結婚式の時や葬式の時など)、勿論、その仕事の責を実に見事に果たしている。それはひとつの職業であり――それどころか商取引をおこなう職業である。司祭者は、結婚し、家族をもち、家族を扶養している。事実、かれらは、私たちと同じ家住者である。

 このため、司祭者は――インドにおいてと同様に――あまり尊敬を受けないのである。しかしインドにおいては、司祭者と僧侶との間に明瞭な区別が存在している。日本には僧侶が存在しないという単純な理由から、日本においては、そのような区別がないのである。

 しかし不幸なことに、日本では宗教が、司祭者制度と密接に関連づけれている。インドにおいては、インド人は、そのようなものと見られている司祭職に、霊的な問題について相談や指導を仰ぐことはない。

 勿論、聖者は僧侶でなければならないなどと言っているのではない。否、それどころか、ウパニシャドの時代においてもまた現代においても、インドにおいては賢者や聖者たちの非常に多くは、家住者たちであったのである。事実、僧侶がその役割を果たし、存続し続け得たのは、家住者たちのお陰によるものなのである。シスター・ニヴェーデータ(マーガレット・E・ノブル――一八六七ー一九一一)は、彼女特有の言い方で次のように言っている。

 「一人の偉大なサンニヤーシン(僧侶)が存在する背景には、一千人の善良な一般市民が存在しなければならない……壮大な宗教的な理想を維持するためには、気高き一般市民がいなければならない、そしてそれが実現するためには、僧侶と同じく一般市民も必須の存在である。……世界の中から誠実な人々がいなくなったならば、宗教的な秩序も消滅しなければならない」と。

 諸感覚の世界が、生活に必要なすべてのものを提供する。これが、全世界のすべての社会において、家住者が、数において、僧侶にまさっており、今後も常にそうであろう、という事実にとっての理論的根拠である。

 ある意味で、善良な家住者でありつつ霊的な生活をするということは、僧侶であることよりも難しい。僧侶は、僧院に閉じこめられ、彼の周囲の世界の喧々囂々、気散じ、誘惑から『守られている』、そして彼は生活費を稼ぐ必要がない。それ故、かれにとっては、彼のエネルギーを、一意専心の信仰と信愛をもって、彼の「神を悟る」(あるいはおなじことであるが自己を実現するということ)という「目標」に集中させることが一見「より容易く」なっているように見える。反対に、家住者は、彼自身と彼の家族を扶養するために生計をたてねばならず、彼が生まれた社会(彼の維持と生存のためのさまざまなものの贈与者、提供者である)に対する彼の義務を果たす責任をもち、そのさまざまな誘惑と気散じの真っ直中で、世界の中で生活する(live in the world)するだけでなく、――さらに難しいことには――さらに世界に無執着でなければならない(be out of the world)。これらは、しかし、出家僧侶制度が存続している国々が、多くの聖者たちを生み出しているという私の説をそこなうものではない。

 あらゆる宗教の、またあらゆる国の、あらゆる時代の神秘家(真理を直接的に経験しているものたち)によれば、神を悟るということ、あるいは自己を実現するということが、人間として生まれた目的であり運命である、しかし、それを実現するためには、はかない無常な事柄、小さな自己(自我)を放棄し、心の清らかさやサダナ(規則正しい霊的な修行)を着実に行うことなどが必要である。それ故それは最も崇高な目的であり、最も難しい目的である。この目標を一意専心的に探求するということは、この道を選んだ者に、最大限の犠牲献身を要求するということを意味している。そうではありませんか? 

   日本には模範となる人がいない

 これが、(第一のことからの推論される)、一般的に日本人が宗教に関心をもっていないということの第二の理由である。司祭者は宗教を与えるものではない、すなわち彼らは決して私たちの模範となる人たちではない。それ故、普通の日本人が宗教に関心をもたないとしても、何ら不思議ではない。何故なら、もし司祭者が宗教を管理し、その模範となる人たちであるとするならば、自分はそのような宗教とは何の関係もないと思う日本人は、正に正当であるからである。

 もし出家僧侶制度がインドに存在しなかったならば、さらに、インドが、その複雑多様な歴史を通して一貫して、光り輝く無数の聖者のきら星を生み出しているということがなければ、インド人にもまた同様の運命が訪れることであろう。

   学者と哲学者は多いが……

 他の国において同じように、宗教について『知的に』論じて、宗教についての浩瀚な本を出版する学者と哲学者が存在し、そして彼らが宗教の権威者であると認められている。しかし、彼らは、実践せずに批評だけする肘掛け椅子に座ったままで思索する空論家であるが故に、彼らの著作はあまりに学理的、難解で、普通の日本人が読むにたえないものである。

   マス・メディア

 マス・メディアもまた非難さるべき現在の悲しむべき状態の原因としての責があることは否定できない。その役割は世論を教育するということにあるということも真実であるが、マス・メディアを制御しているのは、ビジネスであるということも事実であり、それ故、それは、扇情的な臭いがするものなら何でも取り上げ、その報道は必ずしも適切とはいえない。

    2「宗教」の未来

 それでは、日本における「宗教」の未来は(真の宗教を「宗教」と表現することとする)、暗澹たるものなのか? その答えは、条件付きの「否」である。勿論、それを決定するのは、日本人次第である。

 あなたは、実にあなたが欲しているとおりのものとになる、それ以上でも以下でもない。もしあなたが偽りの宗教を欲しているなら、あなたはそうなるであろう。もしあなたが反対に「宗教」を欲し、その目標に向けて、信仰と信愛と忍耐をもって、それを熱心に実践する覚悟をしているならば、あなたはまたそのようなものとなるであろう。

 日本人はどちらを選択するのか? これは簡単には答えられないことであるが、私には、遠大な観点からみて、少なくとも一部の人たちは後者を選択し、その未来は有望であるように思う。何故私がそう考えるのかの理由を以下に述べてみたい。

   真の「宗教」を理解すること

 識別力のある読者ならば、今支配的な状態がいったん逆転しさえすれば、「宗教」にとっての未来が明るく輝き始めるということに気づいておられるであろう。そして、そのためにこそ、シュリ・ラーマクリシュナとヴィヴェーカナンダのすでに引用された啓示の言葉があるのである。

 引用された言葉の意味が、徹底的に理解され消化され、それから実践に移されねばならない。

 シュリ・ラーマクリシュナは、非常に明瞭に、教師、師、あるはグルである資格とはどのようなものであるかについて言っている。そして、同様に、ヴィヴェーカナンダも同じく明瞭な言葉で、「宗教(宗教とは何であるか)」の真の定義を述べている、そして、さらに(儀式、祭式、朗誦、書物、献花、線香やローソクを焚くこと等の)「宗教」の外的な形式などは二次的な些細なことであると警告している。

 このことが常に心に明記されているならば、米と籾殻を選り分けることが非常に容易くなり、いんちきのいわゆる「新興」宗教にとりつかれることもなくなるであろう。

   霊性への真の渇望

 日本人は現在、世界の中で最も繁栄している国の一つであり、それ故、日本人は、実際高い生活水準を維持し得ている。彼らはお金で買うことができるあらゆる楽しみと贅沢品をもっている。そこにはまた西洋化されたものも数多くある。しかし、それにもかかわらず、すべての人々が、幸福と感じているわけではない、そのような人々は、物質的な繁栄が、実存の究極の目的にして最も重要なこと、ではあり得ずまた、事実そうでないことをに、気づいている。彼らは、彼らの生活の中に空虚を見出している。すなわち、一時のことであれ、霊性への真の渇望が生じたが故に、かれら日本人は、彼らの霊的な渇望を満足させるために、宗教的なセクトからセクトへと渡り歩くのである。

 このことに関連して、ヴィヴェーカナンダが彼の弟子サラトチタナンドラ・チャクラヴァルティに言った次のことも思い起こされる。すなわち「……まず初めによい土壌が準備されねばならない、それから種が蒔かれるならば、植物は最適に成長してくるであろう。西洋、ヨーロッパ、アメリカという土壌は、非常に肥沃で、種をまくのに適している。そこに住む人々は、ボーガ(快楽)の絶頂に到達している。……人が、ヨーガの教えに傾聴しそれを理解するようになるのは、人がボーガに満足した時である」と。

 非常に謙虚に、私たちは、現在の日本は、上述の言葉の正しさを例証するもう一つの例である、といってよいであろう。それはすべての人が宗教の方に向きをかえているなどと言っているのではない。その数は現在はそれほど多いわけではないが、その数を次第に増してくる兆しがある。

   肥沃な土壌

 私が表題『1背景』のところで述べていることに少し矛盾しているように聞こえるかもしれないが、日本人が外向きには何と言っていようとも、根本的に日本人は、宗教に関心をもっている、何故なら、日本は現代化されていても、霊的な伝統がきわめて根強いからである。現在の彼らが、その伝統に十分には気づいておらず、未だにその伝統が、非常に深いところでの底流に留まっているにすぎないのである。

    3遠慮なく話す勇気

 金井伸治教授の論文を読み、私は非常にうれしかった、勇気づけられた。そして私は彼の示唆に富む批評をした勇気を讃えたい。日本には何百人という学者、哲学者、世論の指導者がいる。しかしこの問題を前面に取り上げたのは金井教授であった。私は、立ち上がって『ありのままにものを言う』金井教授のような知識人が、ますます数多くなってくることを願っている。

    4結論

 日本が今必要としているのは、ヴィヴェーカナンダのような人――アメリカ人に向かって次のように語ったような、立ち上がって大胆にものを言う、ヴィヴェーカナンダのような予言者、――であることを私は非常に強く感じている。

 「得意げに話しているが、あなた方のキリスト教は、武器を持たずに、布教に成功したところがあったろうか? あなたがたの宗教は、贅沢の名のおいて、説教されたのだ。私がこの国において聞いていたことはすべて偽善である。キリストから、これらの繁栄が、これらのすべてのことが由来したとは! キリストに呼びかけるものが、富を集めること以外のなにものにも関心を持っていないとは!――あなたはキリスト教徒ではない。キリストそのものに戻りなさい」と。

 これらの強烈な言葉は、アメリカ人の聴衆(主としてキリスト教徒)の前で雷のように轟いたけれども、他の宗教の信者たち(ヒンドゥイズム、仏教を含めて)の場合にも等しく当てはまる。

 最後に、私は、――そして世界の多くの人々が――ヴィヴェーカナンダは今なお私たちとともに生きて、私たちを励まし、霊感を与え、導いていると信じている。といのは、彼は次のように言っているではありませんか。

 「私は、着古るされた着物を脱ぎ捨てるように、私の体を脱ぎ捨てることがよいことだと知る時がくるであろう。しかし、私はその時でも仕事をすることを止めないであろう。世界の人々が、世界は神と一心同体であると知るようになるまで、私はあらゆるところで人々を励ましつつけるであろう」と。

 いったん日本人が彼の生涯と教えを知るならば、同様に、かれは、日本の人々をも励まし、霊感を与え、導きつづけるであろう。なぜならば、彼はインドに属するだけでなく、信条や皮膚の色や、国の違いを越えた人類に属しているからである。彼の次の言葉を引用しよう。

 「確かに私はインドを愛している。しかし、日に日に私の洞察は、明瞭になってきている。私たちにとって、インド、あるいは、イギリス、あるいは、アメリカとは何であるか? 私たちは、無知なる人々によって「人間」となづけられている「神」に奉仕する召使いなのである。……」

 ヴィヴェーカナンダのアメリカ人に対する厳しい警告は、あれほど強力で、真実であったにも関わらず、アメリカにおける宗教的な雰囲気が幾分でもよい方向に変化したであろうか、それはアメリカ社会を苦しめている諸悪を終焉させえたであろうか、と読者が問えば、私は、その事実を認めて答える。

 その答えは「然り」同時に「否」でなければならない。識別力ある観察者には、あきらかに改善に向かっての目に見える変化があったし、それと同時に、――それはより重要なことであるが――この衝撃は、ヴィヴェーカナンダの生涯と教えのさらなる普及あるいは宣伝によって着実にその土壌を獲得して成長してきていることは明らかである。それは、ユートピアが生まれるであろうなどと言っているのではない。人間の性質を考慮するならば、ユートピアの世界の実現など見込みがないことである。

 しかし、私たちはヴィヴェーカナンダの上述した約束から希望と霊感を得ることができる。私がたった今引用した、ヴィヴェーカナンダの言葉(……私は世界が神と一心同体であると……)に、驚くべき、非常に霊感的な示唆に富んだ意味がある。――それは、「世界は常に、多かれ少なかれ、同一であるが故に、そこからおのずと帰結するところは、ヴィヴェーカナンダは、人間が神を悟ることを助けるために、永遠に繰り返し、生まれるであろう」ということを意味している。

 ヴィヴェーカナンダは、まさに次のように祈っていたのだ。

 「私は、私だけが救われるという願いを全く放棄している。……もし私が、すべての魂の総体である、私が信じている唯一の神を礼拝することができさえすれば、どうか私が、繰り返し繰り返し生まれ、何千という不幸に苦しみますように! 私の神、邪悪なもの、私の神、苦しめられているもの、私の神、すべての人種種族の中の貧しきもの、――それが私の礼拝の対象そのものである」と。

 この中に、ハートそのものからでている、すべてを包含する人間への愛をもった彼の偉大さがある。何という素晴らしい崇高な祈りであることよ!

 要約すれば、それ故、私は、「宗教」の未来は、等しく日本人が、この難局に対処するならば、日本においてもまた、非常に有望であると考えている。そして、学者、哲学者、社会の指導者はこのような方向に先導しなければならない。それはあまりに過大な要求なのであろうか?
   


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